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喉がからからだ。 其れでも言葉は、溢れようとする。 思い出を記憶する行為 「こんにちは、お嬢さん」 校門を出た所で声を掛けられた。 何処かで聞いた事のあると思い振り向くと、そこには漆黒のスーツに身を包んだ男が立っている。 「先日のお詫びに、お茶でもいかがですか?」 胡散臭い笑みを浮かべるその男は、合唱コンクールの際中庭で遭遇したかの人物だ。 うっかり視線が合ったけれど、ふいと背けて歩き出す。追い掛けてくる足音は無く、苦笑する気配が伝わってきた。 「怪しくないよ、と言っても怪しいかな」 「怪しいです。失礼します」 言い切って、振向かずに駅へ向かって歩いた。男が追って来る気配は無い。 漸く校門が見えない場所まで来た所で肩の力を抜き、初めて自分が緊張していた事に気付いた。 知らない人間とあまり接する事が無いから忘れがちだが、そういえば自分は人見知りだ。 幼い頃、そんなわたしに「おどおどするんじゃない」、と。 叱った人がいた気がする。 その時に庇ってくれたのは、伯母様だっただろうか。 翌日、懲りもせずに黒いスーツの男は立っていた。 近くを歩いていた女子生徒達が、あの人かっこいいね、と小声で喋っている。 それにつられて顔を見遣った。黒いスーツの印象がやけに強く、顔を認識していなかったけれど、確かに整った顔立ちではある。 成る程、あれが世に言う「かっこいい」なのか。 しみじみと思っていたら、目が合ってしまった。 男はわたしを認識すると、相変わらずの胡散臭い笑みを浮かべて小さく礼をする。 「こんにちは、お嬢さん」 「物好きですね。不審者がいると通報しましょうか?」 「手厳しい」 そう言いながら、男の顔は涼しげだ。 歩道に植わった銀杏に背を預けたその人は、下校する生徒の目などものともせずにこちらへ歩み寄ってきた。 一歩、足を引く。 万が一の時は校門の中へ駆け込み、職員室か用務員室へ逃げる所存だ。 そんなわたしの思考を知ってか知らずか、男は歩を止めた。 手を伸ばしてぎりぎり届かない距離で、もう一度礼をする。 「バンシーを見つけてくれたのは、お嬢さんだと聞いたよ」 予想外の言葉に、反応が遅れた。 「ありがとう」 そのお礼もしたいというのは、駄目かな。 おどけた表情とは裏腹に、囁く声から真摯な響きを掬ってしまった。 じゃり、と響いたのは、ローファーの踵が踏みしめた小石の擦れた音。 「なんで、」 「バンシーと一緒に居るのは僕だから」 ついこの間、公園で見付けたバンシーを脳裏に描いた。 切ない声で、耳を覆うほどの嗚咽で、彼女が求めていたのはこの男なのか。 「でも、どうしてわたしだって」 「あの子が、“まりの香りがする、何処かで会ったの?”って昨日教えてくれたよ。君が、“まり”さんだよね?」 首を傾げ、問われた。 わたしは人見知りをする。 そして、知らない人についていってはいけない、というのはこの世界の常識だ。 目の前には、笑顔。 何処かで見た、誰かに似た、けれど誰でもない。 まりあさん、今日の放課後お茶しませんか?美味しいケーキのお店を見つけたんです。 胡散臭い、狐のような笑顔が、目の前にあった。 それはもう一度にこりと笑み、手を差し出す。 「まりあさん、」 頭では駄目だと分かっているのに。 わたしは、男の掌へ指を伸ばす自分の姿を冷静に見詰めていた。 「マリ?」 名前を呼ばれた事に気付いて、慌てて顔を上げた。 視線の先には、深い紫の瞳。それは今、こちらを気遣う色を孕んで少し曇っている。 「大丈夫?何処か痛い?」 問われ、首を横に振った。 それじゃあ味付けが口に合わなかったかな、と申し訳なさそうに微笑し、彼はチーズの入ったオムレツを口に運ぶ。 「ううん、美味しいよ」 「でも、さっきからあまりお箸が動いてないよ?」 「・・・帰りに、ケーキを食べちゃったの」 誰と、とは言わなかった。 右手に持った箸を動かし、同じようにオムレツを頬張る。 美味しいよ、と呟いて、最近覚えた笑顔らしき表情を作ってみた。 すると彼が安心したように微笑むから、つられて頬が緩む。 不意にレースのカーテンが揺れて、風が室内に舞い込んだ。 冬の気配を纏ったそれは思っていた以上に冷たく、剥き出しの腕に鳥肌がたつ。 それを見咎めた彼は、静かに立ち上がって窓を閉めた。かちり、と鍵の掛かる音の次に、カーテンがレールを走る音が響く。 振り向くと、夏の間は殆ど開け放たれていた窓が、青のカーテンに覆われていた。 一つの季節の終わりが、じわりと心に滲む。 眩暈を覚えるほどの眩しさが、蝉時雨が、唐突に遠ざかった。 テーブルへ戻ってきた彼は、椅子へ座る前に温めるようにわたしの腕をさすり、頭のてっぺんに唇を落とす。 くすぐったさに身じろぎをすると、くすくす笑って離れていった。 「風邪をひかないでね。今日は入浴剤を入れるから、お風呂でゆっくり温まって」 心地よい低い声に頷き返し、食事を続ける。 違和感を覚えるくらい、平坦な夜だった。 言われた通り、お湯に浸かって温めた体のまま布団へ潜り込んだわたしは、昼間の事を思い返した。 初夏、咲き誇る凌霄花がよく見えるテラスの席に座ってケーキを食べた喫茶店。 心地よい冷たさの風が吹く中、同じ店、同じ席で、男と向かい合って座った。 「・・・前も、一緒に来ました」 ぽつりと呟くと、男はそれをきちんと拾う。 「今はもう居ない誰かさんと?」 「はい」 ゆるりと周囲を見渡した。 確かあの日は、アスファルトに照りつけた日光が陽炎のように立ち上っているのではないか、と思うほど暑い日だった。 頼んだのは、ベリータルトと冷たいハーブティー。 それを見て、確か笑っていた。 茨さんに作って貰えるのに、付き合わせてしまってすみません。 試験が終わってすぐの頃、彼が居なくなってしまった事を伝えていなかった頃だ。 だからわたしは、同意もできず、否定もできず、ハーブティーを口に含んで答えをはぐらかした気がする。 「試験が終わったお祝いをしよう、って、オープンしたばかりのこのお店に連れて来られました」 「お節介な子だったのかな?」 「良い意味で」 本当に、お節介だった。 内側に篭もったわたしの世界を人間らしい所まで引き上げてくれたのは、言うまでも無く彼だけれど。 学校という特殊な場所でわたしに手を差し出したのは、間違いなく。 「ソウイチ」 「それが、その子の名前?」 「・・・そうです」 久しぶりに声にした名前はひどく懐かしい響きを持っていて、不意に怖くなった。 こうして、忘れていってしまうのだろうか。 手の届かない場所へ、いってしまうのだろうか。 そんなわたしの心を読んだように、男は問う。 「優しい子だったんだろうね」 「どうしてそう思うんですか?」 「違うのかな?」 「・・・違いません」 テーブルに並んだ縁がレースのように波打っている白いお皿の上には、ザッハトルテが乗っている。紅茶のポットにはニルギリが詰まっていて、あの夏の日とは似ても似つかない。 「どんな子だったのか、聞いても?」 ましてや目の前に座るのは、見知らぬ男。 良いのだろうか? 心の声が問う。 良いよ。 本能が応える。 ソウイチの話を誰かに聞いて欲しい衝動が、暴れ始めた。 だって。 みんなみんな、悲しい気持ちを隠して触れないようにしている。 そしてそれは、わたしが弱ってしまわないようにだ。 ご飯を食べる事が出来ず、何をやる気にもなれず。 そうして過ごしたあの夏の日がまたやって来ないよう、みんな知らん振りをしている。 それを知っているわたしは、だから、何も知らない人間に話をするしかない。 「最初は、狐に化かされているんだと思いました」 「狐とはまた古風だね」 「打算的というか、喰えない笑顔だったから。案の定、からかわれる事も多くて、言葉遊びで言い負かされてばかりでした」 最初は、わたしが作ったお弁当の中身が悲惨だとからかわれた。 今思うと、用事が無ければ通らないような場所にあるあのベンチを見つけたソウイチも、一人で居る時間を欲していたのかもしれない。 教室で、たくさんの同い年の人間に囲まれていると、不意に自分を見失いそうになるから。 「・・・でも、損なくらいお節介で、お人よしで」 「きっと彼は、それを損だと思っていなかったんだろうね」 「そうだと、思います」 言葉は、溢れるように出てきた。 その中から口にしても良いものだけを選び、声にする。 そうして辿る思い出はあまりにも儚くて、口から出す度に喪失感を憶えた。 けれど、肯定や質問が返って来る度に頭の中で答えを探すから、伝えた思い出は自分の言葉として、今度は定着していく。 思い出を記憶に変換する作業、だったのかもしれない。 それはきっと生きていく為に必要な行為だ、と、自分に言い聞かせた。 思い出を抱えたままでは、いつか途方に暮れて歩けなくなってしまうのだから。 冷めたニルギリはあまり美味しくないと呟いたわたしに、男は言った。 では、続きはまた今度聞かせて下さいね。 「また今度、か」 最初の頃、ソウイチにも似た言葉を貰った。 また明日、という、今では途方も無い約束。 「そういえば、あの人の名前。聞いてなかったな」 今度聞こう、と決めて、ゆるゆると瞼を落とした。 無条件で「今度」が来る事を信じている自分を、ほんの少しだけ嗤いながら。 クリーム色の清潔なシーツに包まれて、ぼんやりと思う。 あの夏の日以来、一人で眠るのは初めてだ。 りぃんと鳴ったのは、鈴虫か、季節はずれの風鈴か。 |