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「マリ、ローレルの葉を入れて?」 「うん」 細い指が、小さな袋から葉を二枚摘み出し、鍋へ放り込む。 「後は弱火にして、少し煮込んだらおしまい」 そう告げて前髪に隠れた額へ口付けると、そっとエプロンを外してあげた。 「さ、支度をしよう?出掛ける前に火を消せば、帰ってくる頃には味がしみてるよ」 白い冷蔵庫の側面へ貼り付けたマグネットに、僕と彼女のエプロンをかける。 そしてその手を握ると、日の当たるリビングへ二人で向かった。 安寧の底で微睡む 最近見つけたお気に入りのパン屋さんで、夕食用のフランスパンと朝ごはん用のクロワッサンを買う。 その次はスーパーに行って、サラダの材料だ。 レタス、トマト、キュウリ・・・籠に放り投げていると、彼女が僕の服の裾を引っ張った。 「ん?どうしたの?」 「アスパラガス、食べたい」 指差した先には、つんつん頭が並んでいる。 「じゃあ、塩茹でしてベーコンで巻こうね」 こくりと頷いた彼女は、小走りでそちらへ行き、つんつん頭の一人を連れて戻ってきた。 そいつも籠へ仲間入りさせて、次の売り場へ歩き出す。 ベーコン、生クリーム、牛乳、野菜ジュース、卵。 時間を掛けてメモに書き上げた必要な物を全て買い込み、僕らはスーパーを後にした。 外に出ると、秋の眩しい日差しが照らしてくる。 下がってきた温度の分はまだ太陽が助けてくれる、この優しい季節が好きだ。 「気持ち良いね」 そんな僕の心を読んだようなタイミングで、彼女が呟いた。 それが嬉しくて、繋いだ左手に力を篭める。 「うん。秋は優しくて好きだよ」 「優しい?」 「優しいよ」 首を捻った彼女も、僕の手を握った右手へ力を篭めた。 盗むように、その横顔を窺う。 夏にやつれた頬は漸く膨らみを取り戻し、睫はぴんと空を向いていた。 何も塗っていない唇はそれでも林檎の色で、思わず指を伸ばしたくなる。 けれど、繋いだ手は勿論離したくないし、もう片方の手には僕らのご飯。 仕方ないから、家に着くまでは我慢することにした。 「・・・ねぇ、イバラ」 「ん?」 風が、彼女の髪を撫でていく。 その柔らかさに目を細めながら首を傾げると、彼女は言葉を続けた。 「一緒に行きたい場所があるの」 「何処に行きたいの?」 今からなら、とりあえずこの荷物を家に置いてしまいたい。 そんな僕の思考を呼んだのか、今すぐに、じゃないんだけどね、と彼女は口早に言った。 そこで一度息を吸った唇。 けれどずっと考えていたのだろう、続く言葉に淀みは無かった。 「いっくんの居た町。幼馴染の、ジュンちゃんに会いたいの。それから、伯母様のお家。夏は心配を掛けてしまったから、ご挨拶に。あとね、」 此処で、躊躇いが一つ。 赤い唇が、再び息を吸った。 けれどそれを振り切ったのだろう、黒い瞳がこちらをひたと見据える。 「ママの、お墓参りに」 ずきり、と。 唐突に突きつけられた言葉に、小さく心臓が痛んだ。 「まだ、一度も行っていないから。一緒に、行こう?」 奪った命。 果たして、僕が会いに行っても良いのだろうか。 そんな悔恨や逃避を、彼女は勿論知っているのだろう。 だからこそ、一緒に行こうと僕に理由を与えようとする。 坂の下に広がる街。 それを背景にして風に吹かれながら佇む彼女の姿は、出会った時のユリさんの姿に酷似していた。 思い出して震えそうになる指先を、慌てて強く握り締める。 そして、立ち止まり僕を慮るように見上げてくる彼女に向かい、ゆっくりと笑んだ。 「うん。一緒に行こう、マリ」 もしかしたら、この顔は湧き出る悲しさや後悔に少し歪んでいたかもしれないけれど。 彼女は安心したようにほんの少しだけ口元を緩め、再び歩き始めたのだった。 月の光が眩しい夜だ。 廊下から間接照明をつけただけのリビングへ入り、そう思った。 食事の後ダイニングテーブルへそのままにしておいた食器は、綺麗に片付いている。 横を通り過ぎる時にキッチンへ目を走らせると、水切りの籠の中には今にも崩れそうな形で、綺麗に洗われた食器や調理器具が重なっていた。 その様が微笑ましくて、口元を緩める。 表情はそのまま、スリッパに包まれた足でソファへ向かうと、彼女は其処で寝転がり、イヤホンから聴こえる音楽に耳を澄ませていた。 「マリ」 そっと呼ぶと、黒い瞳がこちらへ焦点を合わせる。 そして両手で体を支えて起き上がり、僕が座るスペースを作ってくれた。 「ありがとう」 彼女は首を横に振ってから、イヤホンを外し、床に置いたCDラジカセのスイッチを切ろうと腕を伸ばす。 その場所が少し遠いせいか、パジャマの裾から脇腹が見えて、思わず指で触れてしまった。 「わ、」 カチャリ、 驚いたのだろう、スイッチを押すと同時に彼女はバランスを崩した。 だから慌ててその体を腕で捕らえ、胸の中へ引き寄せる。 そして顔を覗き込むと、彼女は少し不貞腐れたような顔をしていた。 「ごめんねマリ、大丈夫?」 「・・・大丈夫だけど、くすぐったかった」 「びっくりするくらいくすぐりに弱くて、びっくりした」 そう言ったら、ぷいと顔を背けられてしまった。 しまった。 機嫌を損ねてしまっただろうか。 心配して少し慌てたけれど、彼女は顔をそむけたまま、頬を僕の胸へ押し当ててくる。 だからそっと背中へ手を回したら、彼女の手も僕のパジャマの裾を掴んだ。 無意識に探った視線の先、左手の小指には律儀に指輪が嵌っている。 それを嬉しく思いながら、背中へ流れる黒髪を梳いた。 窓の向こうに浮かぶ月は、相変わらず眩しいほどだ。 それに照らされた彼女の細い首筋に、耐え難い飢餓と劣情を覚える。 安心しきってこちらへ身を預けてくる淡い体温が憎らしかった。 けれど同時に、どうしようもなく慈しみたくもなる。 「イバラ、」 くぐもった細い声で名前を呼ばれ、なぁに、と反射で返事をした。 その間も、髪を梳きながら身の内の葛藤を持て余す。 そんな事など全く知らない彼女は、猫の仕草で頬を擦り付けてきた。 「わたしよりあったかい」 「・・・そう?お風呂上りだからかな?」 「いつもと逆で、変な感じ」 「嫌?」 「嫌じゃないよ」 くすくすと笑い他愛ない言葉を転がす、この時間はまるで安寧の底のようだ。 思考の合間に、りぃん、と遠くで鈴虫が鳴く。 それに流された振りをして、彼女へ請うても良いだろうか。 あまりにも平坦で、いつも通りの夜だ。 それに流された振りをして、彼女へ願っても良いだろうか。 「ねぇ、マリ」 少し力を篭めて呼ぶと、彼女はゆるゆると顔を上げた。 こちらを見遣る瞳は少し伏せられており、夢が彼女を迎えに来ているのかもしれない。 彼女がその手をとる前に。 髪を梳いていた右手を左の頬に沿え、ゆっくりと撫でた。 薄闇に包まれた部屋の中で、彼女だけが唯一、明確な輪郭を持っている。 僕はその頬へ優しく口付けて、そのまま耳元へ唇を寄せた。 「血を、頂戴?」 ほんの少し、華奢な肩が揺れる。 そして彼女はずっと握っていたパジャマの裾を掴んでいた指を外し、僕の体に手をついて少し距離を置いた。 拒絶されるのなら、それでも構わない。 自棄ではなく、心底そう思った。 けれど、予想に反して彼女は自身のパジャマの釦を外し始める。 心臓の辺りが外気に晒された所でその指を止めると、その首が傾げられた。 「いいよ」 肯定の返事。 それに上手く反応できずにいたら、指が伸びてきて頭を引き寄せられた。 気付けば目の前には、白く温かな肌。 唇で触れたら、再びその体が震えた。 受け入れられたというのに、生じる躊躇い。 勿論それを知っている彼女は、何も言わずに僕の頭を抱き締める。 そのままどれくらいの時間が経っただろうか。 数秒だったかもしれないし、数十分だったかもしれない。 時間感覚の狂った頭は、漸く本能へ従うことを決めた。 口を開き、牙を突き立てる。 この瞬間のぷつり、という音と、痛みで強張った彼女の体がとても嫌いだった。 けれど、それも全て、甘い血の味で掻き消される。 抱えた衝動に流されて血を啜る自分の姿を滑稽だと冷静に思いながらも、それを止める事はどうしても出来なかった。 「ぅあ、」 彼女の呻き声にさえ、悦びを感じて目を細める。 そんな性を持った吸血鬼は、人間よりも獣の方が近いのかもしれないと、幾度嘆いた事だろう。 それでも。 彼女の血が自身の血肉になる事に代え難い幸福を感じる愚かさは、限りなく人間に近しいものだ。 充分な量を飲み下し、そっと牙を外す。 その拍子に白い肌を伝った赤い線も舌で舐めとり、力の抜けた彼女の体をソファの背もたれへ預けた。 「ありがとう、マリ」 掠れた声でそれだけを告げ、外された釦を留める。 その間も彼女は大人しくされるがままになっていたから、少し貰いすぎたかと不安になった。 出来るだけ揺れないように抱き上げて、寝室のベッドへ運ぶ。 そして静かにその身を横たえると、一旦リビングへ戻って照明を落としカーテンを閉めた。 闇に沈んだ室内も、吸血鬼の目には見通すことができる。 だから淀み無く寝室へ戻り扉を閉めると、そっと彼女の隣へ滑り込んだ。 「マリ、大丈夫?」 「ん・・・」 半ば無意識にこちらへ寄せてくる身を抱き締め、腕の中へ納める。 「お腹、」 「ん?」 「いっぱいに、なった?」 血を貰った後、彼女から必ず聞かれるそれに対する答えは、今日も同じだ。 「うん。ありがとう、マリ」 ならいい、と満足そうな溜め息に乗せて言い、彼女は瞼を落とした。 その背中を等間隔でゆっくりと叩きながら、自分も瞼を落とす。 微睡みの中で聴こえてきた寝息。 その穏やかさに引っ張られ、いつしか自分も夢の淵へと立った。 此処は、休日の夜。安寧の底。 戸惑いながらも求める事を覚えた僕らが、漸く見付けた最後の砦。 だから、どうか、このままで。 きっといつかは、流転の朝が来る事を知っているけれど。 どうか、今は、このままで。 |