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わたしは食糧。 其れだけが、存在価値。 だから。 悲しくない、優しくない もくもく煙る、湯気の向う側。 磨り硝子越しに淡く光る街灯。ぽたり、ぽたり、天井から落ちる水滴。 壁のタイルは一面空色、アクセントで白地に幾何学模様が刻まれている。 とても、お気に入りの空間。 そこに足を踏み入れた瞬間、驚いて動きの全てを止めてしまった。 瞬きさえ忘れ、もくもく煙る湯気の向こう側を見詰める。 「あらやだ」 見詰めた先から、気だるい声。 「ごめんなさいね、お風呂を占領していて」 傾げる小首。 白い肌へ貼りつく、柔らかなウェーブを描いた黒髪。 こちらを見詰める碧の瞳。 白いバスタブへ身を沈め、縁に頬杖をついている女性。 極めつけは、湯の中からぴょこりと飛び出た、透明な尾ひれ。 「ちょっと狭いけど、一緒に入る?」 うふ、と言わんばかりの、笑顔。 ふんわり厚い唇が、とても蠱惑的だ。 「とんでもありません、失礼しました」 瞬時に冷静に断った自分の反射神経に拍手。 後ろに何歩か下がり、ぱたり、と静かに扉を閉めた。 ゆっくりと左を向く。 いつもと変わらぬ自分が鏡に映った。 ぱっつん前髪、だらだら延ばした黒髪、愛想の無い目、以前より少しふっくらした頬。 異常無し。 ゆっくりと右を向く。 開けてあげなくもないわ、と言わんばかりの引戸が一つ。 原因を知るには、こちらの道だ。 床に置いた籐の籠から大きなバスタオルを取り出し、何も身に着けていない体に巻きつけ、乱暴に取っ手を掴んだ。 呆気無くするりと扉は開き、冷たい廊下が現れた。 ぺたり、ぺたり。 下の階の住人へ迷惑が掛からぬよう静かに、けれど、早く。 向かう先は勿論、彼の部屋だ。 リビングを通り抜け、左手にある扉を大きく開く。 灯りの消された部屋。薄闇に沈んでいるのは、ベッドにうつ伏せで眠る、彼。 届く寝息に躊躇いを感じたりは、しない。 「ねぇ」 ベッドに片膝を乗せ、その骨ばった肩を揺らした。 「ねぇってば」 ぴくり、と反応する指先。 もう一度強く揺さぶると、彼はゆっくりと体の向きを変え、とろんとした目でこちらを捉えた。 空気の冷え始めた季節。 細い体にタオルケット一枚、その上基本的に薄着の彼は、見ているこちらが寒くなる。 「マリ?」 「他に誰がいるの」 「ん、ごめん・・・今、すごく疲れていて」 もう一度瞼が閉じようと動いたので、再度体を揺さぶった。 ベッドに両膝をつき、両手で彼の両肩を掴み、本気で、だ。 すると、瞼はすぐにまた、ゆっくりと重力に逆らって持ち上がった。 時間をかけてこちらへ焦点を合わせようとしているので、それを待つ。 灯りが街灯だけだったので、サイドテーブルにある間接照明のスイッチを入れた。 柔らかな光に照らされ、部屋が温かな色になる。 けれど、バスタオルだけを巻いた自分の体は、冷え始めていた。 その間に、彼の焦点もしっかりとこちらを捉えた。 「マリ・・・随分と良い眺めだけど、どうしたの?」 掠れた声で、おどけた言葉。 言い返そうと口を開くより前に、大きな掌に捉えられた。 その温かさに震え躊躇いが生じた瞬間に、口付けられる。 容赦なく、奪われる生気。 解けそうになったタオルを理性の端っこが捉えて、半ば無意識の内に右手が胸元でそれを留めた。 「ふ、ぅ・・・」 呼吸を求めて喘ぐ。 けれど彼の口付けは降り止まず、気付けば体勢は反転、組み敷かれていた。 いつも以上の荒さに、彼の消耗を感じる。 撫でられ、探られ、翻弄され、噛まれ、吸われ、奪われ。 目の端で捕らえた窓の外の月は、半分だった。 漸く解放され、何かの儀式のように、いつものように、最後に唇を舐められた。 それで終わりを悟り、閉じていた瞼を押し上げると、強く彼を睨むようにする。 けれど睨んだ先は天井で、彼は居なかった。 「っ」 視界の外で慈しむように、胸元へ口付けを落とされる。 鎖骨、首筋、頬、耳朶、鼻の天辺。最後に額。 そしてようやく絡んだ視線の先は、未だ疲弊したままの顔があった。 「マリ、ごめんね。とても疲れていて」 「・・・そんな謝罪聞きたくない」 睨んだまま、言う。 けれどその先で悲しげな表情をされたものだから、億劫になってもう一度瞼を閉じた。 「それより、お風呂場なんだけど・・・っくしゅ」 小さなくしゃみが出て、全身が震える。 それでようやく、自分がどうしようもない格好をしていることを思い出した。 「ま、マリ、大丈夫?」 慌てふためく彼が慌ててタオルケットを拾い、それで体を余すところ無く覆う。 そのままベッドに座り、膝の間に抱っこされた。薄い胸板に寄りかかると、とくん、とくん、と小さな音がする。 その温かさに本能的な安心を感じて溜息をつくと、脱力して身を任せた。 「それで、お風呂場なんだけど」 「お風呂・・・あ、あぁぁ!マリごめん、もしかして入っちゃった?」 「お風呂に入ろうとして、得体の知れないものが居たから、此処に来た」 「そうだよね、ごめんね。今回の依頼が、人魚の奪還で、その目的の人魚がお風呂場にいる人魚さんなんだ」 「そう」 低い声が、耳元をさらさらと流れていく。 「海へ帰すのに一旦匿う必要があって、それで仕方なしにうちのお風呂に居て貰っていて。ごめんね、帰ってきてすぐに眠ったから、マリに説明する暇が無かった」 とくん、とくん。 「マリ?」 とくん、とくん。 一つ鼓動が響く度に、夢の淵へと近付いていく。 「疲れちゃったね。おやすみ、マリ」 とくん、とくん。 抱きしめる腕へ力が篭もる。 とくん、とくん。 「また明日、ゆっくり話すね」 最後にもう一度、額へ口付けが降った気がする。 翌日、改めて紹介された。 「細く見えるけど、胸あったね」 うんうん可愛くておねーさん好きよ、と続ける人魚の頭をハリセンではたく事ができたら、いくらか気分がましになるだろうか。 けれど人魚という希少な生物を目前に、それを堪えた。 隣に立つ彼は、困った顔をしているに違いない。 こういう時にうまく切り返せない不器用さなのだ。ざまみろ。 「えぇと、昨日お会いしたかと思いますが、彼女は一緒に住んでいるマリです」 聞こえなかった事にしたらしい。 紹介されて、仕方がないからぺこりと小さく頭を下げた。 「マリちゃんね、よろしく」 「よろしくお願いします。えぇと・・・」 そういえば、名前を聞いていないことに気付き言い淀む。 すると人魚は、あぁ、と言い、相変わらずの艶っぽい声で自己紹介をした。 「いばらよ」 つけた親の顔が見てみたい。 「いばら、さん」 名前を呼ぶと、人魚は笑みを濃くして首を傾げた。 昼間の浴室、浴槽内に揺らめく青銀の鱗、雫の落ちる銀色の蛇口。 日常と非日常の境界線が、とても薄い空間だった。 言葉を挟む間も無く、彼らは話を進めていく。 人魚が海へ帰る際の算段、それから、何か探し物の依頼。 よく声が響く其の場所で、彼の低い声と彼女の艶っぽい声が交互に交わされる。 しばらく終わりそうになかったから、人魚にだけ見えるように会釈をし、浴室を出た。 足の裏が、しくしくと冷えを訴えてくる。 それを温めたくて、リビングの白いソファで丸くなった。 窓の外は、明るい青の空。 坂の上にあるこのマンションからは、遠くに海が見えた。 悪意の無い風が、開け放った窓から室内へ入る。 レースのカーテンが、ふわり、ふわり。 そのまま眠っていたらしい。 気付けば、空は潜水艦の進む紺碧を通り越し、シリウスの色になっていた。 「マリ、銭湯に行こう」 そして、彼の一声で、出掛ける事になった。 絶対に自転車の二人乗りは嫌だと言い張ったから、行きも帰りも徒歩だ。 お風呂上りにお約束のコーヒー牛乳を飲んでから外に出ると、彼は当たり前のように其処で待っていて、にこにこ笑いながら、帰ろっか、と言った。 そして、二人でゆっくりと歩き出す。 等間隔に置かれた街灯の下、相変わらず彼は白い。 「いばらさんは明後日、帰ることになったよ」 「ふぅん」 「明日一日だけ、頼まれた探し物をしてくるね。遅くなると思うから、夕飯は冷蔵庫の中に作っておくね」 頷いて、了承を示す。 とくん、とくん。 お風呂上りの火照った体は、打ち付ける鼓動も強い。 自分のそれを聞いていたら、耳元で風が遊んでいった。 「マリ、手、繋ご?」 「やだ」 間髪入れずに答えた。 「ひどい、即答だ」 「やなものは、いや」 追い討ちをかけると、彼の肩ががくりと落ちる。 「マリ、優しくない・・・」 「知ってるでしょ」 空を仰いで、荷物を後ろ手に持ち、そのまま一歩分、彼の前へ出て歩いた。 うぅ、と悲しげに呻く声がしたけれど、無視して後ろへ流れる髪へ手をやる。 道路を通り過ぎる車の音以外、とても静かな夜だった。 微かに煮物の香りがして、郷愁を憶える。 けれど、何処かに置いてきた故郷なんて何処にもなくて、小さく笑って皮肉った。 後ろからは、小さく足音。 それを確認してしまう辺り、どちらが保護者なんだか分からない、と思う。 そしてその足音は、しばらく後におかしな方向へ走り始めた。 仕方なしに振り向くと、彼は小さな公園へ入り、ぶんぶんと手を振っている。 こっちへ来て、の仕草に、ため息をついてそちらへ向かった。 「マリ、見て!」 ゆっくりと近付いていくと、彼の示しているものが何か分かった。 ロープに囲まれた場所に植えてある、コスモスだ。 可憐な花びらが、冷たい夜風に晒されて右へ左へ揺れている。 「秋だね」 そういえば、今月の月はやけに綺麗だった。 蜜柑のような、お煎餅のような。 血を、被ったような。 小さな彼のくしゃみで、思考が途切れた。 見遣ると、栗色の癖っ毛をくしゃくしゃに濡らしたまま、鼻をくすんくすん言わせている。 やはり大型犬かもしれない。 思ったけれど、口にするのは我慢した。 「帰るよ、イバラ」 右手を差し出す。 すると、彼の紫の瞳は一度きょとんと大きく開かれ、それから笑みの形を作った。 それはそれは、幸せそうに目尻へ小さな皺を刻んで。 「うん」 左手で握ってきたことを確認してから、引っ張るように歩き始める。 お風呂上りだというのに、その大きく骨ばった手は冷えていた。 「ねぇ、マリ」 「なに」 「どうして僕に、茨って名前をくれたの?」 同じ名前の人魚と出会ったからだろうか。 初めての質問だった。 だから、振り向かずに答える。 「内緒」 きっとまた、困ったように笑っているのだろう、彼は。 握る左手に、ほんの少しだけ力が篭もった。 「マリはやっぱり、優しいね」 そしてまた、やって来る朝。 仕方がないので制服に着替え、学校では机に向かって自習をし、そして帰宅した。 遅くなる、という言葉は嘘ではなかったようだ。 もう外は暗いというのに玄関にいつもの彼の靴は無く、つっかけサンダル以外は綺麗に下駄箱へ仕舞われている。 「ただいま」 癖で言うと、おかえりー!と、篭もった声が届いた。 人魚だ。浴室は玄関に近いから、物音が聞こえたのだろう。 律儀なことだと思いつつ、そのまま浴室へ顔を覗かせた。 電気をつけてやると、人魚は相変わらずバスタブ縁へ肘を置き、掌で頬を支えてこちらを見詰めている。 「はぁい、かわい子ちゃん」 「・・・人魚って皆さんそんな感じなんですか」 「なんで?」 「そうなら人魚に生まれなくて良かったな、と」 けらけら笑われた。 そしてその波はしばらく収まりそうになかったから、一旦自室へ戻って私服に着替え、再度浴室へ向かう。 その途中で、ふと思い立って冷蔵庫の中を見た。 ど真ん中に、マリへ、というメモが貼られ、オムライスを乗せられた大皿が鎮座している。 それを取り出し、電子レンジで温めながら、ふと思った。 「そういえば、人魚って何食べるの」 浴室へ戻ってそれを聞くと、海草とか、と答えが返ってきた。 なるほど、と頷きながら、持ち込んだクッションをタイルの上へ置いて座り込む。 オムライスとスプーンも一緒に持ってきたから、本日のディナーは此の場所で、だ。 夕飯を黙々と消費する様子を人魚は興味深そうに見詰めていた。 「ふふ、愛されてるわね」 「いいえ」 「そう?」 「はい」 オムライスの乗った大皿には、レタスとトマト、ポテトサラダも乗っている。 スプーンでどう食べようか悩んで、レタスは指でつまむ事にした。 「わたしが食糧だからですよ」 「食糧?」 「はい」 トマトは、なんとかスプーンに乗せて口へ運ぶ。 「でも、あの吸血鬼さん、いつもお腹空かせてるじゃない」 「そんなことないですよ、ちゃんとあげてますもん」 「何を?」 「唾液」 唾液からでも生気の補充ができるんでしょう?と、尋ねるように目を遣る。 その先で、人魚は口を噤んでいた。 探るような、碧の目。 「どうしたんですか」 「んー、とね」 「躊躇った時点で何か知っていることを隠しているのはばれてます。アウトです。言って下さい」 「んー、彼が言ってないのにあたしが言ってもいいのかしら」 「ばれているので、言ってください。でないと、暴れますよ」 ポテトサラダもどうやら手作りだ。 マヨネーズの味が、つんとした。 「吸血鬼って確か、肌に牙を突き立てて、血管から直接得た血からでないと、完全な補給って出来ないんじゃなかったかしら」 理解をするのに、時間が掛かった。 「要するに?」 「唾液とか、そういう体液からだと、彼は多分本来の力の半分くらいしか使えない、ってこと」 そこで漸く、理解が完了した。 あちゃーやっぱり知らなかったのね、と人魚が気まずそうに頬を人差し指で掻く。 食べ終わり、空になった皿をタイルの上に置く。 コツン、と、硬質な音が一つ響いた。 「本当ですか?」 「割と。ちなみに、十字架だとか銀の杭だとかが効くかは知らないわ」 「人魚の肉だか血だかを食べると永遠の命が手に入る、というのは?」 「それは嘘。人魚自身、人間に比べれば寿命は長いけれど、永遠では無いもの」 「ふぅん」 浴室の灯りも、温かな色だ。 その下で、永遠ではない命を抱える人魚は、気遣わしげに此方を窺っている。 それがとても億劫で、無理矢理、話を変えることにした。 「そういえば、ご両親はどうしていばらさんをいばらさんと名付けたんですか?」 困った時に無かったことにする癖は、悲しいけれど彼と同じだ。 人魚は唐突に振られた話に、え、と一瞬驚いてから、けれど苦笑して言う。 「童話のいばら姫からよ。時間が掛かっても、いばらだけの王子様が見つかって、幸せになれますように、って。お父様に教えて貰ったわ」 「素敵なお父様ですね」 「ええ」 その後も、ぽつり、ぽつりと他愛ない話を続けた。 そして、オリオン座の綺麗に見える真夜中。 吸血鬼は、一通の手紙を携えて帰宅した。 人魚の言葉で書かれたらいしそれに目を通し、彼女はぽろぽろと涙を流していた。 その様はとても美しくて、此処が七階建てのマンションの隅っこにある小さな浴室であることを、ほんの一瞬だけ忘れた。 翌朝、人魚は彼に連れられて、海へ帰っていった。 疲れた顔で帰宅した彼の手首を掴んで引っ張り、無理矢理ソファへ座らせる。 どうしたの、とうろたえるのを余所に、自分もソファへ乗って、口付けた。 深く、深く。 唾液が、生気が、きちんと届くように。 抵抗はすぐに止み、逆に求められた。 それに応えるように、栗色の癖っ毛に包まれた頭を掻き抱く。 とくん、とくん。 足りない酸素を求めて、鼓動が早まった。 いつも通り、唇を舐められてから離れる。 溜め息を吐いて、その細い体の上へ崩れ落ちた。 「マリ、急にどうしたの?大丈夫?」 それを上手に受け止めた彼は、いつも通り、安心させるよう抱き締めてくる。 「お腹、いっぱいになった?」 ぎりぎりの意識を繋いで、聞いた。 質問を質問で返してはいけません。そんなこと、彼は言わない。 「マリ?」 白いソファ、レースのカーテン、深い色のフローリング、悪意の無い風。 関係の無い事ばかり、頭の中を過ぎる。 「なった?」 とくん、とくん。 自分の鼓動か、彼の鼓動か。 「・・・うん、なった。ありがとう、マリ」 とくん、とくん。 「なら、いい」 とくん、とくん。 回された腕へ力が篭もった。 「マリ」 とくん、とくん。 低い声が、名前を呼んだ。 |