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彼らが穏やかに暮らせればいい。 日溜りのソファ 「はい、これつけてこれ持って」 ぽんぽんと手渡されたのは、白いエプロン、小花柄のバンダナ、そしてはたき。 エプロンは身につけ、バンダナは半分に折って三角巾のように頭に括りつけた。そして右手に持ったはたきで、棚や電気の傘の上から埃を落とす。 その姿をしばらく眺めていた兄は、くつくつと笑い始めた。 兄の体に風穴を開け、兄の隣にいる少女を三日間の意識不明に追いやった償いとして、何故か数日間だけという制限の元、家事を手伝うことになったのだ。 だから、その笑いも罰の一つとして受け止める。 憮然とした顔でそれを続けていたら、腹を抱えてひぃひぃ言い出した兄は、ごめん辛いから買い物に行ってくるね、と言って家を出て行った。 取り残されたのは、丘の上のマンション、日差しの眩しい最上階角部屋のリビング。 手を抜いたところで、怒られはしないだろう。 けれど律儀に掃除を続けた。 必要最低限の物しか無い部屋、清潔に片付けられたキッチン、夕日の入る空色のバスルーム。 ベランダで、洗濯物が風に吹かれて揺れていた。 その景色に、何故か泣きたくなる。 それは、大切に使い古した湯飲みの色褪せた柄、何度も身に付けて外れてしまったシャツの釦、取り壊されて新しくなった公園のブランコ、今年も咲いた桜の吹雪、そういうものを見ている時と同じ感傷だ。 窓を開けると、吹き込んでくる冬の風。 それでも変わらない日の光が、窓辺に置いた白いソファと、ソファテーブルの上に置かれた紫色の花を照らしていた。 埃を落とし、床を拭きあげ、洗濯物をとりこんで畳んだ。 よし、と呟き、次は何をしようと立ち上がって辺りを見渡す。 その時、ガチャリ、と玄関の開く音と、ただいま、という小さな声が聞こえた。 兄ならきっと、おかえりなさいを言いにそちら小走りで向かうのだろう。その姿が容易に想像できて、苦笑した。 かくいう自分は、きっとそれをしても喜ばれないだろうから、そのままリビングで待つ。 数秒後、高校から帰宅した少女は、静かに廊下とリビングを繋ぐ扉を開き、こちらに気付いた。 「おかえりなさい、マリ、さん?」 小首を傾げて告げると、少女はその場に立ったままこちらを凝視した。 どこか驚くことでもあったのだろうか、と思ってから、自分の格好に気付く。 兄に言われるがままに身に付けた、白いエプロン、小花柄の三角巾、のままだ。 たっぷり三十秒。 少女は込み上げる笑いを堪える微妙な顔を引っ込めて、ただいま、と言った。 笑いを堪えたのは、少女自身の矜持の為だと断言できる。 大笑いをする姿が、とてもじゃないけれど、想像がつかないのだ。 「さんは要らない。イバラは?」 「兄さんは、笑いを堪えるのが辛いからと言って買い物に行った」 また、微妙な沈黙が落ちる。 「・・・・・・そう」 そしてそのまま、少女は自分の部屋へ消えていった。 そこで枕に顔を押し当てて大笑いをしているのだろうか。そう思ったら、なにやら自分が悲しくなって、エプロンと三角巾を外した。 出掛ける直前、今日の夕飯はグラタンを作る、と兄さんが言っていた気がする。 タマネギを切っておくくらいはしても良いだろう、と判断をして、次はキッチンへ向かった。 流しの下に仕舞われた籠の中からタマネギを二つ取り出すと、皮を向いて、刻み始める。 そういえば、兄さんはタマネギを切る時はいつもボロボロ涙を流していたな。 昔の記憶が脳裏を掠め、口元が緩んだ。 ふと視線を感じて顔を上げると、部屋着にしているらしいもこもこのセーターとだぼだぼのジーンズへ着替えた少女が、キッチンの入り口に立っていた。 「どうかしたのか?」 「・・・どうして家事、やってるの?」 「ああ、兄さんに手伝えと言われて。それにしても、兄さんが料理の達人になっていてびくりしたが」 肩をすくめてみせると、少女はその大きな瞳をぱちぱちと何度も瞬かせる。 「料理、昔から上手だったんじゃないの?」 「いや、昔は人間が食べられないものを作っていた」 人間が食べられないもの、の想像をしているのだろう、少女の視線が宙を泳ぐ。 そして、とてもとても嫌そうな顔をした。想像力が豊かなようだ。 「サクはそれに付き合ってたんだ」 「いや、食べられなかった」 更に嫌そうな顔をする。 その様子が妙におかしくて、つい笑ってしまった。 視線をまな板に戻し、再びタマネギを刻み始める。 とん、とん、とん、とん。 我ながら軽やかな音で、このままグラタンも作り始めてしまおうか、と思い、冷蔵庫を確認しようと包丁を置いた。 そして横を見ると、少女はまだ、先ほどと同じ場所に立っている。 「何かキッチンに用事が?」 自分に話掛ける為に来た訳ではないだろう、キッチンに何か用事があるのだろうか。 手を洗い、必要であれば一旦この場を離れる準備をした。けれど少女は首を横に振る。 「顔がイバラにそっくりで、面白いなぁと思って」 小さく、見てたの、と付け足された。 そして少女はこちらへ近付いてくると、包丁を奪い、タマネギを刻み始める。 その手つきはたどたどしく、指先は家事を知らない滑らかさだ。 きっと、兄が掃除も洗濯も食事の支度もしているのだろう。 随分な甘やかしっぷりだが、それが兄らしくもあった。 「兄さんは、随分とマリを大切にしているんだな」 「自分の食糧は、大切にするものでしょ?」 命に関わるもの、と呟いた少女の瞳は、タマネギのせいで既に潤んでいる。 兄に見られたら怒られそうだな、と思いつつ、手を出さずに見守った。 そして、予想外だった返答へ言葉を返す。 「いや、確かにマリは血を飲んでも人間のまま生きていられる貴重な存在だとは思うけれど、それとは別の次元で兄さんはマリを大切にしていると思うが」 そう、それはまるで、娘を、妹を、恋人を甘やかすように。 それに兄はいつも笑っているけれど、自分に必要なもの以外は遠慮容赦なく切り捨てていく。 だから、兄は少女を、食糧として、などではなく、大切にしていると思ったのだけれど。 「わたしは彼の食糧だよ。それ以上でも以下でもない」 少女にさっくり切り捨てられてしまった。 まぁ、本人がそう思っているのなら、それでも構わない。 とはいえ、多少兄を不憫に思う気持ちも無くは無い。 「だが、」 一応フォローをしておこうと思い逆説の接続詞を口にしたところで、玄関の方から、ただいま、という声がした。 今度は兄が帰ってきたのだ。 タマネギに涙を流す少女を見遣り、この状況は非常に不味い、と判断する。 けれど、対応の仕方も思いつかない。 慌てるのも無様だし、やましい事は何もしていないのだから、いいか。 結局はそう判断して、当初の予定通り冷蔵庫の中身を探ることにした。 廊下を歩く足音がして、リビングへ繋がる扉が開く。 もう一度、ただいま、と言った兄は、ひょいとキッチンを覗き、動きを止めた。 「・・・・・・マリ?!」 その切羽詰った声に、少女はまな板へ落としていた視線を上げ、兄を見遣る。 「おかえりなさい、イバラ」 目からぼろぼろ涙を流しながら平然とそう言う少女の絵は、若干シュールだ。 「え、な、なんで泣いてるの!サクが何かした?!」 濡れ衣だ。犯人はタマネギである。 けれど、慌てる兄も珍しいから、放っておいた。 「何もされてないよ。タマネギを切っているから、それで」 「サク!今すぐ代わって、マリはこっちっ」 兄はスーパーの袋を無造作にその場へ置くと、少女の手首を引っ張り、玄関の方へ戻っていった。 それを見送ってから、再び冷蔵庫の中へ視線を彷徨わせる。 胸肉、ほうれん草、バター、にんにく。 材料は十分揃っているから、すぐに作り始めることができそうだ。 不意に遠くで、ガシャン、という音がした。 そして、不機嫌な足取りで少女がリビングに戻ってきて、そのまま自室へ入っていく。 それに遅れて、兄もやって来た。 こちらの足取りは、弱々しい。 「・・・兄さん?」 「目、洗って貰おうと思って洗面台に連れて行ったら、余計なお世話だってぶたれた」 嫌われちゃったらどうしよう、と項垂れたその肩は、相変わらず細い。 ため息を一つ、それからその肩に触れてぽんぽんと軽く叩いた。 「兄さん、彼女だって子どもじゃないんだから、そんな風にしたらそれは怒る」 「・・・子どもでいてくれないと、困るんだよ」 その言葉がまた予想外で、意味を咀嚼する為に数秒が必要だった。 どうして兄といいあの少女といい、こうもこちらの考えの想定外を当たり前にいくのだろうか。 「どうしてか、理由を聞いても?」 言いたくないなら構わない、という意味を込めてそう聞くと、兄は天井を仰いで長く息を吐き、そのままずるずると座り込んだ。 「んー、っとね。マリのお母さんが亡くなる瞬間に、僕、マリのことをお願いされたんだけど」 「親が居ないから、兄さんと暮らしているのか」 「まぁ、そんな感じ。で、お母さんね、マリが一人で生きていけるようになるまで、面倒みてって」 再び、飲み下すのに数秒。 そして理解した兄の思考に、なんとなく泣きたくなった。情けなくて。 タマネギを刻み終わり、視線を座り込んだ兄の方へ移す。 体育座りをした兄は、窺うようにこちらを見上げていた。 「・・・・・・呆れた?」 「・・・・・・多少」 要するに、一人で生きていけるようにならないよう、子どもでいるよう、彼女に一切家事をやらせず、自分でこなしているのだろう。 そんな事をしたところで、人間は知らぬところで成長するというのにも関わらず。 「だって、マリ自分で自分の面倒を見れるようになったら、もう要らないってすぐに僕のこと切り捨てそうなんだもの」 「否定はしないが、」 兄の表情が歪んだ。 それで面倒になったけれど、とりあえず最後まで言葉を続けた。 「それ以外に、傍に居る理由を作ればいいだろう?」 「他に理由を?どんな?」 「・・・そもそも兄さんは、どうして彼女と一緒に居たいんだ」 「好きだから。大切だから。笑っていて欲しいけど、叶うなら一緒に笑っていたいし、それを守りたいとも思うよ?」 何をそんな当たり前の事を聞くんだ、と言わんばかりの返し方をされて、心底嫌になる。 惚気るなら余所でやってくれ。 いや、自分が邪魔者なのか。 「・・・彼女にもそう思って貰えれば、一緒に居る理由なんて要らないじゃないか」 とっとと恋人になってしまえ。 そういう意味を込めて言ったら、兄はきょとんとした顔をしていた。 「え、無理だよ。だってマリ、僕のこと嫌い・・・じゃないと信じたいけど、少なくとも好きじゃないでしょ」 もう、殴っていいだろうか。 あれだけ傍に居て、腕の中に閉じ込めて、口付けて、逃げられていないというのに、何をどう考えてそうなっているのだろう。 押し寄せる脱力感を押し留め、リビングを指差した。 「・・・・・・兄さん、グラタンは俺が作るから、彼女に謝ってくれば」 「でも、嫌がられたら、」 「は、や、く、」 低い声で告げると、なんだよ意地悪、と言いながらも、兄はその場から居なくなった。 それに安堵して、大きく息を吐く。 早く出て行こう。 でないと、いつまで忍耐がもつか分からない。 そう決意して、黙々とグラタン作りに励んだ。 中身を詰めたグラタン皿をオーブンに入れたところで、一息つこうとリビングへ向かった。 窓辺のソファへ目をやると、そこには兄と、その腕の中に閉じ込められた少女が、静かに眠っている。 「ああ、もう」 他人のいちゃつく様子を見て喜ぶ趣味は、断じて無い。 けれど風邪をひくのではないかと心配になり、兄の部屋から毛布を持ってきてかけてやった。そんな自分の律儀さに、また悲しくなる。 二人は、とても穏やかな顔をしていた。 そこに居るのが当たり前、なのだろう。 それなのに、どうして二人して、あれほどに考えがすれ違っているのだか。 「不器用だからか?」 吸血鬼なのに血を飲むことに躊躇いを持つ、優しい兄。 親の居ないぶっきらぼうな少女。 色々抱えているものがあるのだろう。 それに関わる気はないから聞かないし、共有もしないけれど。 それでも、願う。 必要最低限の家具、使い古された清潔な食器、太陽の香りのする布団、ささやかに咲く紫の花。 この家で感じる感傷は、ここが、「帰りたい家」の具現だからだ。 帰る場所を持たなかった二人が、必死にこの家を家として育てたのだろう。 そのくせ、お互いすれ違う様が、とても不器用で、とても彼ららしかった。 だから、願う。 彼らが穏やかに暮らせればいい。 眠る顔を照らす空の色は、沈む太陽を抱いて紺碧を孕み始めていた。 「さて、サラダの用意もするか」 毛布が落ちぬようかかっているか確認をしてから、起こさぬよう足音を殺してキッチンへ向かう。 そしてもう一度、冷蔵庫の中身を確認しながらメニューを考えた。 サラダを作り、もう一品なにかおかずがあった方がいいだろう。 飲み物は、兄にはワインを、彼女にはリンゴを絞ったジュースを。 三人で囲むダイニングテーブルが、少しでも温かな記憶となるように。 そう思う自分に呆れて、ため息がでた。 目の端に、光る何かを捉える。 そちを見遣ると、磨かれた蛇口の銀色が、きらきらと輝いていた。 |