深い紫のガラス玉。


いつも在るもの、いつも帰る場所。





目覚めのキス






重い。


浮上する意識が認知したのは、体に巻きつく重さだ。


あぁ、今日はママ、居るんだっけ。


酔っているのかな。優しいと、良いな。


なんだか体、だるいな。




脳と心がシンクロする。
瞼を上げる司令が出され、それを神経が了解する。


ゆっくりと、瞼の裏から外の世界へ、視界が移り変わった。
映るのは、清潔なクリーム色のシーツ、自分の手。そして。


「手?」


大きな、骨ばった、手。


体に巻きついているのもその手と腕で、一瞬、今がいつで此処が何処なのか分からなくなる。
もう一度、深く瞬き。


そして、意識が現実へ追いついた。


「・・・へました」


何が、ママ、だ。


大きく溜め息。
そして、自分を抱き締める腕の中で寝返りをした。


其処には、想定通りの顔。


「イバラ」


声が掠れていた。
それで唐突に喉の渇きを覚えたけれど、無視して目の前の頬に指を這わせる。


「イバラ」


小さく反応する肩。
そして、ゆっくりと瞼が持ち上げられた。


深い紫色が、目の前にある。


「おはよう」


いつものように告げると、彼は二、三度瞬きをした。


「マリ?」
「他に誰が居るの」
「・・・っマリ!」


思い切り抱き締められて、肺が潰れた。


「良かった、やっと起きた、」


耳元で囁かれる低い声。
それは、湿っていた。


「イバラ?」
「ずっと眠っていたんだよ、マリ」
「ずっと?」
「三日間も。でも、やっと起きてくれた」


そうだ、と、突然腕を放され、今度は組み敷かれる体勢になる。


「マリ、喉が渇いていない?食べたいものは?」


ぼたぼたと涙が落下してくるから、それを飲もうかと思ったくらい、喉は渇いていた。


「喉、」
「何が飲みたいっ?」


真剣な目で聞かれる。


「・・・冷たいお水?」


少し考えてから答えると、あからさまにほっとした顔をされた。
そして、良かった、と囁きながら、パジャマのボタンを上から外される。


「イバラ?」
「・・・牙の痕は消えたね」


胸元を見下ろされながら言われ、自分もそちらへ目線を降ろした。
そこには確かに、彼が血を飲む為に差し込んだ牙の跡は残っていない。
けれど、


「切った痕、残っちゃったね」


悲しそうに、眉が顰められた。


「別に、普段見える場所じゃないし、平気」
「でも・・・」
「平気」


言葉を強めて言うと、彼は苦く微笑んだ。
そして唇が、額へ、頬へ、鼻の頭へ、唇の横へ、落ちてくる。


「ごめんね、マリ」


首筋へ、鎖骨へ。
そして、胸の傷跡へ。


「っ」


動物の親が、怪我をした子どもを労わるように、舐められた。
何度も、何度も。


「イバラ、」


引き剥がそうと、その細い肩を両手で掴む。
その瞬間、


「兄さん、此処に居るのか?」


もう一人、彼の弟が部屋へ入ってきた。


しっかりと目が合い、そして、逸らされる。


「・・・すまない、邪魔をした」
「ちがっ」


思考が止まったのだろう、こちらを組み敷いたまま動きを止め、やはり弟の方を見ている彼の鳩尾へ、蹴りを入れた。
その間にも、赤くなった顔を片手で半分ほど隠した彼の弟が、そっと部屋を辞していく。


「こらっ勘違いをっ」


久しぶりに、慌てた。






鳩尾へ走った痛みから回復した彼を、半ば蹴り倒す形で部屋から追い出すと、パジャマを脱いでデニムのワンピースを着た。
冷えたフローリングへ対抗するべく、膝を隠すくらい長い黒の靴下も履く。
そして淡い水色のカーテンを大きく開き、リビングへと出た。


彼と彼の弟はキッチンへ居るようだ。
挨拶をせずに洗面所へ行き、顔を洗って髪を梳く。


三日間眠り続けていただけあって、ほんの少し頬がこけていた。


「これ以上痩せたら不味いかな」


大量に朝ごはんを食べてやろう、と、息巻く。


そして再びリビングへ戻ると、彼の弟がダイニングテーブルへ朝食を運んでいる最中だった。
ばちり、と音がしたのではないかと思ったくらい勢いよく視線が合い、なんとなく気まずくなる。
けれど、決して気まずい事をした訳でも見られた訳でもないから、挨拶をしようと口を開いた。


「おは」
「すまなかった」


謝られた。


「何が。さっきのことなら、多大なる勘違いで」
「そ、それもだが、そうじゃなくて、」


再び真っ赤に染まった頬。
青年男性の恥らう姿を見たところで、決して嬉しくなる訳ではないというのに、何のサービスだろうか。


「・・・お前を、試した」


そう言われて思い出したのは、この前の夜のこと。
ああ、と呟きつつ、とりあえず椅子へ座る。

その間に彼の弟は言葉を探していたらしい、途切れ途切れに声が続いた。


「昔、兄さんが、人間に裏切られた事があって・・・とても傷付いていたから、今回もそうなるんじゃないか、と、心配になって・・・」
「あの状況でわたしがどういう行動に出るか、試した、と」
「あぁ、そうだ・・・本当に、すまない」


なるほど、痛々しくも麗しき兄弟愛に巻き込まれた訳だ。
よく事態が分からないまま倒れてしまったから、とりあえず、事情が腑に落ちる。


足を組み、頬杖をついて、溜め息。そして改めて、彼の弟を見上げた。
サラダの大皿を両手で支えながら、窺うように小さくなってこちらを見ている。


「えぇと、サクさん?」
「サクでいい」
「サク、わたしがイバラに血を飲ませる、と想定していなかったの?」


沈黙が、五秒。


「・・・思っていなかった」


深い溜め息をついてやった。


「わたしが血を飲まれても、死なない同族にならない体でヨカッタネ」


びくり、とその大きな肩が震え、淡い紫の瞳が強く閉じられる。
ああ、ここにも大型犬が一人。


「それに、イバラがあのまま死んでしまったら、どうするつもりだったの」
「それは、」
「吸血鬼はそう簡単に死なないよ、マリ」


優しく低い声が、後ろから助け舟をだす。


「イバラ」


名前を呼ぶと、嬉しそうに微笑まれた。
彼は両手に持っていたスープ皿を静かにテーブルへ置くと、三日煮込んだビーフシチューです、と説明を付け加える。


「マリ、朝食にしよう」
「・・・なによ、殺されかけたくせに」


八つ当たりのように言うと、彼の弟が更に縮こまり、それをフォローすべく彼はその黒髪をくしゃくしゃと撫でた。


「本当に、あれくらいじゃ死なないよ」


死ぬ死なないの問題ではなく、まず痛いじゃないか。
そう思ったけれど、彼がいいと言う以上、自分がこだわるのも馬鹿らしい。
ならいい、とだけ答えて、目の前の食事へ全意識を集中させた。


「いただきます」


飢えた体に、出来立ての料理が染みた。






洗い物を弟へ押し付け、彼はソファに座っていた。


「イバラ」
「ん?」


その膝の中に、何故か閉じ込められている。


「・・・なんでもない」


髪に口付けられ、なんとなくくすぐったくなって身を捩った。
けれど逃がしては貰えず、優しく抑えられる。


空に向かって置かれた白いソファ。
青の色は冬の色で、掴めそうなのに遠かった。


時折、窓ガラスをかたかたと揺らす風。
それだけが、この部屋の中で寒さを感じさせた。


黒髪を指で梳きながら、鼻歌をうたう彼に、問い掛ける。


「わたし、イバラの仲間にならなかったよ?」


長い指が、そっと首へ触れた。


「うん、そうだね」


そのまま肩をなぞって、腕を滑り降りる。


「血なら、お腹いっぱいになるんでしょう?」


いつかの人魚の言葉を思い出した。


「うん、そうだね」


そして、手を握り締められる。


「血、飲んで。でないと、」


閉じ込められた手で、握り返した。


「わたし、居なくなるからね」


もっと、強く握られた。


「うん」


前髪越しに、口付けられた額。


「時々、ね」


今度は、唇へ。


啄ばむように口付けられてから、今度は、深く。
けれどそれは、命を奪われるものではなくて、ただただ、優しいものだった。




飢えが、満たされているから。




思考の片隅でそう気付き、深く溜め息をつく。
最後に唇を舐められてから、静かに離れる温かな気配。

瞼を閉じたまま、その肩へ頭を預けた。



「イバラ」
「なぁに?」


低い声が、耳を押し付けた皮膚から伝わってくる。


「夕飯、餃子作って」


くすりと微笑む気配。


「かしこまりました、お嬢様」


卵のスープも無いと駄目だよ。
付け加えたら、声を出して笑われた。






ママが、わたしを身籠る前。


願いを叶えてくれる悪魔へ、お願いをしたそうだ。


どうか、どうか、アタシの産む子どもは、アイツの傍で生きれますように。


その願い事は、どうやら有効だったらしい。




わたしは今、彼の傍で生きている。





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