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緑の葉が、陽の光を弾く季節。 煌くその世界の中で、最上階角部屋も変わらず光を受けていた。 贖わないで、躊躇わないで ぶぉぉぉぉぉぉぉ ずごっ ずっずずっおぉぉぉぉぉぉ 「ちょ、マリ?!何の音!!!」 「え?」 「掃除機、何の音っ?!」 「あぁ。何か吸った」 「と、とりあえず電源切って!」 カチリと音をたてて電源ボタンをオフにすると、奇怪な音を奏でていた掃除機が動きを止めた。 それに伴い音が収束して、彼の声も聞き取りやすくなる。 「ちょっと貸してね」 隣の部屋から飛んできた彼は、エプロン姿で片手に雑巾を持っていた。 眩しい青空を映す窓を背景に、真昼の日差しを受けるその姿は保育士のようだ。 そんなこちらの思考など知る由も無く、彼は深い色のフローリングへ跪き、掃除機を分解して音の原因を調べている。 「あ、こんなの吸っちゃったの?駄目だよ、マリ」 くすくす笑いながらその手が取り出したのは、棚の下に落ちていたらしいハンカチだ。 「だって、気付かなかったんだもの」 「う、まぁそうなんだけど」 「ゴミを選んで吸わない掃除機が悪い」 「うーん、そうすると掃除機にも人工知能を導入する必要があるのかな?」 それか、埃は吸う、ハンカチは吸わない、ってあらかじめインプットできるようにするとか? 小さく笑い続けながら言う彼は、何故だろう、楽しそうだ。 それが不思議で横顔をじっと見ていたら、それに気付いたらしく、首を傾げられた。 「ん?どうしたの?」 「・・・なんでもない」 「変なマリ」 変じゃない、と言い返そうとした瞬間、口付けられる。 軽く触れる程度だったけれど、それでも癖なのだろう、そっと舌で唇を撫でてから離れた。 その癖が、どうして癖になったのか、最近になって漸く気付いた。 「さ、早く掃除、終わらせちゃおう」 掃除機を組み立てなおした彼は、先に立ち上がって手を差し出してくる。 それをじっと見詰めて3秒。右手を乗せると、柔らかく掴んでこちらの体を引っ張りあげた。 家中の窓という窓を全て開けているせいか、足早に風が吹き抜けていく。 窓の端でまとめた深い青のカーテンも裾が踊り、楽しげだ。 大型連休の殆どを使って衣替えと部屋の大掃除を行い続け、最終日の今日は床掃除をしていた。 わたしが掃除機で埃を撤去して、彼が雑巾で拭くという単純作業。 とはいえ、3LDKも広さのある家だ。 2人で全ての部屋の床掃除を行うにはそれなりに時間がかかる。 彼の部屋、わたしの部屋、リビング、廊下・・・深い色のフローリングが磨き上げられていく様を見詰めながら、ふと自分の手を見詰める。 半年前は、滑らかだった指先。 今ではほんの少しだけ、水仕事のせいで荒れていた。 「マリ、次は何処を拭けば良い?」 「こっち」 「了解、ありがとう」 額に落とされる唇をやり過ごしてから、再び掃除機をかけ始める。 理由は分からないけれど、彼の食事が唾液から血液に変わった後の方が、口付けられる回数が多いような気がした。 食事にならないのに、どうしてだろう? 深く考え込むより前に、彼の言葉が飛んでくる。 「マリ、こっち終わったよー!」 だから、結局答えは見つからないままだった。 眩しい日差しが身を潜め、世界が橙に染まる頃。 ようやく掃除が終わりへ辿り着いた。 黴ひとつない空色の浴室、磨き上げた鏡が光る洗面台、拭き上げた床、焦げを綺麗に落としたコンロ。 いつも以上に清潔な室内を一通り見て回ってから、リビングに戻り、白いソファへ倒れこんだ。 自覚はあったけれど、やはり体力が無い。 疲れ果てた体を柔らかな波間へ沈め、瞼を落とす。 カタカタと届く小さな音は、彼がキッチンで夕飯を作っている音だ。 自分以上に大変な作業をしていた筈なのに、どうして更に別の作業を続けられるのだろう? 手伝わなければ。 そう思うけれど、反比例するように意識が重く沈んでいく。 「マリ?」 遠くで、低く柔らかい呼び声。 けれどそれは、意識を留めようとするどころか、沈む方向へと誘った。 「疲れちゃったね。ご飯ができたら起こすからね」 おやすみ、そして体が毛布に包まれる感触。 もしかすると、頬にも口付けが落ちたかもしれなかった。 そっと体を揺らされて意識が浮上した時には、世界が闇に染まりきっていた。 瞼を押し上げると、申し訳なさそうに眉を下げた彼の顔が、星明りに浮かぶ。 何時かと問うと、既にそれは真夜中と言える時刻だ。 「・・・眠い」 「お腹は空かない?」 「う、ん」 「じゃあご飯は明日の朝用意するから、ベッドで寝ようね」 彼の右腕に助けられて体を起こすと、簡単に閉じようとする瞼を上げ続けることに全力を傾けた。 その言葉のまま、すぐにでも寝てしまいたい。 きっと意識を手放したとしても、彼はこの体をベッドまで運んでくれるだろう。 けれど。やらなければいけないことがある。 右手で右目を幾度かこすり、ぼんやりと彼の顔を見遣った。 そこには相変わらずの深い紫が在る。 「イバラ・・・」 「ん?」 「お腹、空いてるでしょう?」 電気の消えた部屋だ。 レースのカーテンだけを閉めたリビングは、窓から入る街の灯りと星の光だけでその輪郭を浮かび上がらせていて、彼もその例外ではない。 本当は、うまく見えないはずの顔。 けれど今、それは悲しそうに歪みかけて、ぎりぎりの所で微笑んだ気がした。 「いいよ、食べて」 返事を聞く前に、着ていたシャツの釦を外す。 素肌が外気に触れて一瞬震えが走ったけれど、それを無視して彼へ腕を伸ばした。 躊躇いがちにそれを受け入れた彼は、引き寄せられるままだ。 連日の掃除で、彼も等しく体力を消耗している。 ただでさえ前回の食事はかなり前で空腹の筈なのに、それでも彼は自分から触れてこなかった。 「イバラ?」 そっと名前を呼んで柔らかな髪へ触れると、その細い肩が小さくはねる。 それに頓着せず、そのまま頭を抱き寄せて、胸元へ持ってきた。 そして漸く、皮膚へ触れた唇。 自分以外の温かさだというのに、不思議と嫌悪感は無い。 躊躇いがちに開かれた口は、何度も牙を肌に突き立てようとしては、閉じられた。 上手く働かない脳はそれを認識するけれど、それ以上には働かなかった。だから、ずっとその状態のまま。 離すつもりは無かったから、何も言わずに待ち続ける。 かち、かち、と、時計の秒針だけが鮮明に響いていた。 そうしてどれだけ時間が過ぎたのだろう。 漸く意を決するように彼の腕が背中へ回されて、 「ぅ、あ・・・」 皮膚へ、牙が侵入してきた。 こくり、こくり。 ゆっくり動く彼の喉を感じて、全身の力が抜ける。 何時まで経っても慣れない、感覚を失っていく感覚。 一瞬のようでもあり、永遠のようでもある、その、間。 それが終わって牙が外れた瞬間に、少しだけ戻る感覚が拾うのは、いつだって同じだ。 皮膚へ開いた穴から細く流れ出る血液を拭う、舌。 「ありがとう、マリ」 掠れた声が耳元で言い、そのまま額へ口付けられた。 意味のないその行為には、どんな意味があるのだろう。 「ん・・・」 毛布の中で身じろぎをして、今度こそ沈む意識をそのままにした。 動かす事さえ億劫な体が捉えたのは、抱き上げられた浮遊感。 「いつも無理をさせてばかりで、ごめんね」 その言葉は、きっと空耳。 わたしは食糧なんだから、彼が謝る必要は無いのだもの。 最後に降ってきた気がするのは、唇への口付けだ。 離れる時は勿論、舌でそっとなぞっていく。 その癖は、その仕草は、皮膚に伝う血を拭うもの。 彼が命を奪った数だけ、何度も繰り返したのであろうその行為。 それに気付いてしまってから、与えられる口付けに比例して彼が傷付いているような気がして、何度も拒絶しようとした。 そして何度も失敗した。 そんな簡単な事さえ出来ずにいるわたしは、やはり、ただの食糧でしかない。 |