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「今日は友達と映画を観てくるから、帰りが遅くなる」 自分の耳を疑った。 「イバラ?」 「あ、ごめんね、ぼーっとしてた。うん、分かった。夕飯はどうする?」 「イバラと食べる」 「ん、了解。それじゃあ気をつけて行ってらっしゃい、お嬢様」 その日は霧のような雨が降っていた。 もしもし、あのね プルルルル、プルルルル、カチャ。 「もしもし」 「あ、本当に繋がった」 「・・・兄さん。用も無くかけてきたのなら、切らせて貰うが」 「ごめんなさい、用はあります」 「どうしたんだ?彼女に何かあったのか?」 「え、どうして分かったの?!」 「(この人は俺のことを馬鹿にしているんだろうか)」 「もしもし?」 「・・・それ以外に、兄さんが連絡をしてくる理由を思い付けない」 「う、それはそれで僕が薄情な兄みたいなんだけど」 「実際、何年会ってなかったと思っているんだ?」 「・・・サクがマリに会う前?」 「そう」 「・・・・・・四捨五入して30年くらいかな?」 「覚えてないから知らない」 「答えが無いまま聞いたの?ひどいやっ」 「(どんどん幼児化している気がするんだが・・・気のせいか?)」 「まぁいいけどさ。それでね、聞いて欲しいのはマリの事なんだけど」 「(放っておけば勝手に話して勝手に納得して勝手に切るかな)」 「最近マリがね、自分の洗濯物は自分で洗うって言い出したんだよ。反抗期かな?僕のと一緒に洗って欲しくないってことかな?」 ガチャ、ツーツーツー。 プルルルル、プルルルル、プルルルル、カチャ。 留守番電話サービスに接続致します。 合図の音がしましたら、 ガチャ。 プルルルル、プルルルル、プルルルル、カチャ。 「・・・兄さん、俺は忙しい」 「サク冷たい・・・」 「・・・・・・」 「お腹に穴が開いたのは流石に痛かったな・・・」 「・・・・・・で?」 「・・・聞いてくれる?」 「早く話さないと切る」 「あのね、洗濯を自分でするって言い出して、お弁当もたまに自分で作ってるんだ。不器用ではらはらするんだけどさ、そこがまた可愛くてね、」 「(惚気られて喜ぶ趣味は無いと、そろそろ言った方がいいかもしれない)」 「自分の部屋以外の掃除もするようになったし、どうしたのかな、って」 「・・・・・・」 「極め付けが、今日は友達と映画を観て来るから帰りが遅くなる、だよ?」 「・・・へぇ、意外だな」 「どうしよう、サク」 「何がだ?」 「マリ、僕のこともう要らないのかな・・・」 「(迂闊に肯定も否定もできないな)」 「去年の冬くらいから、今まで僕がやっていた家事を自分でしようとするんだ」 「(・・・それ、今まで兄さんが甘やかしすぎていただけで、普通の事じゃないのか?)」 「どうしよう・・・」 「(久しぶりに、兄さんのこんな落ち込んだ声を聞いた気がする)」 「・・・・・・」 「・・・・・・」 「・・・ごめんね、サクに甘えたくなくて離れたのに。結局こうやって弱音吐いて」 「それは別に構わない。兄さん、別に彼女がしているのは当たり前の事で、兄さんがそうやって気にする事は無いんじゃないか?」 「うん。僕のワガママでマリがやらないように仕向けてただけなんだけどさ」 「彼女にだって彼女の世界が在るんだから、構いすぎは良くない」 「なんだか子育てしてるみたいな台詞だよ?」 「だとしたら、兄さんのやり方は世間の親より甘やかしすぎだ」 「そうなんだけどね」 「・・・・・・」 「失くしたくないだけなんだけどなぁ・・・」 「・・・やり方を間違えてでも?」 「うーん、サクは厳しい」 「こうして惚気のような話を黙って聞いているだけ、良い方だと思う」 「うん、そうだね。ありがとう、サク」 「それに、本当に気になるのなら彼女に直接聞く方が建設的だと思うが?」 「それが出来ないから、こうして電話したんだよ」 「それもそうか。でも、いつまでもはぐらかしてばかりじゃいられないだろう?」 「・・・うん。そうだね」 「・・・すまない兄さん、そろそろ行かないといけない」 「あ、うん、忙しいのにごめんね。ありがとう、サク」 「嫌だったら電話にでない」 「ん。それじゃあ行ってらっしゃい、サク」 「ああ。それじゃあ、また」 ガチャ、ツーツーツー。 「君だって十分僕に甘いじゃないか」 弟の優しさは真綿のようではないけれど、掬うべき所できちんと掬ってくれる。 それが温かくてくすくす笑いながら、受話器を置いた。 ふとリビングの大きな窓から外を見遣る。 今朝方降っていた霧雨はいつの間にか上がり、水に洗われた街が雲の上から降り注ぐ薄い日差しに照らされていた。 「さて、今日の夕飯はどうしようかな」 要らないと言われるまでは、自分にできることを可能な限りしたいと思う。 強制されたからではなく、今は居ない彼女に頼まれたからでもない。 これは自分の願いであり、エゴだ。 |