「まりあ、アンタは幸せね」




ママの王子様は、わたしの王様。


ママの心へ有刺鉄線のように、茨のように、突き刺さった、感傷。


もしくは、





わたしから貴方






窓を隠す深い緑のカーテン、その隙間から射す、朝の光。
鮮烈なそれをぼんやりと眺めながら、腕の中の温かな体を抱き寄せた。


深い寝息。
鎖骨の辺りで感じ取り、長い黒髪を撫でる。


子猫のように丸まって眠る彼女は、どんな夢を見ているのだろうか。
出来るなら、幸せなもので在って欲しい。
そんな身勝手な自分の祈りに苦笑しながら、そっと腕枕を外した。


毛布に羽毛布団、完全防備のベッドから抜け出し、あくびをひとつ。
裸足で歩くフローリングは、その深い色に反して冷たい。リビングのソファ近くへ置き去りにしていた薄い紫色の毛糸で編まれたルームシューズを履き、洗面所で顔を洗った。
冷たい水が、目蓋を押し上げる。


ふと見上げた鏡の中の紫の瞳と目があって、緩く笑ってみた。
そこには相変わらず、くたびれた自分が居る。

いや、疲れてはいない。
最近、彼女から食事をさせようとしてくるから。

昨日もそうだった。
突然口付けられ、受け渡された生気。
その細く脆い体のことを慮り、拒絶するべきだった。けれど、飢えに対する本能を抑える事ができず、結局はこちらから求めてしまう。


自身の薄弱な意志に、嫌気が差す。
けれど、それを彼女に悟らせることは、僅かに残った矜持が許さない。


「よし」


気合を入れる為にぽつりと呟き、顔をタオルで拭うと、再びリビングへ向かった。
大きな窓にかけられた深い青のカーテンを、大きく開く。差し込んできた、日光へ微笑む。


今日はホットケーキではなく、フレンチトーストを作ろう。
少し高価なアッサムの茶葉を使って、ミルクティーを淹れよう。


そんな事くらいしか、出来ないのだから。






「ただいま」


彼女は殆ど毎日、学校が終わると真っ直ぐ帰ってくる。
放課後に遊んでくれば良いのに、といつも言っては、本が読みたいの、お腹が空いたの、眠いの、口出ししないで、と、拒絶された。


思うのは、疲れているのかもしれない、ということ。
生気を貰うという行為は、その命を少し削るのと同義だ。


フローリングの軋む音。
近付いてきて、廊下とリビングを隔てる扉が開けられる。


「マリ、おかえ・・・り?」


窓に向かって置かれた白いソファから立ち上がり、ルームシューズに包まれた足の裏をぱたぱた鳴らして彼女の元へ向かった。
そして、その手に抱えられているものに、首を傾げる。


「マリ、それどうしたの?」


彼女の漆黒の瞳は、一旦こちらを見てから、フローリングへ落とされた。


「綺麗だったから」


彼女が抱えてるのは、紫色の可憐な花をつけた鉢植えだ。


「セントポーリア」


はい、と言って渡される。
そのまま彼女は、自分の部屋へと消えていった。


ぽかんとそれを見送り、それから手の中の鉢植えを見る。
その紫の色は、自分の瞳の色に似ているような気がした。


「どうしたんだろう」


秋深まったこの時期に咲いた花は、温められた室内でほんの少し元気を取り戻したようだ。
よかった、と思いながら、首を傾げた。


そして、不意に思い当たる。


風邪をひいた時の蜂蜜レモン、
玉葱が目に沁みてぼろぼろ泣いているのを見兼ねて差し出された水中眼鏡、
本を読んでいて首を傾げた時に渡された小学生用の国語辞典、
クリスマスの朝、枕元へ置かれたルームシューズ、
誕生日がいつかを忘れたと、言った翌日のケーキ。


鉢植えの、可憐な花。


笑みが零れた。
彼女がくれるのは、いつも、それ。


制服から温かそうなトレーナーとジーンズへ着替えた彼女が、部屋から出てきた。
突っ立ったままでいたから、それに眉をひそめて、どうしたの、と聞いてくる。


だから、言ってやった。


「笑い皺ができたら、マリのせいだよ」


目尻に、皺を刻みながら。

言われた意味が分かっても、それが何処から降ってきてそうなったのか、まで分からなかったのだろう。
その大きな瞳が、きょとんとした。


「イバラ、どうしたの?」
「なんでもない」


くすくす笑いながら近付き、前髪越しに額へ口付ける。


「マリ、お花をありがとう」


どういたしまして、と、微かな返事。
それに頷いてから、鉢植えをソファテーブルへそっと置き、彼女も白いソファへふわりと座らせた。


「さてお嬢様、お夕飯は何をご希望ですか?」


斜め前に立ち、給仕係りに見えるよう礼をしながらおどけて聞く。
すると彼女は、考えるように天井を見てから、呟くようにリクエスト。


「炊き込みご飯と、鮭とバターのホイル焼き」
「かしこまりました」


ゆっくりしててね、と言ってキッチンへ向かった。


そして、不意に振り向く。


白いレースのカーテン、その向こうの紺碧に染まり始めた町。
白いソファ、目を伏せ、そこに身を埋める彼女。

その穏やかな光景に、壊したくない、そんな焦燥が胸を過ぎった。






翌日、制服に身を包んで出掛けた彼女は、夜になっても帰って来なかった。






「まりあ、アンタはアイツの傍に居られる。


 血を吸われても、命を失わないし、アイツの仲間になることも無いから。


 幸せね。


 たとえ食糧だとしても、アンタには価値があるのよ」




ママの王子様は、わたしの王様。


ママの心へ有刺鉄線のように、茨のように、突き刺さった、感傷。


もしくは、


推定、愛情。





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