此の血を、肉を、あげましょう。





抱きしめた






海の見える、丘の上の公園。
柵の向こうへ広がる夜景と海岸線、ちかちか光る灯台の光。

宝石を散らしたみたい、と、喜べば良いのだろうか。
思って、後方に立つ男を見遣ると、紫色の瞳と目が合う。


彼の色より、僅かに淡い色だ。


「なんだ」
「なんでもない」


強い風が吹く。
それに凍えて、コートのポケットへ両手を突っ込んだ。

こんな寒い夜にわざわざ公園に来る人間は居ないらしい、聳え立つ木々の間、街頭の下、人の影も声も無かった。


「人間、大丈夫か?」
「何が」
「寒いと死ぬ、と聞いた」
「これくらい大丈夫よ」


くしゅん、と小さなくしゃみを一つ。
彼だったら真っ青になって慌てる所だが、今一緒にいる男は眉を顰めただけだ。


そういえば、先ほどもお腹が空いたと呟いた時、眉を顰めた後にちょっと待っていろ、と言って何処かへ行き、戻ってきたその両手には大量の食べ物があった。
あの表情は、男なりに気にしている、というポーズなのかもしれない。

今度は大量のホッカイロでも買ってくるのだろうか?
想像したら、少し笑えた。


「何を笑っている」
「別に?」


全身黒尽くめ、髪も漆黒、唯一浮いた紫の瞳。
整ったその顔立ちで、真っ赤なホッカイロの袋をわんさか抱えていたら、うん、少しは世界の癒しになるかもしれない。


早く買って来てよ、イバラ二号。
そう思うくらいには、彼と男は似ていた。


彼は、何をしているのだろう。
わたしが教えた番号へ電話を掛け、此処へ来い、と、男は留守電に入れていた。


けれど、彼はわたしを迎えに来るのだろうか。


「ねぇ」
「なんだ」
「来ないと思うよ」
「来ない?」
「イバラ」


今はイバラと名乗っているのか、と呟くように言われたから、わたしがそう呼んでいるだけ、と答える。


「何故そう思う?」
「貴方も吸血鬼?」
「・・・そうだ」
「別に、ご飯はわたしじゃなくても構わないでしょ?」


別の人間でも構わない事なのに、わざわざわたしを迎えに来る訳が無い。
そんなことも、分からないのだろうか。


「せっかくこんな小娘を浚う苦労を背負ったのに、残念だね」


学校帰り、混みあう改札口。
あいつの匂いがする、と言って掴まれた腕。

問い詰められて彼と一緒に居ることを話したら、鋭利に伸びた爪を首筋にあてられ、そのまま拉致。
流されるままというのも癪だったけれど、まあ、なかなか無い事だろうから、流されてみた。


こんな小娘にいちいち気を遣って、可哀想な人。


「イバラ、来ないよ」


そう言って首を傾げたら、男は不可解な顔をした。
闇に解ける丘の上の公園。
きっと恋人達がやって来て、甘い時間を過ごす場所なのだろう。

けれど今は、冷たい風が吹き抜けるだけ。


「人間、それは本気で言っているのか」
「本気?」


もう一度、くしゃみ。

すると、再び眉を顰めた男は、静かに近付いてきた。
頬に添えられる、大きな掌。
きっと、彼と同じで冷たい筈だ。けれどそれよりも冷えた頬は、掌の温かさに緩む。


「あいつは」
「マリっ!!」


男の背後から、聞き覚えのある声がわたしを呼んだ。
あぁ、彼だ。何故来たのだろう。

ぼんやりと思っていたら、頬にあった掌がそのまま首筋へ当てられ、爪がぴん、と鋭くなる。


腕で拘束される首。
誘拐されているみたい。


そう思って、違う、一応誘拐されたんだった、と訂正。
一応命が危ない状況だというのに、冷静な脳に自分でも関心した。


「・・・サク?」
「久しぶりだな、兄さん」


見詰め合った、紫の瞳。
兄さん、と呼ばれた彼は、驚いて目を大きく見開いていた。


「ほら、来た」


囁くように言われ、男を見上げる。
そして視線を戻したら、彼と目が合って、微笑まれた。


「マリ、怪我が無くて良かった」


何が良かったのだろう。
捨て置いても構わない小娘の命が1つ、無事だっただけだというのに。


「イバラ、なんで来たの」
「え?」


何を問われたのか分からない、という顔。


「なんで」
「人間、後にしてくれ」


男に遮られて、口を噤んだ。
苦しくないように、けれど首に回された腕へ力が入る。

そして再び見詰め合った、紫。


「・・・久しぶりだね、サク。元気そうで良かった」
「あんたと違って、きちんと食事をしているからな」


二人の間には、正方形の石のタイルが五つ。


「食べたくないのに、無理に食べろと?」
「そのままじゃいつか死ぬ」
「それでも構わない」


悲しそうに微笑む紫。
眉を顰め、歪んだ紫。


「サク、君が怒るのもよく分かる」


彼は、相変わらずの薄着だ。
薄手のセーター、その上にお気に入りのカーキ色のジャケット。
風邪をひかないのか、心配になった。


ねぇ、貴方の弟は、別に怒っていないよ?


「血を飲むのを止めた吸血鬼なんてきっと滑稽に見えるだろうし、人間と生きようとする姿はもどかしいんだと思う」
「だったら」
「それでも」


弟の言葉を遮って、彼は強く言った。


「僕は、人間と、マリと一緒に居たいと願うよ」


くしゃくしゃの癖っ毛が、ふわりと揺れる。
目尻に皺を刻んで、彼は微笑んだ。


彼の弟が、表情を歪めたのが気配で分かった。


「その結果が、犬死だとしても?」
「うん」


彼が、右手をこちらへ差し出す。


「だからサク、マリを離して?彼女は僕のエゴに、巻き込まれただけだから」


風が吹いた。
木の葉が揺れて、木々が鳴る。


動いたら殺す、と、低い声で囁かれた。
反射で頷くと、腕が外される。

脳内は冷静でも、体の方は緊張していたらしい。
支えを失い、バランスを崩した両足を補う為に、思わず柵へ背中を預けた。


「兄さん、俺はあんたが大嫌いだ」
「うん」


一歩一歩、彼へ近付いていく弟。
間にあるタイルの数が、一つ一つ減っていく。


「本当に、大嫌いだ」


至近距離で並ぶと、弟の方が少し背が高かった。
口付けてしまいそうなくらい、近い顔。紫。


「うん。ごめんね」


悲しそうに微笑む、彼。


「だから、せめて」


彼の弟の右腕が、静かに後ろへ引かれる。


「此処で、居なくなってくれ」


彼の表情が、一瞬、苦痛に歪んだ。
けれど再び、悲しそうな微笑み。


「此れが、君の望み?」
「ああ」


見間違いだろうか。
彼の体を、腹を、突き破って背中へ飛び出している、彼の弟の右腕、こぶし。


「でも、僕は、マリと、生きたいな・・・」


抜かれた腕。
敷き詰められた正方形の上に、倒れる彼。


全てが、スローモーションだ。


地面へ滲む黒い染みは、きっと昼間に見たら赤い筈だ。
此処は、少し暗いから。

宝石箱をひっくり返したような夜景では、その赤を照らせない。


「イバ、ラ?」


彼の弟が、こちらへやって来る。
やめて、近付かないで。
その血のついた腕を、わたしに見せないで。


「人間」


呼ばれて、その紫を見上げた。


「あのままでは、兄さんは死ぬ」


濡れた右手で、触れられた頬。


「あの、ままでは?」


親指が、頬骨をなぞる。


見上げると、その頭の向こうに月が見えた。
逆光の筈なのに、目の前の顔が、どういう表情をしているのかが分かる。


「生気を補充すれば、傷は塞がる」
「生気?」


なんて、悲しい紫。


「あんた、いつも兄さんに食事をさせてやっていたんだろう?」
「唾液、で」
「それじゃ足りない」
「じゃあ、どうすれ、ば?」


指先が、首筋へ、胸元へ、降りてくる。


「血を」


ああ、なんだ。
そんなことか。


強張っていた頬が、緩んだ。
心臓の辺りを指差す赤い手を振り払うと、肩に掛けていた鞄からカッターを取り出し、他の荷物は地面に置いた。

ゆっくりとコートのボタンを外す。
先ほどまで震えていた指は、唇は、もう落ち着いていた。
コートを鞄の上に置き、少し悩んでブレザーも脱ぐ。


寒さに晒された体を庇いながら、そっと彼の傍へ近付いた。
後ろから、紫の瞳に見られている。


「イバラ」


声を掛けると、細い肩がびくりと震えた。
そして、ゆっくりと、痛みに耐える微笑が向けられる。


「マリ」


地面へ座り、その肩に腕を回して膝の上へ乗せた。
彼が自身の手で庇う体に開いた穴は、努めて見ないようにする。


「マリ、ごめんね。少し、キスを」
「あげない」


拒絶の言葉を受け取り、彼は切なそうに首を傾げた。
そして、瞼が、伏せられる。


「ほら、兄さん。結局人間は、俺達を裏切る」
「あなたも黙ってて」


彼に似たような声が後ろから飛んできたから、振り向かずに制した。
再び、沈黙が訪れる。


制服のスカートとハイソックスの間、剥き出しの膝へ血の生温かさを感じた。
急がなければ。そう思い、指先をセーターのボタンへ、そして、ワイシャツのボタンへ掛ける。


上から幾つかを外すと、普段は外気に晒されない肌へ、冬の風があたった。
いつかの人魚が、案外大きいね、とおどけて言った胸。

右手に持ったカッターで、その左側へ、血が滲むよう傷をつける。


「っ」


熱くて、痛い。
けれど、きっと、こうでもしないと、彼は飲まない。


「・・・マリ?」


膝の上の彼が、もう一度瞼を上げて、此方を見た。


「っ、マリ!」


上半身を浮かせたから、カッターを投げ出し、両腕で抱きしめる。
その唇が、左の胸元へいくように。


抗う細い体。
痛みを耐えるそれは、女子高生の腕でも抑えつける事ができた。


「人間、やめろ!」


何をしているのか気付いたのだろう、彼の弟からも制止の声。
けれど、止めてやるもんか。


強く瞳を閉じ、腕に力を入れる。
早く、早く、イバラ、飲んで。




きっと、一度血の味に気付いてさえしまえば、彼は本能に抗えない。




唇が、血の滲んだ部分へ触れる感触。
優しく、拭うように舐められる。


そして、次の瞬間。


「つぅっ」




埋め込まれた、牙。




こくり、こくり、上下する彼の喉。
それを感じて、大きく息を吐いた。


空を仰ぎ、うっすらを瞳を開ける。
そこには、彼にそっくり彼が、顔を歪ませてこちらを見詰めていた。


今日はその顔をしっぱなしだね。ざまみろ。
乙女の柔肌に傷を付けさせて、「兄さん」の体に穴を開けた罰だ。


「ぅ、あ・・・」


皮膚が、細胞が、何かに侵されていく。
体全てが必死に世界を認知しようとしながら、感覚を失っていく。


腕の、胸の中の彼が、もっと、と言うように顔を押し付けてきた。
だから、いつものように癖っ毛の中へ指を差し入れて頭を引き寄せてやる。




奪われ、飲み下される、命。




ママは大丈夫、と言っていたけれど。
死んでしまうのかもしれない。




あぁ、もしかすると。
イバラはそれが心配で、ずっと、わたしから血を摂らなかったのかもしれない。




「ざま、みろ」


笑って、彼の弟へ言ってやった。
月が、輝いている。






ふと気付くと、体勢が逆になっていた。
腕の中へ閉じ込めるように抱き締められたわたし、こちらを悲しそうに、必死の表情で見詰めてくる彼。


「イバ、ラ?」


無意識のうちに手が動いて、彼の腹を探った。
セーターは破れたままだけれど、皮膚に傷は無い。


「マリ」


なぁに、と首を傾げた。


「マリ、マリ」


彼の頭の向こうにも、月。
ぽたりと頬に水が落ちてきて、月の雫だ、と、思う。


けれどそれは、彼の涙だった。


「どうして、泣くの?」
「マリ、ごめんね」
「何が?」




わたしは彼の食糧。
そうなる為に、ママが産んだ。


だから本当は、
彼が抗う必要も、
彼が躊躇う必要も、
彼が怖がる必要も、
彼がわたしを慮る必要も、
わたしが彼を許す必要も、無いのだ。




「イバラ」
「マリ、マリ」
「お腹、いっぱいになった?」


首を傾げると、彼の顔はもっと歪んで、紫の瞳からぼたぼたと水が落ちてくる。


「なった?」


遠のく意識。
黒く塗り潰された、安寧へ。


「うん、なった」


最後にわたしを引き止めるのは、頬へ落ちてくる水。


「ありがとう、マリ」


紫が、優しく微笑む。


「なら、いい」


つられて、微笑んだ。




そして、暗転。





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