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彼の不在が続くまま、夏休みがやって来た。 日に日に増していく蝉の鳴き声に眩暈を覚えているのは、きっと、彼も同じだろう。 キスしてみようか カラン、 透明なグラスに注いだ紅茶にミルクを継ぎ足し、マドラーで掻き混ぜる。 氷がかちゃかちゃと鳴る音はとても涼しげだけれど、グラスの表面は既に汗をかいていて、室温の高さを示していた。 「あっつー・・・」 だらしなく白いソファの右端に崩れた狐モドキは、もう他人の家だという遠慮が無い。 それを横目で眺めつつ、ミルクティーを一口飲んだ。 「暑いって言うから暑いんだよ」 「でも、暑いものは暑いです」 「寒いって言ってみたら少しは涼しくなるんじゃない?」 「経験則でいうと、余計に暑くなるだけですよそれ」 グラスをソファテーブルへ置き、そのまま底の深い木の器に盛ったクッキーを手にする。 口へ頬張ると、ダージリンのあっさりとした甘さが口に広がった。 終業式を終えて帰宅したら、案の定用意してあった昼食とおやつは、二人分。 狐モドキがやって来るであろう事まで予測していた彼は、果てしなく律儀だ。 同じく関心していた狐モドキと一緒に昼食のロコモコを綺麗に平らげ、今、ソファの端と端でくつろいでいる訳だが。 窓を開け放しているにしろ、とにかく暑い。 けれど、冷房はあまり好きじゃないから、つけたくなくて二人でぼんやりとしていた。 「まりあさん」 「なぁに?」 「通知表、どうでしたか?」 「どうって?」 「良いとか悪いとか」 「・・・技能教科は、悪かった」 「あー・・・なるほど」 家庭科も体育も苦手ですもんね、と言ってくすくす笑う狐モドキを軽く睨み、再びクッキーを手にとる。 そして、その口に突っ込んでやった。 「もが、」 慌てた様子で姿勢を正し、それを咀嚼しミルクティーで喉へ流し込む姿を見て、溜飲を降ろす。 確かに美術も苦手だけれど、それを真正面から言われて良い気はしなかった。 「ひどいですよーまりあさん」 「そういういっくんはどうだったの?」 「通知表ですか?まぁ、そこそこ良いですよ」 「・・・器用貧乏っぽいもんね」 「うわーひどいっ」 全然傷付いていないくせに、そう言って狐モドキはいじけて見せる。 ほんの少し風が入って、カーテンを揺らした。 麗らかな午後の昼下がり。その平和な光景に、力が抜けそうになる。 狐モドキがそっとグラスをソファテーブルに置き、かたり、と小さな音がした。 視線はそのまま、窓の向こう、青い空のまま。 そして静かに、その唇が問いかけてきた。 「茨さんと、まだ会えてないんですか?」 「・・・うん」 カラリ、と氷が崩れた。 「このまま、本当に居なくなってしまうかもしれませんよ?」 「・・・しょうがないよ。イバラの選んだ事だもの」 「・・・あぁもう、この間と同じ話になったじゃないですか。不毛です」 ばっさりとこちらの言葉を切り捨てて、狐モドキはこちらを向く。 ソファの上で、胡坐をかいたままだけれど。 「ともかく、一度会って話をして下さい」 「どうして」 「まりあさん、茨さんの事が好きなんでしょう?」 そう言って首を傾げられたから、思わず目をしばたいた。 何を、言っているんだろう。 「・・・好き?誰が、誰を」 呆然としたまま呟いたら、ほら見ろ、と言わんばかりの表情で狐モドキは大きく溜め息をついた。 「まりあさんが、茨さんを、です」 「・・・わたし、そんな事言った?」 「言ってないです。俺がこうやって言わなかったら、自覚もしなかったでしょ?」 思わず、眉を顰めてしまう。 「わたし、好き、なの?」 「客観的に見れば、とても」 「・・・好きって気持ち、知らないのに?」 知らない?本当にですか?そう呟いて、狐モドキが距離を詰めてきた。 頬を滑る指先。その慣れない皮膚の感触に、思わず身じろぎをする。 そう、彼の指は、もっと温度が低い。 「寂しいから、傍に居て欲しいんでしたっけ?」 「う、ん」 「それなのに、傍に居て欲しいと言わないのは、どうしてですか?」 「・・・イバラを、わたしの我が儘で縛りたくない、から」 「どうしてそう思うんですか?」 蝉時雨が、遠のいた。 「・・・イバラには、笑ってて欲しい、から?」 「どうして笑っていて欲しいと思うんですか?」 「・・・笑っているのは、幸せな時だから」 ママにも笑っていて欲しかった。 そう、少し違うけど、それと同じ。 そういえば、伯母様はあの時、それは大切に想うという事だ、と。言っていたけれど。 「わたし・・・イバラのこと、大切なの?」 「それは、まりあさんしか分かりません。ただ言えるのは、大切に想うって、好きっていうのと同義だと思いますよ?」 頬をなぞっていた指がそっと、耳を掠めて髪へ差し込まれた。 全ての音が、遠ざかる。 目の前には、整った、けれど幼さの残る少年の顔。 いつもは茶化すように誤魔化すように笑んでいる瞳が。 真摯にこちらを捉えた。 「まりあさん。俺と、キスしてみますか?」 唐突な問いに、眩暈を覚える。 何を言っているんだ、と茶化す事だって、嫌だ、と突き放す事だって、選べた。 けれど、もしかしたら、彼に与えられるのとは違う口付けで、何か分かるかもしれない。 あの日から渦巻くこの気持ちに、名前を、付けられるかもしれない。 そう、思った。 「・・・置いてきた大事な女の子は?」 その子を差し置いて、わたしなんかとしても良いのか、と問うた。 すると狐モドキは、肩をすくめて苦笑する。 「それはそれ、これはこれです」 よく分からない理論に、念を押すようにもう一度聞いた。 「・・・その子、ヤキモチを妬かない?」 「バレなきゃ大丈夫です」 視線を一度、横へ外す。 けれど、すぐに目の前の顔へ戻した。 「・・・じゃあ、一度だけ」 背凭れから起き上がり、顔を近づける。 間近で見た狐モドキの瞳は、黒目が大きい。 ぶつかる鼻の先。 混ざる呼吸。 震える睫毛。 「他の人のキスを、知りたいの」 瞳を閉じて、そっと唇を合わせる。 本当に、一瞬だった。 ゆっくり離れて瞬きをした拍子に、水が一粒、頬を滑る。 それを親指で拭ってから、狐モドキはソファの右端へ戻った。 先程までわたしの頬を滑っていた指先が、グラスを掴んで自身の口元へ運ぶ。 そのままミルクティーを飲み干す様子を、ただ見詰めていた。 耳へ戻る、蝉時雨。 瞬きをしたら、また、水が零れた。 「・・・俺がいじめたみたいな感じになっていて、とても気まずいのですが」 少し不貞腐れたように言い、狐モドキはクッキーを頬張る。 それで慌てて首を横に振ったけれど、涙は止まらなかった。 そう、涙だ。 目から溢れるそれに、自分で驚いてしまった。 けれど、この前の夕方のように堰を切ったような流れ方ではなくて、思い出したようにぽろぽろと落ちるだけだから、とりあえず放っておく。 「違うの、ごめん、いっくん」 瞼を閉じた瞬間に、また、一粒。 「勝手に、流れてくるだけで、」 右手で、左の胸近くのワイシャツを握った。 「・・・ねぇ、これが、好きってこと?」 イバラじゃなきゃ、嫌だ。 イバラのキスが、欲しい。 愚かな独占欲と、彼に笑っていて欲しいと願う気持ちが渦巻く。 そっと頭を撫でられて、瞼を押し上げた。 再び近くへ来ていた狐モドキが、顔を覗き込んでいる。 その表情の穏やかさに驚いて瞬きをしたら、また一粒、零れた。 「それが好きって気持ちだと思うなら、好きってことですよ」 定義なんてありませんから。 そう言ってゆっくりと頭を撫でる掌に、申し訳ないけれど物足りなさを感じた。 イバラが、いい。 ぼやける輪郭。 優しい色、深い紫。 「・・・イバラに、会いたいよ」 そう呟いたら、くすりと笑われた。 「よく言えました」 そう言った、狐モドキは。 眩しいくらいに、微笑んでいた。 泣き止んだ後、何故か勉強する事になった。 曰く、夏休みの宿題を教えて欲しいけれど殆ど地元に帰っているから今しかない、との事。 散々泣いて散々こちらの事情に付き合わせてしまったのだから、それくらい何時でも幾らでも見てあげるのに、と告げたら、狐モドキは本当に嬉しそうに笑っていた。 「ありがとう、まりあさん」 憎らしいくらい無垢な表情に、これは作戦なのかもしれない、と思考が掠めたけれど、まぁそれでも良いか、と思う事にした。 そして、空が茜色に染まる頃、狐モドキは帰って行った。 「ねぇ、いっくん」 「何ですか?」 靴を履いて今まさに出て行こうとした背中を引き止める。 嫌な顔をせずに振り向いた狐モドキは、首を傾げて言葉を待った。 「あ、のね・・・」 「はい?」 「ありがとう」 この一言で伝えきれるものではないけれど、伝えなければ伝わらないから、そう告げる。 すると、狐モドキは驚いたように瞬きをしてから、笑んだ。 「俺は何もしてないですよ?ちょっと詰めただけ」 「それでも。ありがとう、いっくん」 そう言って、ほんの少しだけ口元を緩める。 すると、狐モドキはもう一度、驚いたように瞬きを繰り返した。 「あ、まりあさん笑った」 「・・・そう、なの?」 これが、笑顔? 「はい、可愛いです」 「・・・すぐそうやって茶化さないの。それから、」 小さく咳払いをしてから、人差し指で、狐モドキの唇を抑えてやった。 「もう、大事な女の子以外の女の子と、キスとかしちゃ駄目だよ?」 「え、・・・あぁ、はい。そうします、けど・・・どうしてですか?」 「絶対に知られなくたって、ヤキモチ妬かせるような事、しちゃ駄目」 イバラが誰かとそうしてたら嫌だもん、と小さく付け足したら、大笑いされた。 「はは、すみません笑って、だってまりあさん可愛いんだもん」 「だから、そうやって茶化さないの」 「はい、肝に銘じます」 そして漸く笑いを納めた狐モドキは、もう一度、微笑んだ。 「それじゃあ、また夏休み明けに」 「うん。気を付けて帰ってね」 「はい」 小さく手を振り、そして今度こそ、その背中は玄関ドアを出て行った。 ソファテーブルへ戻り、グラスとクッキーを台所へ片付けた。 そしてふと床を見ると、見覚えの無い本が一冊落ちていたから、拾い上げる。 背表紙を見ると、それは本ではなくて日記だった。 「いっくんの忘れ物?」 自室へ戻り、携帯電話を手に取る。 扱い慣れたメール機能を呼び出して、必要最低限の文章を狐モドキへ送った。 to:pink_elephant @××.ne.jp from:oqo5558××××@×××××.ne.jp 日記、忘れてない? 返事はすぐに来た。 to:oqo5558××××@×××××.ne.jp from:pink_elephant @××.ne.jp 忘れました。すみません、夏休み明けに学校へ持ってきて貰えますか? あ、恥ずかしいので中身は見ないで下さいね。笑 了解、と呟いて携帯電話を閉じる。 それを胸に抱いたまま、窓の外を見遣った。 夕暮れ時、橙に染まる空。 結局、彼は姿を見せないまま、また一日が終わる。 「・・・夕飯、どうしようかな」 食べなくても、良いかな。 そう思ったけれど、怒られそうだからきちんと食べることにした。 怒られても良いから、声が聞ければ良いのに。 そんな風に思った自分を、鼻で嗤って。 ねぇ。 好きだと気付いてしまった瞬間から、彼の事しか考えられなくなったわたしを、君は軽蔑するのかな? |