どうか、幸せに。 イバラ




たったそれだけの言葉だ。


けれど、それが意味する事はすぐに理解したし、
小さな小さなメモ用紙は捨てられず、ひきだしの中へ閉まってある。





だと言って






バタン、


大きな音がして、夢の淵から一気に引き戻された。
沈むように横たわっていたソファから起き上がり、音のした方向を見遣る。


彼の部屋の扉が、いつの間にか閉まっていた。


「・・・イバラ?」


立ち上がり、そちらへ近付く。
不安定な足取りに眉をしかめながらも、辿り着いた扉を開けて部屋の中を覗き込んだ。


勿論そこには、誰も居ない。


溜め息をついて、ずるずるとその場へ座り込んでしまった。
けれど、立ち上がる気力も無くて、床の冷たさに甘えてそのまま寝転がる。


カナカナカナ、カナカナカナ


開け放った窓から容赦なく侵入してくる、蝉時雨。


ヒグラシの鳴き声は、あまり好きではなかった。
ママが死を選んだ日を、思い出すから。






マリ、マリ、こんな場所で寝てどうしたの?!
風邪ひいちゃうよ、ベッドに行こう?


体が宙に浮く。
歩く気配がする。
そっとベッドへおろされる。
額へ口付けられる。


ありがとう、と無意識に呟いて、そのまま深い眠りへ落ちた。






カナカナカナ、カナカナカナ


音が、世界へ戻ってくる。
ゆっくりと瞼を押し上げると、夢の中でベッドへ運ばれた筈の体は、今もまだ床に横たわっていた。


冷えた体を起こしながら、息を吐く。


「何時・・・?」


窓の外は、鮮やかな橙に染まっていた。


夜へ近付く世界を認識して、ゆっくりと立ち上がる。
壁に手をつかないと立てないほど足に力が入らないけれど、そんなのはもう、どうでも良かった。


「・・・どうでもよく、ないかな」


独り言で訂正をして、キッチンへ歩いていく。


彼が、心配して戻ってくることのないように、しっかりしなければ。
そう思うけれど体がついていかず、ここ三日間はまともな食事もとっていなかった。


伯母にも、ソウイチにも頼る気になれない。
これは、自分でどうにかしないといけない問題だから。


そう思い、冷蔵庫を開ける。
中に入っていたのは、萎れたレタス、使いかけのタマネギ、賞味期限の切れた牛乳。


まともに食べられるものさえ無かった。


「いいや、明日、買い物に行こ・・・」


返事の無い言葉が、これほど部屋に響くものだと知らなかった。

いや、知っていた。忘れていただけだ。
彼と過ごした数年が、そうさせていただけだ。


元に戻った。
そう、それだけ。


重い体を引き摺り、今度こそ自分の部屋のベッドへ倒れこむ。
そして深く息を吐いた瞬間、再び眠りへと落ちていった。






夜中、一度だけ目が覚めたのは、頬をなぞる手の感触がしたからだ。


けれどそれは、風に揺れたカーテンだった。






カナカナカナ、カナカナカナ


翌朝、蝉の声で目が覚めた。
時計を確認したついでにカレンダーが目に入り、今日は図書館に行く日だったことを思い出す。

同じクラスの所属で、ソウイチの先輩でもあるバスケ部キャプテンに、何故か勉強を教える事になってしまったのだ。
決して嫌な事ではないし、むしろそのようなきっかけを作った狐モドキのお節介に感謝と呆れを感じたけれど、今日ばかりは行けそうにない。


体調が悪いから行けない、とだけ携帯電話でメールを送り、再び枕へ突っ伏した。


数分後、電話の着信音が鳴った。
面倒さを感じながらディスプレイを見ると、そこにはソウイチの名前が表示されている。


「はい」
「まりあさん、こんにちは。大丈夫ですか?」
「・・・大丈夫って?」
「体調悪いって、先輩に聞きました」
「あぁ、うん。少し夏バテしちゃっただけだよ。ありがとう」
「それなら良いんですけど」


いつも通りの涼しい声の後ろからは、雑踏の音がした。


「いっくん、お出掛け?」
「はい、そうです。今からしばらく地元へ戻るので、何かあっても駆けつけられないですよ?大丈夫ですか?」
「いっくんはお節介の上に心配性。大事な幼馴染さんに会いに帰るんでしょ?わたしの事なんて放っておけば良いのに」
「心配させるまりあさんが悪いんです」


くすくすと、笑い声が響く。
それに少しだけ安堵して、口の端が笑みの形を作った気がした。


「ありがとう、でも大丈夫だから。気をつけてね」
「はい、ありがとうございます。まりあさんも、お大事に」
「うん。それじゃあ、いってらっしゃい」
「いってきます、まりあさん」


そう言って、通話は切れた。


携帯電話を床に置き、もう一度タオルケットに包まる。
喉が渇いたけれど、それ以上に眠ってしまいたかった。


カナカナカナ、カナカナカナ


その声があまりにも五月蝿くて、手を伸ばしベッドに近い位置にある窓を閉める。
そうして音が遠ざかると、再び睡魔が襲ってきた。


「いっくんは、幼馴染さんとちゃんと話して、ずっと一緒にいるって約束するんだよ・・・」


掠れた声で、祈るように呟いた。
せめて、せめて、ソウイチは笑顔でいて欲しい。

彼の永遠の不在。
ただそれだけのことで、自分はこんなにも駄目になってしまったから。






総じて祈りは届かないものだ、と。


知っていたはずなのに。






膜を被せたように、世界が遠かった。

何度か家の電話の鳴る音がしたけれど、それを他人事のように見詰める夢の中の自分。
それさえ輪郭を無くし、再び意識が温く暗い場所へ向かう。


それを繰り返す間の夢で、幾度も彼の声を聞いた。
けれど、どうしても上手に顔を見上げることができず、細い喉を見詰める。


マリ、


低い、少し掠れた声も。


マリ、


それを紡ぐ度に動く、喉仏も。


マリ、


触れる骨ばった指も、少しだけ低い体温も、全てを覚えているのに。


何度も手を伸ばしても、結局、届かなかった。


涙の滲んだ目で世界を認識して夢だった、と安堵し、けれど結局、どちらの世界でも結局は触れられない距離があることを思い出して、それならばと再び夢へ沈む。


そんな事を、一日中、繰り返していた。










プルルルル、プルルルル、


あまりにも鮮明な音に、意識が急速に浮上する。


ガタガタと体を揺らしながら主張するそれへ手を伸ばして掴むと、果たして自分の掴んだものはなんだったか、と思考を巡らせながら引き寄せた。


そして、目の前で手を開く。
そこには、見慣れた携帯電話が収まっていた。


「・・・電話の、音?」


鳴っている音は、メールではなく電話の着信音。
それを認識した瞬間、一気に頭の中がクリアになり、慌てて通話ボタンを押した。


「っもしもし」
「やっと出た・・・!」


受話器の向こうから聞こえてきたのは、朝、メールを送ったキャプテンだ。
電話を掛けてくるなんて珍しい、と思ったけれど、その口調の切羽詰まった様子に何も言えず、ごめんなさい、と呟いた。


「いや、違うんだ叶谷を責めたい訳じゃなくて、あぁ、くそっ!」


ただ一人で混乱する受話器の向うの少年に、困惑する。

常であれば、にこにこと穏やかな表情で周りに気を配る人間だというのに。
言い馴れていないであろう悪態をつくその焦り様は、この電話がただ事ではない何かを伝える為の電話だと嫌でも示してきた。


「キャプテン?どうしたの?」


そっと聞くと、電話の向こうで唾を呑む音がした。


「俺もまだ、きちんと状況を把握した訳じゃないし、むしろ理解してないんだ・・・」


自身の心を整理するように、確認するように話される言葉に頷く。


「ごめん、俺も焦ってる。だけど、叶谷にはすぐに言わないと、と思って・・・落ち着いて、聞いて欲しいんだ。っあぁもう、俺が落ち着けよ、」


あぁ、嫌なニュースだ。
そう確信して、耳を塞ぎたくなった。


けれど、憔悴しきった状態のキャプテンが、それでも尚連絡をしてきた理由。
それを聞かない訳にはいかない。






例え、聞いた後で、聞かなければ良かった、と思ったとしても。






「さっき、学校に連絡が入ったらしい。燥一が ―――――――――」






カナカナカナ、カナカナカナ


嘲笑うような、ヒグラシの声。






電話を取り落としそうになり、けれど辛うじてそれは抑えた。


流れ込んでくる、言葉の羅列。
理解したくないというのに、頭が勝手に処理をする。






そして、全てを聞き終え、電話を切った瞬間。


服を脱ぎ捨てて、箪笥に仕舞ってあった洗濯済の服を着て、戸締りをして、鞄へ財布と携帯を詰め込み、部屋を飛び出た。






もう何も、考えたくなかった。


ただ、もう、一人では居られなかった。






駅までの道を走りながら、理解したくない先ほどの話を抱えながら、それでも冷静な心の片隅が囁く。






駄目だ、せっかくわたしから解放されたのに、今会いに行ったら引き止めてしまう。


いいじゃないか、もう、泣いて縋って甘えてしまえ。ずっとそうしたかったんでしょう?






踵を地面に打ちつけながら、駅までの道をひたすら辿る。
先ほどまでの体の重さは、嘘のように消えていた。


体とは逆に、どんどん鈍重になっていく思考に知らない振りをする。
本当に、もう、何も、考えたくなかった。






カナカナカナ、カナカナカナ
鳴き声が、追い掛ける様にずっと聞こえている。






だからヒグラシは嫌いだ。
嫌な事がある時は、必ずこちらを嗤うように鳴いている。






わたしは、泣く余裕さえ無いというのに。






足が縺れて、転んだ。
それでも、走る事は止めなかった。


カナカナカナ、カナカナカナ
背中に迫る夏から、どうしようもなく逃げたくて。






わたしを置いて何処かへ行ってしまう人達に、どうしても追い付きたくて。





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