こんなにも呆気無い。





さよならの






「もう夕方ですよ、起きて下さい」


柔らかな声で言われ、緩く体を揺すられれば、誰だって二度寝したくもなる。
しかも寝た理由が不貞寝なものだから、起きたくない気持ちの二乗だ。


「んーもう少しー」


こんな風に惰眠を貪るのは、いつ以来だろう。
怠惰で安穏と続く毎日に、脳みそが溶けてしまいそうだった。


カラカラ、カラカラ。
廻る扇風機の音に合わせて、声とは逆の方へ寝返りを打つ。


「イバラさん、ご飯できましたよっ」
「んー食べないー」


もう一度声を掛けられ、体を揺すられた。
けれど、タオルケットを被って起きない主張をする。

夕飯を抜いたところで、食事という食事を抜いたところで、吸血鬼は死なないのだ。人間の血さえ補充できていれば。


ぼんやりとそんな事を考えながら、夢に堕ちようと深く息を吐く。
その、一番力が抜けたタイミングで。


「いい加減にしろ、兄貴。ヒバリが困ってる」


弟の足蹴りを頂戴した。


「いてっ」






折り畳みテーブルを三人で囲む。
今日のメニューは冷麦で、栄養バランスが偏らないようにナスとピーマンの味噌炒めや卵焼きも並んでいた。


三人揃って吸血鬼だというのに、毎日こうして料理の支度をする弟はとてもまめだと思う。
確かに普通の食事をしなければ多少の空腹感はあるけれど、食べなくたって死にはしないのだ。


「ねぇ、サク」
「なんだ」
「どうしてこうやって毎日ちゃんとご飯食べるの?」


そう聞いたら、弟はどうしてそんな当たり前の事を聞くんだ、という顔でこちらを見た。


「人生から食の楽しみをとったら、残るものは少ない」


確かに。
そうだね、と相槌をうち、お箸を手にとって黙々と食事を続けた。


弟も弟の同居人である少年も、あまり会話をせずに食事を進める。
代わりにつけたテレビの音を室内へ響かせながら、たまに流れるニュースについて二言三言交わし、あまり時間を掛けずに食べ終わるのがこの家の食卓だった。


「ごちそうさまでした」


最後の一人がそう言ったら、最年少でもある弟の同居人がそれをキッチンへ運び、洗い物をする。
料理は弟が、洗い物は弟の同居人が、その他は分担して。そのような決まりになっているらしく、幾度洗い物をする旨を申し出ても、幼い笑顔で断られた。


確かに、仮住まいである自分が彼らの生活を乱すのはあまり良くないだろう。
とはいえ、居候している事自体が彼らの生活を乱している最たるものなのだから、何かを手伝うくらいはしたかった。


「うー、ヒバリ君は僕に洗い物をやらせてくれないね、いつも」


食事が終わり、弟と対面で座った折り畳みテーブルへ顎を乗せて、深く溜め息を吐く。
こんなお兄ちゃんの姿を腐るほど見ている弟は、何も言わずにちらりとキッチンで洗い物をする背中を確認してから、ほんの少しだけこちらへ顔を近付けた。

テレビの音声に紛れる程度の声。


「ヒバリには関係ない事だから、今話しておく」
「ん、なぁに?」


体勢はそのまま、上目遣いで弟と視線を合わせた。
常日頃からあまり笑みを造らない弟は、いつも以上に真面目な顔だ。

言葉を探るような、間。
けれどそれもすぐに、弟の声で消えた。


「今日、彼女に会った」


その言葉に、反射で体が緊張する。


「・・・へ、ぇ。そっか。何処で会ったの?」
「図書館。たまたま居て、少し話したよ」


テレビから、どっと笑い声がした。
それを遠くで聞きながら、言葉を探す。

知りたい事を聞けるように。
なるべく、関心を持っていると思われないように。


「・・・元気だった?」


選んだ言葉は、まぁ、良かった。
ただ、表情と口調が良くなかった。

弟は、一瞬だけ顔を歪めてから、瞳を閉じて溜め息をつく。


「・・・そんなに気になるなら、会いに行けば良いだろう」
「そ、それができたら今此処に居ないよ」


思わず、動揺が声に出てしまった。


「・・・それもそうだが。彼女はいつも通りだったよ。あぁでも、少し顔が違った」
「顔が違う?・・・誰かと喧嘩して顔を殴られて腫れてるの?!」
「・・・・・・どうしてそこまで飛躍するんだ」


もう一度溜め息をつかれてしまい、申し訳なくなる。
けれど、謝罪を口にする前に弟が言葉を続けた。


「メイク、してたのかな。相変わらず無表情だったが、少し綺麗になっていた」
「・・・・・・泣きそう」
「泣くなら部屋で一人でやってくれ。付き合いきれない」
「サクぅぅぅ、ひどいーっ」


眉を下げて弟の服を掴むと、後ろからくすくすと笑う声が聞こえてきた。
表情はそのままで振り返ると、弟の同居人がエプロンで手を拭きながらこちらへ歩み寄って来る。


「本当に、サクとイバラさんは仲が良いんですね」
「良くない。ヒバリ、勘違いするな」
「そうだよーヒバリくん、サク冷たいもん」


弟の隣に座ったその同居人は、いえ、充分仲良しですよ、と言って首を傾げた。
そのつんつん跳ねた黒髪へ、弟が手を伸ばす。


「洗い物、助かった。居候の分が増えて毎日大変だろう」
「どういたしまして。大丈夫ですよ、これくらい」
「兄さんを甘やかすな」


くしゃくしゃと髪を掻き乱しながら頭を撫でる弟の瞳には、優しい色が宿っていた。


この家へ転がり込んできてその姿を見た時には、どのような経緯で共に暮らし、どのような関係でいるのか、なんてそっちのけで、得難い存在を手に入れそれを守る弟に安心した。

この先どうなるかは分からないけれど、二人の穏やかな日々が少しでも長く続けば良い、と思う。


「さぁて、邪魔者は寝ようっと」


頭を撫でられ照れ笑いをする弟の同居人に、洗い物をありがとう、とだけ告げて立ち上がった。


「兄さん、どれだけ寝れば気が済むんだ・・・」


呆れた様子の弟には、さぁねぇ、ととぼけて首を傾げる。
そして、明るいリビングから暗い廊下へ身を滑り込ませると、


「それじゃあ、おやすみなさい」


と笑顔で告げて、そっと自分に宛がわれた和室へ入った。


電気を点けず、手探りで扇風機のスイッチを入れて布団へ倒れこむ。

カラカラカラ、カラカラカラ、
プロペラの廻る音がやけに響いた。


畳に布団を敷いて寝るのは、何年ぶりだろう、と疑問が掠める。
どうでも良い事だけれど、なんとなく数え始めた思考をそのままにした。

彼女と暮らし始める前だから、四年近くは経っているだろうか。
それほど長く、共に居た事に自身で驚いた。


「そっかぁ・・・四年かぁ・・・」


その歳月よりも、彼女と顔を合わせなくなってからの方が余程長い気がする。
それに自嘲して、タオルケットに包まった。


「会いたいなぁ・・・」


呟きは、闇に融ける。






あれは、夢だったのだろうか。
室内に弟がやって来て、呟いていた。

彼女は、兄さんに会いたいと言っていたぞ、と。






呆れることに、翌朝、図書館へ足を運んでいた。

もう会わない。
そう決めていたけれど、せめて姿を見たいと思ったのだ。


深く帽子を被り、茶色いタイルの建物へ入る。
ゆっくりと踏みしめるように歩きながら、鉢合わせにならないよう視線を巡らせた。


夏休みに入ったからだろうか、子どもと学生の姿が少し多いようだ。
足音がしないようにそっと歩きながら本棚の間をすり抜け、読書用の机のあるエリアへ差し掛かると、すぐにこの目が彼女を捕らえた。


此方を向く席へ座っているけれど、隣に座る同級生らしき少年に何かを説明しているから、視線に気付かれる恐れは無い。
本棚の影からそっと覗く彼女の姿は相変わらずで、けれど確かに顔、というか、雰囲気が違った。


窓から差し込む日光に照らされた横顔は、睫毛が上を向いているから、化粧をしているのは確かだろう。
けれど、それ以上に。

彼女の伯母が持つ、独特の深さがほんの少しだけ滲みでている気がした。


軽く瞼を伏せたその艶っぽい表情に、ずきり、と胸が痛くなる。


彼女に触れたかった。
触れて、奪って、穢して、自分だけのものにしたい、という欲求が鎌首を擡げた。


それと同時に、隣に座る同世代の少年の事が憎く羨ましくなる。
彼女と対等の立ち位置に居られるという一点は、どうしたって自分の手には入らないから。


「・・・ほんと、馬鹿」


ぽつりと呟き、踵を返した。






本当に、自分は馬鹿だ。
姿を見たら、別れ難くなるというのに。

叶わない願いに、身を焦がす事になるだけなのに。






彼女が居ない事は分かっているから、その足で坂の上のマンションへ帰った。
いい加減荷物を運び出さないといけないし、なにより、彼女がきちんと食事をしているか、していないのなら何かを作って冷蔵庫に入れておきたかったからだ。


泥棒になった気分で鍵穴へ鍵を差し込み、玄関を開ける。
温度が高く蒸した空気が襲い掛かってきたけれど、構わず廊下を突っ切ってリビングへ足を踏み入れた。


真正面には、開け放ったカーテンと、その向こうに空がある。
見慣れたはずの懐かしい光景にまた胸の痛みを覚えながら、キッチンへ入って冷蔵庫を開けた。


そこには、ビーフシチューを煮込んだ鍋とサラダ、パックに入った白米が入っている。


「・・・良かった。ちゃんと食べてるみたい」


ほっと息を吐き、リビングへ戻った。
そのまま窓を開けて、自分の部屋へ足を踏み入れると、壁に寄りかかって室内をぐるりと目線だけで観察する。

この荷物を、どう運び出そう。
そう思いながら再び視線を巡らせ、目の端が捕らえた机の上の白い紙に違和感を感じ、そちらへ近づいた。


よく見るとそれは小さなメモ用紙で、書かれた字に見覚えがあって慌てて手に取った。


「イバラへ・・・」


間違える筈が無い。彼女の字だ。


丁寧な文字でメモ用紙いっぱいに書かれたそれに、黙って目を通した。
耳にへばりついた蝉時雨が、束の間、遠のく。


そして、最後まで読んだ瞬間、鼻の奥がつんと痛くなった。


視界が滲む。
けれど、それを堪えて手の甲で目を擦った。


はぁ、と、詰まった息を吐き、天井を仰ぐ。
乾いた喉が紡ぐ自身の声は、掠れていた。


「・・・違うよ。僕が君を要らなくなったんじゃないんだ」


手の中のメモをくしゃりと握り、胸に抱き締める。


「君が、僕が居なくても大丈夫になったんだよ」


ひく、と喉が鳴った。
けれど、それでも、意地で涙を堪えた。






ねぇ、ユリさん。
貴方の娘は、一人で生きていけるようになったみたいです。

僕はもう、居なくなるべきですよね?






蝉時雨が、耳の奥で響き始めた。






彼女と同じようにメモへ言葉を書き残して、何も持たずに家を出る。

青い青い空の下、坂道をゆっくりと歩いた。
時折車が走っていったけれど、とても静かな昼下がりだ。






本当に、終わりというのは呆気無い。
何度も味わい、知っていた筈のその事実を再び胸に刻みながら、帰り道を辿った。


帰り道?
何処へ帰るというのだろう。


また探さなくてはいけない其の場所に、途方に暮れた。
それでも容赦なく、夏は鮮やかに世界を彩る。


「まずは、部屋探しからかなぁ」


おどけて呟いた言葉は、皮肉に響いた。






ポケットに突っ込んだあのメモは、弟の家でゴミ箱に捨てた。






イバラへ

おかえりなさい。冷蔵庫にビーフシチューとサラダとご飯が入っているので、お腹が空いてたら食べて下さい。
貴方はもう、わたしの事が要らなくなったんだよね?だから、居なくなるんだね。
イバラのお陰でご飯も作れるようになったし、掃除も洗濯もちゃんとできるから、わたしは大丈夫です。
貴方は貴方が笑っていられるように生きて下さい。
今までありがとう。





 戻る 











結局、彼は気付かなかった。
彼女がメモ用紙の裏に、付け足すように書いた言葉に。




・・・それでも、一緒に居て欲しいって思うのは、わたしの我が儘だよね。 マリ