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もう会わない、と決めていた。 だって、もう一度、言葉を交わし、触れてしまえば。 飛んで火に入る トゥルルルルルル 鳴り始めた携帯電話に気付いた弟の同居人は、それを持ってキッチンに居る弟の元へ向かった。 受け取り、通話ボタンを押して話し始める声。 意識の大半を目前のテレビに向けていたから、内容は聞こえなかった。 けれど流石に、弟が乱暴な足音で廊下を歩き、玄関を出て行った事には気付いた。 「・・・?」 それを見送ったらしい同居人が再びテーブルへ戻ってきたから、首を傾げて聞く。 「サク、何処に行ったの?」 「ちょっと僕も分からないです。ただ、」 「ただ?」 「場所を知らないだろうに、どうして突然来るんだ、と苦い顔して言っていました」 「・・・なるほど、誰かのお迎えね。相変わらず、サクはお節介さんだね。で、相手に心当たりは?」 そう聞くと、弟の同居人は視線を天井に彷徨わせながら、グラスに入った麦茶を口に含んだ。 それを飲み下し、息を吐き、そして幼い笑顔でこちらを向く。 「約一名」 「だぁれ?」 「来てからのお楽しみ、です」 くすり、と微笑むその表情に、ふと夕暮れの公園で会った少年の顔が重なった。 もう、件の幼馴染の下へ旅立ったのだろうか? それを考えると、頬が緩む。 「あ、イバラさん、ちょっとチャンネル回しても良いですか?」 「どうぞどうぞ、僕は特に見たいのないから」 「ありがとうございます」 リモコンを渡し、自分も麦茶を飲み干した。 蝉時雨の降り注ぐ、とても平和な夏の午後。 こんな日くらい、放っておいてくれれば良いのに。 運命の女神がもしも居るのならば、それは無慈悲に違いない。 ギィ、という低い音をたてて、玄関ドアを開く音がした。 弟と、誰かの足音が入ってくる。 けれど、廊下を歩きリビングへ入ってきたのは弟だけだった。 「兄さん」 「ん、なぁに?」 「来てくれ」 「え、僕?」 「いいから、早く」 その強制力を持った言葉に、躊躇いながらも頷いて立ち上がる。 弟と弟の同居人は、一瞬視線を合わせていた。互いに頷き、元の位置へ戻る。 その親密さを微笑ましく思ったけれど、少し険しい顔をした弟に笑いかけるのは躊躇した。 賃貸のマンションだから、少し造りは安っぽい。 下の部屋へ足音が響かぬよう注意して歩きながら弟へ近寄ると、弟は首を動かしてついて来るよう示してきた。 それに頷き、薄暗い廊下へ出る。 2LDKのこの家は、リビングの隣の洋室と玄関を入ってすぐの和室があるだけだから、自分が今現在寝室としているその和室に客人が居る、というのは明白だった。 「サク、誰が」 「兄さん、いい加減ちゃんと向き合え」 ぴしゃりと言われ、扉の向こうに居るのが誰か、確信する。 そして襖を開ける弟の手を止めようと思ったけれど、思った以上に緊張した体は咄嗟に動かず、呆気ないほど簡単にそれは開かれた。 部屋の中央に立ち竦んでいた彼女が、こちらを振り向く。 そして、大きく目を見開いた。 「・・・イバラ」 やつれた顔が、とても痛々しい。 思わず、手を伸ばし、駆け付けて抱き締めたくなった。 けれど、自分で自分の手を抑え、それを堪える。 駄目だ。 今、触れてしまえば、もう、きっと。 「俺とヒバリは、居間にいる。何かあったら、声をかけてくれ」 そう言った弟が、横をすり抜けて部屋を出て行った。 ぱたり。 襖が静かに閉まる。 それを目線で追ってから、再び彼女と向き合うと、その顔はひどく泣きそうに歪んでいた。 「マリ、?」 「イバラ・・・どうしよう、」 涙が流れる、一秒前。 「いっくんが、」 手が、こちらへ伸ばされた。 スローモーションの世界。 ぽろり、と一粒落ちた涙が、畳の上に染みを作った様まで鮮明に脳内へ映し出される。 伸ばされた指先が、こちらの手首を掴んだ。 あぁ、ほら。 もう、駄目だ。 血が、沸き立つ。 「いっくんがっ、」 細い体を、強く抱き込んだ。 縋り付いてくる指をそのままに、長い黒髪へ右手を差込み、左手で背中を撫ぜる。 ほら、捕まえてしまった。 もう、この腕から逃がしてやることなんて、出来ない。 腕の中の温かさに安堵して、深く息を吐いた。 けれど彼女は何度も言葉を紡ごうとして口を開いては、無意味な呼吸を繰り返し、握ったこちらのシャツへより縋ろうと指先へ力を篭めてくる。 「マリ、」 耳元で、そっと囁いた。 びくり、と小さな肩が震えて、涙で濡れた頬が胸の辺りに押し付けられる。 「マリ、そんなに掴まなくても逃げないから、落ち着いて?」 握ってくる指の力が、ほんの少しだけ緩んだ。 けれど顔はそのまま、彼女は口を開いた。こちらに顔を押し付けているからくぐもった声だけれど、それはきちんと届く。 「・・・本当に?」 「うん。もう、何処にも行かないから、」 何処にも逃さないから、 「顔を見せて?」 優しく告げたけれど、彼女はいやいやをするように首を横へ振った。 「ごめんなさい、本当は、もうイバラを解放するべきだって分かってるの、でも、」 解放、する。 彼女も自分と同じように、自分が僕の傍に居てはいけないと考えていた事が、その一言で分かった。 なんて愚かで愛しいのだろう。 蝕まれているのは、確実に彼女の方だというのに。 求められたら、もう、手離せなくなるというのに。 表面では優しく彼女を宥めながら、内側ではどろどろと溢れてくる自身の独占欲を冷静に嗤う。 永い時を渡って尚、人間くさい感情を持て余す自分に正直驚きさえした。 もう二度と、自身の感情の言うなりにはなるまいと、コントロールしてきたというのに。 いとも簡単に、それが砕かれてしまった。 こんな、数えるのも億劫なくらい年下の少女相手に、だ。 彼女には伝わらないよう、口元だけ皮肉に歪めて笑んだ。 それでも、この口が紡ぐのは優しい保護者の声。 「大丈夫だから、マリ。僕は、望んでマリの傍に居るから。だから、顔を見せて?」 もう一度、問うた。 すると漸く、彼女はゆるゆると顔を上げてこちらを見詰めてきた。 その、あまりのやつれた様に悲しくなって、右手で頬を包み込む。 「マリ、どうしたの?何をそんなに怯えているの?」 問い掛けてから、気付いた。 そう、彼女は怯えている。 焦点は合っているけれど、熱で混乱した時のように、怯えた目でこちらを見上げていた。 ぽろり。 また、落ちる涙。 小さな唇はそれでも、言葉を紡ごうとして開いた。 「いっくんが、居なくなっちゃう・・・っ」 ぽろり、ぽろり。 彼女がここまで泣くのは、初めて見たかもしれない。 他人事のように、そう思った。 「兄さん?」 人差し指をたてて唇にあて、そっと襖を開けた弟へそれを示す。 すると弟もその意味を理解したのか、小さく頷き黙ってこちらを見てきた。 「さっき、漸く寝付いたんだ。もう少ししたらそっちに行くから」 囁くように伝える。 すると弟はもう一度頷き、そっと襖を閉めた。 夕暮れ時だ。 北側にあるこの部屋はただでさえ暗いというのに、日が翳って更に室内は暗い。 ぼんやりと薄闇に浮かぶ襖の模様を眺めてから、再び間近にある白い顔を見下ろした。 壁に背中を預けて座り、抱え込んだ彼女の体の線をそっと指でなぞる。 あの夜と比べて、一層細くなった気がした。 眉をひそめて眠る姿は、本当に痛々しい。 先ほどまで止まらない涙に晒されていた頬をそっと拭い、静かに唇を落とした。 柔らかな感触に、独占欲が鎌首を擡げる。 けれどそれを抑えると、そのまま手を背中に回し、等間隔のリズムで叩いてやった。 「・・・子どもみたい」 そう呟いて、苦笑する。 けれど確かに、感情表現を覚えたばかりの、拙い足取りで歩くその姿は、女子高生の格好をしていたって子どもなのだ。 「ごめんね。辛い思いを、させちゃったのかな」 もう一度、今度は額へ唇を落とした。 そのまましばらくあやすように背中を叩き続け、ようやく寝息が深くなったところで、その体を布団へ横たえてそっと部屋を出た。 大きく窓をとってあるリビングは、ベランダから西日が差し込んでいて、先ほどの暗い部屋へ長時間居た目には少し眩し過ぎた。 出て行った事に気付かなかったけれど、弟の同居人はどうやら外出しているらしい。 一人キッチンに立ち包丁で何かを刻んでいた弟は、こちらに気付くとエプロンで手を拭きながら近づいてきた。 「お疲れ様、兄さん。彼女は寝たのか?」 「うん。最近上手に眠れてなかったみたいで、今はぐっすり眠ってるよ」 「そうか、なら良いんだが・・・良い、のか?」 「んー・・・」 弟が何を「良いか」と聞いてきたかは、考えるべき事が多すぎてよく分からなかった。 だから、思いついたままに答える。 「状況はあまり良くない、かなぁ」 「何かあったのか?」 「・・・うん。文化祭で会った男の子、覚えてる?」 「あぁ、あの飄々とした・・・」 「うん、その子。その子がどうも、事故に巻き込まれてしまったみたいで」 そこで一旦言葉を切り、息を吐いた。 右手で拳を作って額にあて、しかめた眉を隠す。 「マリの友達の話だと、重態らしい」 「・・・そう、か」 つられて、弟も悲しそうに眉をしかめた。 夕日に照らされた部屋で、唯一騒がしくしているテレビの電源を落とす。 そして少し乱暴に床へ座り、テーブルへ彼女の携帯電話を置いた。 「何かあったら、またその友達が連絡してくれるって。とりあえず、携帯は預かったけど・・・」 「あまり、とりたい電話ではないな」 「・・・サーク。縁起でもない事を言わないの」 「・・・すまない」 とは言うものの、自分も殆ど諦めていた。 見送るのなんて、慣れている。自分も、弟も。 その人数が、また一人増えるだけなのだ。 例え自身と深く関わった相手だとしても、自分にはどうする事も出来ない。 そう諦めなければ、この永い月日を生きてなんかいられない。 久しぶりに、真正面から心をぶつけてくれた、代え難い友人だったとしても。 それは、変わらない。 赤く染まった空を見遣り、どうしようもなくて苦笑した。 「サクまでそんなに暗くならないで?」 「だが、」 「これは、僕とマリが向き合うべき事なんだから。ね?」 そう言って首を傾げてやると、弟は分かった、とだけ言ってキッチンへ戻っていく。 その背中を見送ってから、再び空を見上げた。 そして、考える。 もしも本当にあの少年が、居なくなってしまったら。 彼女はどれだけ悲しむのだろうか。 もう、拒絶されない限り手離すつもりは無いけれど。 自分は彼女の傍に、居ても良いのだろうか。 「ねーぇ、サク」 「なんだ?」 キッチンへ向かって声を掛けると、振り向きはして貰えなかったけれど、弟は律儀に返事をしてくれた。 それに甘えて、弟に聞いた所で答えのでない疑問を投げる。 「僕は、彼女の傍に居ても良いのかな?」 返事はすぐに、して貰えなかった。 野菜を刻み終え、包丁を水で濯いで定位置へしまい、頭上の棚からボウルを出す。 そこへ刻んだ野菜を全て入れてしまい、そして漸く弟は振り返った。 「兄さんは、ヒバリになんて名乗った?」 「?イバラって・・・」 「昔の名前では無くそれを名乗ったという事は、結局は彼女から離れられなかった、という事だろう?それなのに、何を今更そんな風に聞いてくるんだ」 当然の事のように言うから、こちらがぽかんとしてしまった。 けれど、回りくどい表現とはいえ欲しかった言葉をくれた弟に、つい微笑んでしまう。 「ありがと、サク。本当にお兄ちゃん想いだねぇ」 「・・・うるさい」 くすくすと笑い、背中から床へ倒れた。 そして天井へ掌を翳し、大きく息を吐く。 再び腕の中に戻ってきた、あの温かさを思い出しながら。 「あれ、そういえば」 独り言を言うのも憚られたから、そこで言葉を切って耳を澄ませた。 聞こえてくるのは、キッチンで料理をする音、近くの道路を走り抜ける車のエンジン音、そして、遠くで響く蝉の声。 昼間までは、付き纏うように耳から離れなかった蝉時雨が、とても、遠かった。 彼女の携帯電話が鳴ったのは、その日の深夜。 眠り続ける彼女の代わりにそれをとり、話を聞いたのは、決して間違っていなかったと思う。 受話器の向こうからは、礼儀正しい彼女の友人の沈んだ声。 「燥一が、息を引き取りました」 彼女にどう伝えれば良いか、分からないまま夜が更けた。 |