眠るその表情は、とても穏やかだったという。




そしてその日の空は、憎らしいくらい青かった。





そして君はとなった






わたしを家まで連れて帰ったのは、勿論彼だった。

そのまま熱を出し、眠り続けるわたしの代わりに掛かってくる電話をとり続けたのも彼で、ご飯を作り、薬を飲ませ、眠るまで傍に居てくれたのも彼だった。


一人で生きていく事を放棄して、彼を縛り付けるのは、本当はいけないと分かっている。
それでも尚、甘え続ける事を選んだわたしを、神様は怒るのかもしれない。


けれどもう、そんな事どうでも良かった。
彼の居ないこの家は、ひどく広くて寒い事を知ってしまったから。




こうして彼は、再びわたしの生活の一部となった。








葬儀は地元で行う、という連絡がきた。
彼女の友人は、部活の顧問をしている教師と足を運ぶそうだけれど、熱を出した彼女を連れて行ける筈も無い。

参列できない為、後日弔問に伺いたい旨を伝え、とりあえずやるべき事は済ませた。


幾度か連絡を取り合っている内に、バスケット部のキャプテンだという彼女の友人とも少し話をするようになった。

その少年から聞いたけれど、ソウイチの巻き込まれた事故は、ただただ運転手の不注意だったらしい。というのも、ソウイチは歩道を普通に歩いていただけで、後ろからトラックが突然つっこんできたそうなのだ。


ほんの少しの不注意。
それだけで命を奪われてしまった事が、本当に悔しいし、悲しかった。


どうして、と。
問うたところで、答えは返ってこないけれど。




葬儀の日、止めるこちらの手を振り払い、彼女は黒いワンピースを着てベランダに立った。
そして祈るように両手を握り締めるその後姿を、僕はただ抱き締める事しか出来なかった。


憎らしいくらい青い空を、睨みつけながら。








ごめんね、いっくん。


君が居なくなったというのに、


わたしは、


(僕は、)


わたしが死んだ時の事を、


(僕が居なくなった時の事を、)


考えてしまった。


彼は、


(彼女は、)


泣いてくれるだろうか。


別れを惜しんでくれるだろうか。


ごめんね、いっくん。


わたしは、


(僕は、)


どうしようもなく。








「イバラ、」


口にした声は、予想以上に掠れていた。

それに反応して、後ろから回された腕に力が入る。
その少し低い体温に包まれながら、わたしは言葉を続けた。


「なんだか、実感が無いの」
「・・・うん。僕も、いっくんがもう居ないなんて、信じられないよ」
「もう、燃えてしまったかな・・・」
「・・・うん」


小さく震えたのは、わたしか、彼か。
お互い、なのかもしれない。


「いっくん、本当にお節介だったね」
「うん、そうだね」
「いっくんが居なかったら、わたし、キャプテンとメールしたりできなかった」
「うん。いっくんがマリの世界を広げてくれたの、知ってるよ」
「どうすれば、ありがとうって伝えられるかな」


しばらくの、沈黙。
そして口を開いた彼の声も、少し掠れていた。


「ごめんね、僕も分からないや」
「そっか」
「・・・一緒に考えよう?僕とマリの大事な人に、どうすればありがとうを伝えられるか」
「・・・うん」


風が吹いた。
夏だというのにそれが寒かった事にして、抱き締めてくる腕の中で振り向き、わたしも抱き返す。


先程よりも近い呼吸の音に、安堵を覚えた。
あぁ、彼は、此処に居る。


「イバラ」
「ん?」
「・・・何でも無い」


口に上りかけた願いは、ぎりぎりの所で封じ込めた。




ソウイチの両親は、地元で行った葬儀の後、位牌と共に仮住まいである現在の住居へ戻っていた。

本当は、知り合いも親戚も多い地元へ居たかったのだと思う。
けれど、こちらへの引越しがソウイチの父親の仕事の都合だった為、それが難しかったようだ。


その連絡をキャプテンから貰った次の日。
一度だけ訪れた事のあるソウイチの家に、彼と二人で伺った。


出迎えてくれたのは、優しく微笑むソウイチの母親だ。
けれどその頬はやつれていて、人の事をあまり言えないわたしから見ても、とても痛々しかった。


「ごめんなさいね、こんなひどい顔で」
「いえ・・・」
「来てくれてありがとう、まりあちゃん。あの子もきっと喜ぶわ」


そう言って通されたのは、六畳の和室だ。
小さく整えられた祭壇に違和感を覚えたのは、床の間が無い為に壁際へそれが置かれていたからだろう。

そっと座布団の上に正座をして、お線香を供えて手を合わせた。


窓から差し込む西日が眩しかったけれど、閉じた瞼を押し上げて祭壇を見上げる。
枠の中に飾られているのは、今より少し幼い頃のソウイチだろうか。

無邪気にこちらへ微笑みかけるその表情に耐えられそうもなくて、込み上げた感情を堰き止めた。


無表情で振り向き、彼に席を譲る。
すると彼も同じようにお線香を供え、長い間手を合わせていた。


「・・・何を、話しているの?」


小さく問うと、目を開けてこちらを振り向いた彼は、くしゃりと歪んだ笑みを湛えて言う。


「内緒だよ」


掠れた声は今にも泣きそうで、けれど結局、彼も涙を落とさなかった。


その後リビングへ戻り、少しだけソウイチの母親と話をした。

あの子はまりあちゃんと茨さんの事を本当に心配していたから、二人で一緒に来てくれて良かった、と言って気丈に微笑んだその強さが、どうしようもなく眩しくて。


こんなにも素敵な母親を置いていくなんて、本当に親不孝者だよ、ソウイチ。
最後に心の中でそう告げて、夕日に染まったその家を辞去したのだった。








彼女は覚えているのだろうか。
熱に浮かされて、何度も言っていた言葉を。




隣を歩く、夕日に照らされた横顔を眺めながらそんな事を考えていた。

熱が下がり、ようやく食欲が戻ったものの、以前より痩せ細った身体の線は相変わらずだ。
前を見詰める大きな瞳が、やつれた顔の中で異様に強い光を宿していた。


それが、こちらを向いて、捕らえる。
前へ運んでいた筈の足は、ゆっくりと止まった。


「イバラ」


静かに名前を呼ばれ、首を傾げる。


「ごめん、ね」


謝罪される理由が思い当たらず、余計に首を傾げた。
それをきちんと読み取って、彼女は言葉を続ける。


「離れようとしたイバラを追って、ごめん、」


ね、まで言わせたくなかった。
だから、それを口にしかけた唇へ、唇を押し付けて無理矢理黙らせる。

押し付けるように、一度。
少し離れて、今度は軽く。


舌で彼女の下唇をそっとなぞり離れてから、呆然と動きを止めた彼女の頬を右手で触れた。
びくり、と。その細い肩が少しだけ揺れた。


「マリ、いい加減にしないと怒るよ?」


あぁ、もしかすると。
今、自分はうまく笑えていないかもしれない。


だって、もう、そんな言葉を聞きたくなかった。


「ごめ、」
「マリ、あのね、何度言ったら分かってくれるの?僕は、」


そのまま右手を髪へ差し込み、乱暴に引き寄せる。


「マリの傍に、居たいんだよ?」


左手も背中に回して、きつく抱き締めた。


腕の中にいる彼女は、探るようにもがいた。
けれど、それを無視してそのままでいると、諦めたように大人しくなる。


そのまま、深呼吸を三回。
そこでようやく感情の波を抑え、囁くように聞いた。


「・・・ごめんね。怖がらせちゃった?」


彼女は顔を胸に押し付けたまま、首を横に振った。
それに安堵して、出来る限り優しく髪を梳く。


「信じて貰えないのは、僕が悪いんだけどね。それでも、僕は僕が望んで、マリの傍に居たいんだよ。だから、その事でもう謝らないで?」


戸惑うような間が空き、今度は首が縦に動いた。
いつの間にか力の入っていた肩を下ろし、閉じ込めていた小さな体を解放する。

俯いていた彼女は、恐る恐る顔を上げて、こちらを見た。
だから、安心させるように笑みを口の端へ刻む。


「マリこそ、本当に良かったの?僕が傍に戻ってきて」
「・・・うん。イバラは、嫌じゃない?」
「嫌じゃないよ。むしろ、望んだ事だから」
「・・・じゃあ、お願いがあるの」


そう言った彼女は、両手で僕の右手を握り、それを胸元へ導いた。
されるがままの右手は、彼女にぎゅうと抱き締められる。


蝉時雨が遠くで響いていた。
そんな、夏の逢魔が時。


彼女は、僕の心を上手に絡めとった。


「傍にいて。貴方がわたしを、要らなくなるまで」


今度は、僕が呆然と目を見開く番だった。
けれどそれを無視して近付いてきた彼女は、背伸びをする。


そして、触れるか触れないか。
そんな距離を、唇が掠めた。


「お願い、イバラ」


踵を地に着け、揺るがない瞳でこちらを見詰めてくる。
そこには切実な色が宿っていて。


拒絶、できる訳が無かった。


いつの間にか手放された右手で、今度は彼女の右手を捕らえる。
そして、小指と小指を絡ませた。


その意図が分からないのだろう。
不安げに首を傾げた彼女に再び笑んでみせると、そっと告げる。


「マリが僕を必要としなくなるまで、ずっと傍に居るよ」


指きりげんまん。そう言って、小指を離した。


「・・・本当?」


取り戻した小指を眺めながら、彼女は小さく呟いた。

信じられないのも、無理はない。
何も言わずに離れようとした報いなのだから、それはきちんと受け止めよう。


「本当だよ」


確かめるように頷いて、今度は手を繋いだ。
きつく指で握り締めると、ゆっくりと前へ歩き出す。


何も言わずに、彼女も足を運び始めた。
前へ伸びた影は、寄り添いながらついてくる。

その姿を他人事のように微笑ましく思いながら、最近ずっと考えていた事を唇に乗せた。


「もうすぐ、マリの誕生日だから」


ほんの少し、躊躇った。

けれど、覚悟を決める。
最後の決断を彼女に押し付ける、とても愚かな覚悟だけれど。


「その日に、約束のしるしをあげるね」


その言葉に、彼女は黙って、ただ頷いた。
夕日は更に、赤さを増していく。








熱に浮かされていた、というのは言い訳にしかならない。
だからわたしは、また二つ増えた罪を、抱えていかなければならない。


去ってしまったソウイチの面影が少しでも欲しくて、彼が置き忘れていった日記を読んでしまった。
そして、読むべきではなかった、と後悔したのだ。


ごめんなさい、いっくん。
わたしは少しでも、君の心の中を覗きたかった。

どうしたらそんな風に優しくなれるのか、心の底から知りたかった。


けれどそれは、方法の問題では無くて。
心の在り方そのものの問題なんだって、気付いてしまった。


ごめんなさい。
本当に、ごめんなさい。


優しい君が居なくなってしまった事が悲しくて。
それ以上に、彼がこのまま本当にいなくなってしまう事に、足が竦んだ。


君は最後まで、わたし達の事を案じてくれていたのに。
本当に、わたしは薄情だね。


彼が傍に居る事を知っていて、寝言の振りをしてあんな事を言ったわたしはずるいね。


こんなわたしを、君は許してくれるのかな。


それとも、許すとか許さないとか以前に、君は怒ってさえいないのかな。


ごめんなさい。ごめんなさい、いっくん。
それでもわたしは、イバラの傍に居たいんだ。








そう、彼女には内緒の話。
いっくんにだけ、教えるね。


この前まで寝込んでいた彼女は、熱に浮かされて言っていたんだ。

いっくんみたいに、イバラまで居なくならないで。
もう、誰も失いたくない、って。


皮肉だと思わない?
僕たちを元に戻そうとしてくれていた君の不在が、僕らを再び繋ぐきっかけになった。


ごめんね、いっくん。
君は怒っていないかもしれないけれど。


それでも僕は、こんなにも身勝手で薄情な自分が悲しいんだ。
悲しいけれど、それでも尚、彼女の傍に居たいと願うんだ。


だからせめて、僕はもう、彼女の傍を離れないよ。

いずれ時間が、僕らを分かつだろうと思っていたけれど。
もう、それも待たない事にした。


彼女の元で、僕を終りにしようと思うんだ。
ねぇ、これなら君も、許してくれるかな。


ごめんね、いっくん。
そして、ありがとう。

君のような優しい人間と出会えて、僕は確かに嬉しかった。








何度経験していたって、別れは呆気無くて、空は残酷なまでに青い。


せめて、せめて、安らかに。
おやすみなさい、ソウイチ。





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