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最初の日と、最後の日。 そう、確かに空は、憎らしいくらい青かった。 夕焼け小焼けでまたあした 「悲惨なお弁当ですね」 唐突に左横から言われて驚いたものの、肩が震えるのだけは我慢した。 そして、振り向こうか振り向かないか、悩む。 振り向いたら、それを認めることになるからだ。 けれど声の主は、振り向くより先に前へ回り込んできて、改めてお弁当箱をしげしげと覗き込んできた。 とても失礼な気がするけれど、遠慮がこれっぽっちも無いのがいっそ清々しくて、つい何も言えなくなる。 玉子焼きがスクランブルエッグになっている、だの、ウインナーが焦げている、だの、その割に煮物がとても美味しそう、だのと好き放題に言った少年は、不躾なこちらの視線に漸く気付き顔を上げた。 色素の薄い髪がさらりと流れ、それに縁取られた顔は笑んでいる。 整った造作だけれど、その瞳の奥は簡単には読み取れ無さそうだった。 狸か狐か、仮面舞踏会か。 どう転んでも食えない人種だ、と素早く判断をすると、どうも、とだけ言ってさっさと食事を始めた。 頭の中でしぶい秋の果物の隊の曲が流れたのは、放っておこう。 夏以外は滅多に人の来ない、プールの傍にあるベンチだ。そこで葉桜を見上げながら優雅にランチだというのに、邪魔をされては堪らない。 確かに、教室で食べるには気の引けるお弁当箱の中身だったから、という理由も無くは無いが、此処に居る一番の理由は、花見がしたかったからだ。 さわり、さわり。 風が吹いて木の葉が揺れ、緻密な模様が地面へ描かれる。 静かな昼時。 けれど、それはすぐに右隣からの声で壊された。 「先輩はどうしてこんな所でご飯を食べているんですか?」 あろう事か隣へ座った狐モドキは、そこで自身の弁当箱を広げている。 そちらを横目で見遣って威嚇すると、案の定にこりと微笑まれた。 視線を外し、ちらりと上履きの色を確認する。 黄、ということは、一年生の筈だ。 対する自分の上履きは、青。 それを確認して先輩、と言ってきたのだろうから、やはり自分の判断は正しかったらしい。 「賑やかな場所でご飯を食べるの、好きじゃないの」 素っ気無い返事をして、再び箸を口へ運んだ。 確かに玉子焼きは上手く巻けていないけれど、味は自分好みの甘さだ。 不味くは無い。 要は、食べられる味であることが大切なのである。 「俺も、あまり賑やかなのは得意じゃないんです」 だから此処で食べますね、そう言ったきり、狐モドキは話し掛けてこなかった。 プールの傍の木陰にあるこの石のベンチは、校舎からはなかなか見辛い位置にある。 黙っているならいいか、と自分を言い聞かせ、ただただ単調に食事を続けた。 ちらりと盗み見た隣のお弁当箱は、色とりどりの美味しそうなおかずが詰まっている。 きっと母親が作ったのだろう。息子の体を気遣う意図が、そこから滲み出ているような気がした。 真っ青な空から降り注ぐ日差しが、ひたすら照りつけてくる。 煮付けた里芋の表面が、艶やかに輝いた。 「あれ、今日は普通のお弁当ですね」 翌日、狐モドキは再び現れた。 声に反応して顔を上げると、そこには相変わらず真意の見えない笑顔がある。 「こんにちは、叶谷先輩」 何処で調べてきたのだろうか。 あまり好きでない苗字で呼ばれ、思わず眉を顰めた。 それに気付いているのに笑顔を崩さず、狐モドキは首を傾げる。 教室に居る男子生徒と比べると、長い部類に入るであろう髪がさらさらと風に揺れた。 一番上の釦だけ外されたワイシャツの隙間からは、綺麗な首筋が伸びている。 きっと教室では、勉強ができて運動もそこそこ、学級委員長にはならないけれどいざという時に頼られる優等生、オプションで割とかっこいい、という肩書きがあるのだろう。 勝手ながらそこまで想像すると、自分とは正反対の人種だから関わるべからず、と判断をした。 要らぬ苦労は負わない方が良いにきまっているのだ。 「苗字で呼ばれるの、好きじゃないの」 名指しで呼ぶな、と言外に伝える。 「じゃあ、なんて呼べば良いですか?」 それを無視して、返された。 この狐モドキめ、と強めに睨む。 けれどそれさえ軽く受け流し、少年はベンチの隣へ座ってきた。 「三年二組、叶谷まりあ先輩。部活の先輩に聞いたら、すぐに分かりましたよ?」 「暇なのね」 「俺は興味のある事に対しては時間を使うことを厭わないだけであって、暇では無いです。家庭科が苦手なのかなって思ったら、案の定のようですね」 割と有名でした、と、くすくす悪意無く笑いながら言われたから、言い返す気にもなれない。 そして家庭科の調理実習や裁縫では散々な結果を叩き出している為、文句も言えない。 「・・・良いでしょ、別に。貴方に迷惑をかけた訳じゃないわ」 それだけ言って、食事を再開した。 狐モドキもそれ以上は特に何も言わず、お弁当箱を膝の上に広げて食事を始める。 そのお弁当も色とりどりで、自分のお弁当も彼が作ったから色とりどりで、そういえばどうして彼はいつもここまで丁寧に作ってくれるのだろう、と不思議に思った。 帰って彼に聞いてみたら、不安そうな顔で、栄養バランスが良い方が良いと思っていたんだけど、嫌だった?と逆に聞かれた。 だから首を横に振って、手間がかかるのにどうしてか不思議に思っただけ、と伝える。 すると彼はいつものようにくしゃりと微笑んで、手間じゃないよ、と言った。 そうして伸びてきた腕の中に閉じ込められながら、思う。 そうか、栄養がきちんととれている方が、きっと血液も、彼の食事も、美味しいのだろう。 彼の体は、前よりもほんの少しだけ温かくなった気がした。 それから数日、毎日のように狐モドキはやってきて、隣に座ってお弁当を食べていた。 そして、最初に嫌だと言ったのにも関わらず、苗字で呼んでくる。 「いい加減にしてくれないかな?」 「何をですか?」 「苗字で呼ぶの」 「じゃあ、まりあさんって呼んで良いですか?」 してやったり、という笑顔で言われた。 もうどうでも良くて、勝手にすれば、と言う。 「まりあさんて呼んだら、ちゃんと振り向いて下さいね」 最後に念を押すように言われ、もう、頷く以外に反応の仕様が無かった。 そして彼は翌日、今まで苗字で呼んでいたお詫びに、と言って、タッパーに入ったマフィンを持ってきた。 あまりにも美味しそうだったので、思わず受け取ってしまった。 バナナとチョコチップのマフィンと、ラズベリーのマフィン。 案の定それはとても美味しくて、やはりそこにも、息子を想う母親の愛情が透けて見えた。 母親の愛情というものがどういうものか、よく分からないから想像だけれど。 多分、こういうものなのだと思う。 翌日は、雨。 流石に雨の日にまで屋外でお弁当を食べる趣味は無いから、仕方無しに鍵のかかった屋上の扉の前で食べた。 薄暗くて埃っぽいけれど、構わなかった。 ざぁぁぁ。 屋上に叩きつける雨音が響く。 春の雨は肌寒くて、冷たい床にぺたりと触れる足をもいでしまいたくなった。 「ごちそうさまでした」 呟く声が、響く。 いつもだったらここで、ちゃんと噛んで食べましたか?とか言葉が飛んでくるのに、今日はそれが無かった。 お弁当箱を片付けて、小さな桃色の手提げへしまう。 それとは別にもう一つある、タッパーの入った紙袋。 マフィンの入っていたそれには、彼が作ったクッキーを詰め込んできた。 「・・・餌付けられてしまった」 構わなかった、筈なのに。 独りで食べるお弁当に、すでに違和感が生まれてしまった。 そういえば、彼と暮らし始めた頃。 要らないと言っても毎日のように用意される、朝食に、お弁当に、夕食に、結局は慣れてしまい、一緒に食卓を囲むようになった気がする。 六限の終了後、雨は上がり、雲の切れ間に空が覗いていた。 普段は絶対に近付かない、北校舎の二階。 一年生の教室が並ぶ廊下で青い上履きの裏をぺたりぺたりと鳴らして歩くと、自然と目立ってしまった。 とはいえ、来てしまったのだから、後に引くのも馬鹿らしい。 どのクラスかも、名前さえ知らない狐モドキを見付ける為に、ゆっくりと歩きながら教室の中を確認した。 整然と並べられた机と椅子、前には黒板、後ろにはグレーのロッカー。 置いてあるものは同じ筈なのに、学年が、クラスが違うだけで受ける印象が大きく変わるのは、常々不思議だと思う。 大きく開け放った窓の向こうには中庭。そこで円になってバレーボールをする生徒たちの歓声が、空気を揺らした。 そちらの方からふわりと風が入り、背中に流したままの髪が舞う。 それを煩わしく思いながらふと前を見ると、廊下の向うから、探していた相手が歩いてくるのが見えた。 雲の隙間から、淡い日の光。 それに照らされながら歩く狐モドキは、相変わらずの、真意が読めない瞳だ。 けれど隣に居る友達と笑い合う様子は、とても年相応に見えた。 しまった、邪魔をしてしまう。 反射でそう思い、踵を返した。 背中を向ける直前に目が合ったけれど、気付かなかったことにして、歩き出す。 ぺた、ぺた、ぺた。 青い上履きは、相変わらず浮いていた。 あんな風に笑い合える友達が居るのなら、わざわざプールの裏でお昼ご飯を食べる事なんて無いのに、どうしてだろう、と不思議に思う。 「まりあさん、」 友達付き合いが煩わしいから? いや、そんな風には見えない笑い方だった。それに、もし煩わしいのだとしても、それさえ隠し通して演じ続けるくらいの事は出来そうだ。だって、狐モドキだもの。 「まりあさん、無視しないで下さい」 そういえば、光に透ける髪は茶色がかっていて、綺麗だった。 もし今度があるのなら、触らせて貰おう。 「まりあさんってば!」 「え?」 語尾の荒い声と、ぐいと引かれた手首で、ようやく呼ばれていたことに気付いた。 驚いて振り向くと、そこにはほんの少し不機嫌そうに眉をしかめた、狐モドキ。 「どうしたの?」 つい瞬きを多くしながら問うと、狐モドキは一瞬びっくりしてから、深い溜め息を一つついた。 そして、ゆっくりと手首を離しながら口を開く。 「どうしたのって、それ、こっちの台詞ですよ、まりあさん」 「そう?」 「だって、まりあさんが北校舎に来るなんて驚きましたよ」 「・・・そう、かも?」 「そうですよ。必要最低限の自分の行動範囲にしか出没しない感じですもん」 出没、と言われると、自分がツチノコか何かになったようだ。 けれど確かに、基本的にはいつも行く場所、必要な場所にしか行かない。 「そう、かも」 確かめるように言うと、でしょ、と言って微笑まれた。 北校舎と南校舎を繋ぐ渡り廊下の端っこで、次第に夕焼けに近付き始めた日差しに照らされるその様子は、ひどく無防備だ。 白い柱の間を、強い風が吹き抜ける。 「それで、どうしたんですか?」 「え?」 「だって、俺に用事以外で北校舎へ来る理由、あるんですか?」 自意識過剰だ、と言ってやりたいけれど、その通りだ。 悔しくて視線を逸らしてから、微かに頷いた。 「・・・・・・無い」 「ほらみろ。顔を見た瞬間いきなり逃げ出すから、何かと思いましたよ」 「だって、邪魔でしょ?」 「邪魔?」 「お友達と話していたのに、わたしが話し掛けたら邪魔でしょ?」 何を当たり前のことを不思議がっているのだろう。 そう思いながら、彼よりは低いものの頭三分の二以上は高い位置にある顔を見上げると、それは再び驚いた表情をしていた。 今日は鉄壁の笑顔が崩れっぱなしだけれど、どうしたのだろうか。 けれど、ざまみろ、とも思う。 狐モドキから、なんちゃって狐、へ降格させようか。 そんな事を考えていると、瞼を閉じて再び深い溜め息を吐かれた。 そしてその綺麗に伸びた人差し指が、考え事をするようにこめかみを押さえている。 「まりあさん、もしかして自意識が高いんじゃなくて、低いから独りで居るんですか?」 「え、なぁに?」 上手く聞き取れなくて首を傾げると、三度目の溜め息。 そしてゆっくり開かれた瞳は、柔らかな苦笑を形作っていた。 「・・・なんでもないです」 「?変なの。いつもだったら、いけしゃあしゃあと言うくせに」 「素直なんです」 「ものは言い様だね」 「それで、俺にどんなご用事ですか?」 逸れていた会話が、唐突にスタート地点へ戻される。 その唐突さは、困った時に会話を逸らす彼のやり方と似ていたから、対応が遅れることは無かった。 「はい、これ」 「なんですか?」 紙袋を差し出すと、狐モドキはそれをきちんと受け取って中を覗きこむ。 「昨日貰ったマフィンの入っていたタッパー」 「ああ、これを返す為にわざわざ?」 「そう。中身があまり日保ちしないから、今日中に渡したくて」 「中身?」 そう言いながらタッパーを取り出して蓋を開け、そこに入っていたクッキーを認めると、狐モドキは嬉しそうに笑んだ。 「ありがとうございます。わざわざ作ってくれたんですか?」 「・・・わたしに作れると思う?」 「思っていません。わざとです」 臑に蹴りを喰らわせるのは、我慢した。 「・・・同居人が作ってくれた、昨日のおやつ。おすそ分け」 「美味しそうですね」 「美味しかったよ」 「では、遠慮なく頂きます」 小さく腰を曲げて礼。 その律儀さがくすぐったくて、どういたしまして、と口早に言った。 吹奏楽部の練習の音、バレーボールの歓声、グランドで練習をしている運動部の声、帰り際の浮かれた話し声。 様々な音を背景にして、狐モドキは眩しそうに空を仰いだ。 「明日は晴れそうですね」 「そうね」 「お弁当、作ってくるんですか?」 「検討中」 「あのひどいお弁当、今度写メを撮らせて下さいね」 気付けばいつも通り、真意の見えない笑顔。 くすくす笑って言われたけれど、再び臑へ蹴りを入れるのは我慢した。 「それじゃあ、俺は部活に行くので」 「うん」 「まりあさん、また明日」 また、明日。 そうか、明日も相変わらずやって来て、相変わらずお弁当へコメントをして、相変わらずベンチの隣に座ってお昼ご飯を食べるつもりなのか。 「ねぇ」 「何ですか?俺が居るの、嫌ですか?」 「嫌って言っても止めないくせに」 「確かに。まりあさんも、俺に詳しくなってきましたね」 「だから名前、教えて」 「え?」 狐モドキ。 流石に名前を覚えないと、面倒な気がして、聞いた。 「な、ま、え、」 強調するように言うと、狐モドキは、あぁ、まだ言ってませんでしたっけ、と言って自身の名前を口にする。 それを諳んじて、咀嚼して飲み下した。 考えること、5秒。 「じゃあ、いっくん」 彼以外に与えた、初めての名前。 予想外だったのだろう、つけられた渾名に目を丸くした狐モドキは、けれどすぐに笑みを浮かべた。 「まりあさん、実は普通の女子高生なんですね」 条件反射で、上履きの黄色いゴムの部分を踏んでやった。 何をどう捉えれば普通の女子高生という言葉が出てくるのかが分からないけれど、なんとなく茶化された気がして、二度も臑への蹴りを我慢した足が、勝手に動いたのだ。 「帰る」 「気をつけて帰って下さいね」 飛んできた言葉は、既に背中で聞いていた。 しばらく後ろから視線を感じていたけれど、彼も時間があるのだろう、踵を返して校舎へ戻る気配がする。 南校舎へ入る直前にふと振り向くと、そこには無人の渡り廊下があった。 「また明日、か」 口の中で、言葉を転がす。 茜色に染まる空の下、それはその日最後の光を浴びて、輝いているように思えた。 |