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このメッセージ、聞いてますよね? 明日の夕方、図書館の近くの公園でお待ちしているので来て下さい。 留守番電話の録音は、名乗りもせず、ただそれだけを告げて終わった。 少し怒ったような声音。 嫌という程、思い当たる節はある。 その優しさを羨む 蝉時雨に、耳を塞ぎたくなる。 やってきた夏はとても鮮やかで、それが皮肉に思えた。 それは勿論、自分のせいだけれど。 ベンチに座り、茂る木の葉を見上げた。 その向こう側には、夕暮れを控えた青の空。 夕飯の支度はした、お風呂も洗って溜めなおした。 他に何かするべきことはあっただろうか? ぼんやりと、思考の中ですべき事を挙げては消していく。 大丈夫。 この答えを弾き出した瞬間、待ち人は現れて声を掛けてきた。 「茨さん」 少年特有の、少し高さの残る声。 瞼をゆっくり閉じて、答えた。 「こんにちは、いっくん」 姿を確認したら、もう逃げられない気がして。 ほんの少しだけ逃避をしてから、瞼を押し上げる。 逃げる?何から? 空を仰いでいた視線を、地上へ戻した。 じゃり、と小石が鳴る。 「久しぶり、でもないかな?」 目の前に立っていたのは、相変わらずの笑顔を浮かべた少年だ。 白いワイシャツの釦を上から二つ外し、涼しげな顔で其処に立っていた。 「こんにちは」 そう告げた少年は、左側へ腰掛ける。 どさ、という無造作な所作に、少し驚いてそちらを見遣った。 少年は、先ほどの自分と同じように空を仰いでいる。 さわり、と、抜ける風。 揺れる黒髪が茶色に透けて、綺麗だな、とぼんやり思った。 「・・・茨さん」 不意に呼びかけられて、首を傾げる。 仕草は気配で伝わっているだろうから、そのまま次の言葉を待った。 何かを探すように、少年は瞬きをする。 そしてその唇は、深く深く息を吐いた。 「あーもう。何話そうか、考えてたんですけど全部飛びました」 ほんの少し、荒っぽい口調。 きっと、本来彼はその調子で話すのだろうと察しがついた。今まで丁寧だったのは勿論、自分も彼女も年上だから。 「いっくん、猫被らなくても良いよ?」 「猫被ってる訳じゃないですよ。年上の人には敬語を使うくらいの常識は、持ち合わせてるだけです・・・まぁ、その年上二人が揃いも揃って鈍いので呆れ果ててますが」 遠慮容赦ない物言いに、くすくすと笑ってしまった。 笑い事じゃないですって、とぼやく声を無視して、笑い続ける。 あぁ、ほら、こうやってすぐに逃げようとする。 だから駄目なんだよね、きっと。 止まない蝉時雨は、隣から話し掛けてくれる存在が居るだけで耳につかなくなった。 それに安堵して、少年の次の言葉を待つ。 自分から何かを伝えようとは、何故だろう、思えなかった。 それを承知なのか、少年は再び言葉を探るように視線を泳がせる。 そして、結局。 少年は、こちらを見ずに、想定内の言葉を投げてきた。 「どうして、居なくなろうとしてるんですか」 「これ以上、彼女から奪わない為」 「何を奪うっていうんです?まりあさんといい、」 そこで言葉を切って、溜め息。 「二人とも、もう少し自分の気持ちを大事にしても良いんじゃないですか?」 「・・・マリは、何か言ってた?」 「内緒ですよそんなの。自分で聞いて下さい」 どんどん、少年の口調がぞんざいになっていく。 それが面白くてくすりと笑んだら、今度こそ軽く睨まれた。 「・・・本当、自分のお節介具合に呆れます」 「若いのに苦労するねぇ」 「誰のせいですか」 「僕?」 「茨さんとまりあさんです」 くすくすと、笑いが止まらなくなる。 こちらを睨んでいた少年はとうとう呆れたらしく、再び空を仰いで溜め息をついた。 いい加減申し訳なくなって、どうにか笑いを止める。 そして、少年に伝えるべき言葉を考えた。 ・・・彼女をこんな風に心配してくれる友人が現れたことに、感謝さえしながら。 「マリは、変わったよ」 「・・・それは、確かにそう思います。知り合った頃より、なんていうか、きちんと自分を取り巻くものと関わるようになったというか」 「うん、そう。世界が広がったの。それはね、君のお陰だよ?いっくん」 「買い被りです」 「ううん。これは本当だよ」 緩く首を振った。 そのまま、視線が捕らえた古いブランコを見詰める。 誰も乗っていないそれは寂しげで、置いてきぼりにされたようだ。自分のように。 「マリと一緒に過ごすようになって、四年くらい経ったかな・・・その間、彼女はずっと閉じ篭っていたもの」 「閉じ篭る?」 「うん。必要以上のものは、見ない、知らない、関わらない。僕はそれを良い事に、腕の中に閉じ込めて外を見せようとしなかった」 話すつもりの無かった事が、いとも簡単に口から紡がれた。 それで漸く、自分が誰かに聞いて欲しがっていた事に気付く。 なんて可哀相な少年。 他人のドロドロした部分を背負わされるなんて、その歳で経験しなくたって良い事なのに。 けれど口は、止まらない。 「僕のものにはできないけど、誰にも渡したくなかったから。目を塞いで、耳を塞いで、大切に包み込んで、あの部屋に閉じ込めていたんだよ」 「・・・それは、好きな人を大切にしている、と言えるんですか?」 「まさか」 きっと、こんなにも昏い感情を、捩れた愛情を、知らないのだろう。 軽蔑されるかもしれない。侮蔑の目で見られるかもしれない。 けれど、これは確かに、この身に抱える想いだ。 「こんな感情、間違ってる」 「じゃあ、」 「閉じ込めて大切にする事が、慈しむっていう事じゃないのは知っているんだ。ねぇ、僕は、マリを解放した方が良いのかな?」 疑問符に、少年は口を噤んだ。 文化祭の帰り道。 弟に話した事も、確かに自身の想いだ。理性という名の。 奪い続ける自分が、これ以上彼女に求めるべきではない。 離れるべきだ。解放するべきだ。 こんな、誰かの命を踏み躙って生き続ける自分なんかの傍は離れて、広く綺麗な世界で生きるべきだ。 そのきっかけが、漸く訪れたのだから。 確かに、そう思っている。 そんなの、十分知っている。 それでも、この手は、心は、彼女を求めてしまう。 抱き締めて二人だけの部屋に閉じ込めてしまいたい。 変わらない世界で、息絶えるまで微睡んでいたい。 なんて、昏く澱んだ独占欲。 こんなものを、恋だの愛だのと呼ぶ方が可笑しい。 それでも、確かに思うのだ。 彼女には幸せで在って欲しい、と。 そしてそれは、自分が隣に居る限り叶わないのだろう、と。 「ごめんね、困らせて」 何も無かった風を装って、努めて明るく告げた。 返事は無い。 だから、綺麗に終わらせる為に、最後まで言い切った。 「そんな訳で、自制の利く内に、彼女の傍を離れようと思った訳でした」 笑顔を口の端に刻む。 空を仰ぐ少年にはきっと見えないだろうけれど、自分自身は騙せるから。 「マリは、この広い世界で生きていくべきだ」 同じ速度で歩める、誰かと一緒に。 辛い、辛いと心が泣いた。 けれどそれは、押し殺す。 奪いたい。それ以上に、幸せになって欲しい。 矛盾した気持ちを抱えた以上、どちらを選んでもそれは正解な筈だから。 ゆっくりと、少年の体が背凭れから起き上がった。 腿へ肘をつき、掌で頭を抱え、深く息を吐く。 そして漸く持ち上がった顔は。 こちらを見詰め、笑んでいた。 それはそれは、見事なまでの、挑発で。 「そうやって逃げるんですか?」 「逃げじゃない。マリの為を」 「まりあさんが、そう言ったんですか?」 「・・・言ってない」 さわり。再び、黒髪が揺れた。 宵の明星が輝く時刻の空は、藍色に染まろうとして橙を塗り潰していく。 その下で。 少年は、綺麗に微笑む。 「だったらそれは、茨さんの自己満足です」 「・・・違う」 「何が違うんですか」 「違うんだよ、いっくん。事情は話せない、だけど僕は確かに彼女の隣に居る限り、彼女から奪うことしかできな」 「話せない事情なんて、俺には関係ありません」 言葉を遮られた事以上に、被せて告げられた彼の言葉に驚いた。 「奪う?何を?上等です。奪われる側がそれでも傍に居てくれって言うんなら、それで良いじゃないですか。何の問題があるんです。 まりあさんの言葉も聞かずに、勝手に彼女の幸せを決めないで下さい。それは茨さんのエゴだ。傲慢だ。彼女の幸せは彼女が決めるんだから、うじうじ悩む前に聞けば良いでしょう?その答えが、茨さんを必要としないんだったら、潔く居なくなれば良い」 あまりにも強い言葉で言うから、口を挟めずにいた。 思考が働かない。 そんな無茶な理論を振り翳すな、と思うけれど、有効は反論が思いつかない。 それをきちんと分かっているのか、少年は言葉を続けた。 「第一、居なくなるなら彼女の中からきっちり姿を消すべきです。中途半端に放ったら、ずるずる後を引くのくらい目に見えているでしょう?彼女の中の貴方を完膚なまでに叩き潰して消し去って、それから姿も消しなさい。じゃなきゃ、まりあさんが可哀想すぎる」 「そんなこと・・・できるくらいなら、やってるよ」 「できないなら、放り出さないで下さい。最後まで向き合うべきだ」 ぴしゃりと言う少年の言葉に、確かにそうだ、としか思えなかった。 数えるのも億劫なほど年下の人間に、今更こんな風に説教されるなんて、どういう事だろう。 自分が情けなくなった。 けれど勿論、逃げられやしない。 隣に座る少年は、大きく息を吸った。 そして、長く長く息を吐く。 ごめんね。 そう思ったけれど、謝ったからそれで全て終わりにしてくれと言いそうな自分がいて、口を噤む。 少年は、瞬きを一度した。 そして再び、黒い瞳がこちらを向く。 その、ほんの一瞬で、だ。 整った少年の顔を彩る笑みが、仮面を脱ぎ捨てたように質を変えた。 慈しむような、小さな子を叱った後の親のような、仕方ないなぁ、という苦笑。 その歳でどうして、と思ったけれど、彼には彼の物語があったのだろう、と脳が結論づける。 「・・・まりあさんに最初に愛情をあげたのは、貴方でしょう?茨さん」 「・・・え?」 優しい声音で紡がれた問い。 意味が理解できず、聞き返した。 「まりあさんが親の愛情に飢えていた事は、あの自意識の低さと不器用さを見ていればなんとなく分かります。まぁ、彼女自身、飢えていた事に気付いていなかったでしょうけど」 「・・・そう、だね」 「それを埋めたのは、貴方でしょう?」 もう一度優しく問われ、反射で首を振る。 けれど少年は、それを否定した。 「まりあさんが俺の言葉に応えてくれたのは、少しずつクラスメイトの輪に入ろうとし始めたのは、根本が満たされたからだと思いますよ」 茨さんの愛情は、決して無償のものでは無いでしょうけど。 そう付け足して、少年はくすりと笑んだ。 「そうやって注ぎ続けた愛情を突然止めてしまうのは、あまりにも酷いと思います。責任をとるべきです」 「・・・なんかだかいっくん、マリのお父さんみたいだよ」 「年上の娘はいらないです」 きっぱりと言い切り、少年は唐突に立ち上がった。 そして、目の前に立ち、深く頭を下げる。 「っ、いっくん?」 「以上、俺の勝手な意見でした。事情を知らないガキだからこそ、相手の事を考えて自分の心を殺す二人を見ていられないんです」 「・・・いっくん」 「多分、もっと俺が大人だったら黙って見ていたんだと思います。でも、まだガキだから。口出しさせて下さい」 「・・・いっくん、顔を上げて?」 そっと告げたら、少年はゆっくりと曲げた腰を真っ直ぐに伸ばした。 相変わらずの笑み。 けれど瞳の奥に、少しの不安が揺れていた。 「言って後悔するなら、言わなきゃ良いのに」 緩く笑んで伝えたら、少年は悪戯がばれた時のように情けない顔をする。 「なんでこっちの考えてること読むんですか。鈍いくせに」 「あ、ひどい。傷付いたなー」 「・・・ごめんなさい」 「なんでそこで謝るの?謝るのは、僕の方だよ」 しゅん、と項垂れたその姿に、首を傾げて告げた。 「ごめんね。でも、ありがとう」 本当に、嬉しく思う。 彼女のことを、そして自分のことまで、真剣に考えてくれる友人ができた事を。 「ありがとう、いっくん。君の意見は確かに乱暴で、他の人が聞いたら自分勝手だって言うかもしれないけど、」 笑みを深くした。 「僕はとても、嬉しかった」 多くを知ったからこそ、臆病になって、相手の気持ちを、立場を考えて、自分の想いを伝えられなかった事なんて幾らでもあった。 だからこそ、こうして自身の意見をぶつける事の出来る優しさを羨ましく思う。 短い生、だからこそ。 真っ直ぐに貫き通せる事だってある。 自分は少し長く生き過ぎたから、もう、そんな風にはなれないけれど。 だからこそ、この少年に出会えた事に感謝しよう。 立ち上がると、自分の方が目線が高い。 それを良い事に、さらさらの髪へ手を載せると、思う存分がしがしと撫でて髪を掻き乱した。 「わっ」 予想外だったのだろう、驚いた声を上げた少年は、けれど安心した笑みを浮かべた。 「良い子、良い子。いっくん、これからもマリと仲良くしてあげてね?」 「わぁ、もう子ども扱いしないで下さいよ茨さん!それに、言われなくたってまりあさんとは仲良しですって!」 「ふふ、照れなくても良いんだよー?」 「わ、ぁぁ」 十八時を告げる鐘が、スピーカーを通して街中へ響き渡る。 空はまだ、茜色。 その下で、お節介で優しい少年の頭を撫で続けた。 何度も、何度も、今日この時間を刻み付けるように。 駅まで送っていくと告げたら、いつものように丁寧に辞退された。 「そんな気は遣わなくて良いですから、早くまりあさんと仲直りして下さいね?俺、二人が居るあの家が居心地良くて好きなんですよ」 そう告げて去っていった少年の背中が、見えなくなるまで見送り続ける。 耳に再び、蝉時雨が蘇るのを感じながら。 白いワイシャツの残像が消えたところで振っていた手を降ろし、そっと笑いかけた。 「本当にありがとう。いっくん」 確信を持つ事ができた。 自分が居なくなっても、君が居れば彼女はきっと大丈夫だ、と。 例え隣を歩く事は出来なくとも。 君は、彼女の友達で在り続けてくれるよね? 今度こそ、本当に居なくなる準備をしようと決めたその日。 本当に、皮肉なまでに、鮮やかな夕焼けが世界を包んでいた。 「戸籍ってどうなってたっけなぁ・・・」 相槌も返事も、勿論、無い。 |