その不在を感じる時は、何時だってふとした瞬間だ。





でなぞる輪郭






例えば周りに何もない雪原の真ん中だとか、深い深い湖の底は、こんな風なのかもしれない。
静寂が支配するのは目の届く範囲。遠くには、ざわりと騒ぐ空気が在った。


誰も居ない教室の、開けっ放しの窓でカーテンが揺れる。
普段は声や物音が止め処ない校舎は、ページを捲ったように沈黙を保っていた。


目の前にある皺の寄った幹へ、そっと指を這わせる。
ざわざらとしたその枝の先には、秋の光を受けて金色に光る桜の葉が風に揺れていた。


騒いでいた空気が止み、次に届くのは歌声だ。
紡がれる言葉は、聖母への祈祷。

ソプラノの独奏で始まった旋律は、アルト、男声パート、と幅を増して奔流となった。


その曲が讃える聖母と同じ名を持った自分を、皮肉まじりに笑う。


「アヴェ、」
「―――マリア」


ぽつりと呟いた言葉に自分以外の声が重なり、反射で勢いよく振り向いてしまった。
視線の先には、黒いスーツを着た男性が佇んでいる。


教師ではない。ならば、合唱コンクールを見にやって来た外部の人間だろう。
そんな人間がわたしの名前を知る訳が無いのだから、今のはきっと、呼ばれたのではなく歌を諳んじただけ。


そう判断して、再び桜の幹へ視線を戻した。


後ろから、どさ、という音がした。
ベンチに腰掛けたのだろうか。けれど、目が合った所で話す事は何も無かったから、振り返らない。

すると今度は、声を掛けられた。


「こんにちは。お嬢さんは、体育館に居なくて良いの?」
「・・・良くは無いです。だから、放っておいて下さい」
「先生を呼んでこようか?」
「・・・何かわたしに恨みでも?」


振り向きざまに首を傾げて聞くと、はは、と短く笑われた。
失礼な人だ。そう思うけれど、永久不在のカレと同じような話の運び方をするから、ほんの少しだけ琴線に引っ掛かる。


「それに、外部の方が体育館以外の場所にいる方が不味いと思います」
「でもそれを先生に知らせるのなら、結局君も此処でさぼっていた事がばれる」
「なら、放っておいて下さい」


それだけ言い、再び視線を桜へ戻した。
後ろからくすくすと笑う声が聞こえてくるけれど、それは無視する。


歌の終焉と共に、拍手が届いた。
そして再び、伝わってくるざわめき。


次のクラスの合唱を見たくなくて、聴きたくなくて、此処へ来た。
だからきつく目を瞑り、両手で耳も塞ぐ。


やがて、騒ぐ空気が静まった。
あぁ。歌が始まる。


風が、体育館の方に向かって吹き抜けた。
もっと吹け、と思うけれど、律儀にそれを叶えてくれるには気紛れ過ぎる。

今度はあちらからこちらへ。
頬を撫でる風にまで旋律が乗っている気がして、耳を塞ぐ手に力を篭めた。


そうして閉じ篭ろうとすればするほど、感覚は敏感になる。
だから、背中へ注がれる視線にも気付いていた。

そうやって無遠慮に見られるのは好まないけれど、耳から意識を逸らせるのは有難い。
そんなこちらの思考を知らないだろうに、再び後ろの男は声を掛けてきた。


「どうして聴きたくないか、聞いても?」
「・・・嫌だからです」
「嫌?」


思い出して、きり、と鈍く心臓が痛む。
それを追い遣るように深く息を吐くと、自分の声に集中して言った。


「放っておいて下さいと、言った筈ですが?」
「でも、喋っている方が気は紛れる」
「わたしはお話しする事を持っていません」
「僕は君がどうしてそうやって耳を塞いでいるのかを知りたい」
「他人の好奇心を満たせる類の理由ではありません」
「それは僕が決める事だ」


普段なら無視をした筈だ。
それに反して饒舌なのは、もしかすると、誰かに聞いて欲しいからなのかもしれない。

そしてその「誰か」に、彼もキャプテンも、不在のカレを知る人間は全て含めてはいけない気がして。


今度は深く息を吸った。
そして、吐くのに言葉を乗せる。


「今日あの歌を歌う筈だった友人が、あの場所に居ないからです」


返事がある前に、続けた。


「その不在を、わたしは見たくない。ただそれだけです」


言ってしまえば、ただそれだけの事だ。
明確に衝き付けられるその空白を、視覚で、聴覚で認識するのは、まだしたくなかった。

それでなくとも、こうして触れる桜の幹に、石のベンチに、一人の昼休みに、風の強い吹き抜けに、保健室に、帰り道に、その不在を浮き彫りにする輪郭全てに触れるだけで立ち竦みそうになるというのに。


居る筈だった場所に居ない風景を認識するのは、出来そうになかったのだ。


涙は出ない代わりに、常より温度の高い溜め息をついた。
だから、その男がすぐ後ろまで来ている事に気付かず、あっさりと耳を塞ぐ手を外される。


「っ」
「もう歌は終わったよ、お嬢さん」


振り向くと、男は申し訳無さそうな顔をしていた。

あぁ、そんな風に同情して欲しい訳でも、同調して欲しい訳でも無い。
そう思ったら、思わずきつい目で見返してしまった。


「だから、言いましたよね?好奇心を満たせる類の話では無いと」
「ああ、そうだったね。申し訳な」
「謝らないで下さい。勝手に話したのはわたしです」


捕まれていた手首を乱暴に引き、男から離れる。
その勢いで一歩距離をとると、乱暴に一礼した。


「つまらない話を聞いて頂いてありがとうございました。それでは体育館へ戻るので、失礼します」


慇懃無礼で可愛くない、と自分でも思う。
けれど振り撒く愛想も持っていないから、構わなかった。


それに、二度と会う事もないだろう。


まともに顔も見ずに踵を返すと、わたしは足早に体育館へと向かった。
あのクラスの合唱が終わった以上、さぼる理由も無いのだ。






気になって、最後に一度だけ振り向く。
―――そこにはまだあの男が佇み、こちらを見詰めていた。





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