|
初夏の風が、頬を掠めていく。 揺れるカーテン、眠い午後。 黙々と時間は進むのに、思考は今もまだ、あの夜から動けずにいる。 名前をください お弁当は毎日、朝ごはんと共にダイニングテーブルの上に置いてある。 洗濯もしてある、掃除も自室以外は完璧。 それなのに、いつだって気配だけが無い。 律儀なことだ、と思った。 もうわたしが要らなくなったのなら、そんな事をせずとも、居なくなれば良いのに。 「・・・どうすれば、良い子でいられたのかな」 ぽつりと呟いたら、棚からCDを取り出そうとしていた狐モドキが、探るような視線でこちらを振り向いた。 「まりあさん、どうしたんですか?」 どうしたもこうしたもない。 「もうわたし、要らないみたいだよ」 「・・・は?」 「イバラ。わたしの事、もう要らないって」 「・・・は?」 端的に告げると、狐モドキの顔が、本格的に「意味も訳も分からない」という顔になった。 今日も一本。 してやったり、と思ったけれど、当然ながらそういう表情は作れなかった。 だから、軽く息を吐き、首を傾げてみせる。 狐モドキは手にしたCDを何故か元の位置へ戻し、床に広げた折りたたみテーブルへ戻ってきた。 わたしは確か、それを借りる為にわざわざこの家を訪ねてきた筈なのに、どういうことだろう。 テーブルの上には、先ほどご挨拶をした狐モドキ・母の手作りマフィンと冷やした紅茶が置いてあった。 気を遣わせてしまい申し訳なく思ったけれど、先ほどから有難く頂戴している。 本棚には、星座の本や漫画、CD、何かの模型、と雑多なものが詰め込まれていた。 思わずベッドの下も覗き込んだら、そこには収納用のカラーボックスがあるだけで、面白い発見は無い。残念。 彼以外の男の人の部屋に入るのは初めてだったけれど、なかなか興味深いものだった。 「まりあさん」 テーブルへ戻ってきた狐モドキが、覗き込むようにこちらを見る。 それに思わず体を引きそうになったけれど、耐えて、なぁにと返した。 「いきなりどうしたんですか。なんでそうなるんですか」 「だって、イバラがそうやって」 「言ったんですか?」 詰めるような勢いで聞かれ、思わず首を横に振る。 そうしたら、更にその整った顔がこちらへ近付いた。 「じゃあ、どうしてそう思うんですか」 説明に、困ってしまった。 彼は吸血鬼で、もう居ないママの代わりに血をあげているのだけれど、わたし以外に糧を見つけたようだから、わたしは要らないらしい。 簡単にするとそういう理由だけれど、そのまま言ったら正気を疑われるだけだ。 どう伝えようか、考えあぐねる。 そうして思いついたのは結局、どうしようもない喩え話だった。 「・・・蜜蜂と百合がいました」 「まりあさん、話を逸らさないでくださ」 「百合は蜜蜂のことが好きで、蜜蜂に自分の蜜をあげます。蜜蜂は蜜を貰うお礼に、百合にたくさんの景色の話をしたり、花粉を運んだり、雨の降らない日にはお水を運んだりしました」 無理矢理話を進めると、狐モドキも、それが何かの比喩だということに気付いたらしい。 何か言いたげだったけれど、それを飲み込んでじっとこちらを見詰めてきた。 「けれど、百合はそれがいつまでも続かないと知っていました。いつか蜜蜂は、他のお花を見付けて旅立つ日が来るから」 どうしてこんな比喩になったのか、自分でもよく分からない。 それなのにも関わらず、口からは言葉が滑りでた。 「そして、その日がやって来ました。蜜蜂は別の糧を見つけ、百合の与える蜜を必要としなくなり、旅立ったのでした」 めでたし、めでたし。 そう言おうとして、やめた。 こちらを見詰めてくる顔が、あまりにも真剣で、少し怒っているようだったから。 沈黙が落ちそうになる。 だから、そうなる一歩手前で再び口を開いた。 「詳しい事情は話せないの。ごめんね」 からり、と、グラスの中の氷が崩れる。 遠くで聞こえる蝉の声。 それが鮮明に聞こえる程には、とても静かな空間だった。 狐モドキは、自分のグラスを手に取り、琥珀色の液体を喉へ流し込む。 こくり、と動く喉が面白くて見ていたら、グラスを空にしてこちらを見た黒い瞳としっかり視線が合ってしまった。 逃げられない、その光の強さは何処からやって来るのだろう。 いつもの笑みは、口元を飾っていなかった。 「百合は、蜜が欲しいだけで蜜蜂が傍に居てくれたんだと、そう思っているんですか?」 「・・・うん」 「他に花は咲いているのに?」 「・・・その蜜蜂に蜜を食べられた花は、すぐに死んでしまうから。でも、百合だけは幾度蜜を食べても大丈夫だった。それだけ」 「死なない花が、他に見つかったんですか?」 首を横に振る。 そんな人間が居たら、きっと彼はもっと早くにわたしを要らなくなっただろうから。 「じゃあ、どうして蜜蜂は百合が必要なくなるんですか」 「それは・・・知らない」 「・・・分かりました。質問を変えます」 狐モドキは、小さく息を吐いて右手で髪をかきあげた。 窓から侵入する初夏の光が、それを茶色く透かす。 綺麗。 思って、ほんの少しだけ口元が緩んだ。 「百合は、蜜蜂が行ってしまって、それで良いんですか?」 「・・・だって、そうしたいんでしょ?引き止める権利は、無いよ」 「権利の話はしていません。百合が、どう思っているのかを教えて下さい」 ひたと見詰めてくるのに、息苦しくなかった。 他人でそう思えるのは、あと一人、あの紫色だけ。 何日会っていないのだろうか。 輪郭はぼやけてしまいそうだけれど、あの瞳の色だけは鮮明に思い出せた。 優しい色。柔らかい色。 彼が何処かへ行ってしまった後、どうしようかは幾度と無く考えた。 結局、答えは出ていないけれど。 じゃあ、何処かへ行こうとする彼に対して、自分は何を思うのだろう。 ゆっくりと、想像してみる。 狐モドキは、じっと動かずに待っていた。 ごめんね、とそれに小さく謝って、瞳を閉じる。 一人ぼっちの家の中。 きっと、冷蔵庫は隙間だらけになるだろう。 使われないダイニングテーブル。 枯れた紫の花。 座る人間の居ない、白いソファ。 空っぽになった彼の部屋に、何を置くだろうか。 必要最低限のものしか思い浮かばないから、空のままでいるのかもしれない。 作っても、一人で食べるお菓子。 掃除も洗濯も、全て自分の分だけ。 マリ 呼ぶ、声がしない部屋。 マリ 招き寄せる指の無い部屋。 抱き締められた温かさも、 口付けられたくすぐったさも、 全てを失った、日当たりの良い部屋。 「あ、れ・・・?」 そういえば、最近あまり抱き締められることも、口付けられることも無かった。 気付いた瞬間、迷子になった時の途方も無さを覚える。 「まりあさん」 呼ばれて、瞳を開けたら視界が滲んでいた。 それがどういう現象かを理解する前に、塩辛い水が頬を濡らす。 瞬きをすれば、もっと水は零れた。 「いっくん、わたし、」 「はい」 「なんで、・・・泣いてるの?」 言葉にして、ようやく認識する。 あぁ、泣いている。 最後に泣いたのは、ずっと昔のことだ。 わたしが泣いたらママも泣くから、もう泣かないと決めた日。 それからずっと、忘れていたというのに。 目から零れるそれは、驚くほど溢れてきた。 鼻の奥がつんとして、濡れた頬が痛くなる。 それでも、止め方が分からなかった。 狐モドキは、先ほどの怒ったような顔から一転して、また笑みを浮かべていた。 いつもより優しい気がするその顔でティッシュ差し出してきたから、受けとり頬を拭う。 「俺に聞いても分からないですよ」 答えを知っている顔で、そんな事を言った。 「どうしてですか?教えて下さい、まりあさん」 そして、逃げる事を許さない問いが再び降ってくる。 けれどそれは、責めるようでも、問い詰めるようでもなかった。 「寂しい、から・・・?」 「茨さんが居ないと、ですか?」 主語が、蜜蜂から彼の名前へ変わる。 「・・・そ、う。イバラが、居ないのは、寂しい」 「茨さんじゃないと駄目なんですか?誰でも良いから、誰かが居れば良いじゃないですか」 反射で首を横に振った。 彼以外に、傍に居る誰かを想像することができなかった。 そんな自分に驚いたけれど、口は勝手に動く。 「嫌。イバラ以外の誰かじゃ、駄目」 「どうしてですか?」 思わず、しゃくり上げた。 だって。 もう、彼は、わたしの一部だ。 抱き寄せられて、口付けられて、血を喰らわれて、そうして必要とされていないと、自分が保てない。 そういう求め方がいけないのは、知っている。 それでも、求めずにはいられない。 あの指じゃないと嫌だ。 あの掌じゃないと嫌だ。 あの唇じゃないと嫌だ。 あの紫色じゃないと、嫌だ。 突然引きずり出された激情に、こんなものがあったのかとさえ思う。 感情についていかない思考、目まぐるしく綺麗な気持ちと汚い気持ちが入れ替わる。 片方の自分が、どうしてイバラじゃなきゃ駄目なんだ、と問い掛ける。 もう一方の自分が、理由なんて無いそうじゃなきゃ嫌なんだ、と答える。 なんだ、これは。 この感情に、なんて名前を付ければ良い。 「どうしてかなんて、分からない、よ」 辛うじて言って、もう一度しゃくり上げた。 それを見て、狐モドキはこちらへ手を伸ばしてくる。 そっと、頭を撫でられた。 彼じゃないと満たされない、と、心が囁いた。 「すみません、虐め過ぎました」 苦笑して、何度も撫でてくる。 涙を止めようとして、逆に溢れて、しゃくり上げて。 それが収まるのを、狐モドキは何も言わずに待っていた。 待たせても構わない。 こうなったのは、狐モドキのせいなのだから。 そう思って、落ち着くまで泣き続けた。 からり、とまた、氷の崩れる音。 蝉の声、赤く染まり始めた斜陽。 二つ年下の男の子に、宥められる、わたし。 涙が止まり、ようやく呼吸が落ち着いた頃には、既に日は落ち部屋は暗くなっていた。 みっともない顔をしているだろうから、その暗さに安堵する。 けれど同時に、狐モドキにみっともない姿を見せてしまった事に悔しくなった。 「・・・落ち着きましたか?」 秀逸なタイミングで声を掛けてくるから、恨めしく睨んでやる。 けれど、それが見えないか、気付かない事にしたらしく、狐モドキは言葉を続けた。 「まりあさん」 「・・・なぁに」 「茨さんに、傍に居て欲しい、って言った事、ありますか?」 「・・・無い」 如何せん、ついさっき気付いたくらいだ。 彼に伝えた事なんて、ある訳が無い。 それに。 「言う気も、無い」 驚いた気配がした。 そして、口を開く気配。 だから言葉を奪われる前に、言い切る。 「これはわたしの、我が儘だから」 今度は、言葉を呑んだ気配。 夕闇に包まれた部屋は、決して視界が良くなかった。 けれどその方が、世界が鮮明に感じ取れるらしい。 狐モドキが、どんな表情をしているかが、容易に想像がつく。 きっと。 「わたしの我が儘で、イバラの自由を奪いたくない」 きっと、笑んではいない。 驚いた後、眉を歪めただろう。 こんなにも醜悪な、身勝手な姿を見たのだから。 泣いて枯れた喉に、氷が融けきって濃度が低くなった紅茶を流し込んだ。 かたり。グラスをテーブルへ置いた音が、妙に響く。 お互いが、言葉を発するタイミングを失ってしまったようだ。 けれど何かを言わなければ、今この瞬間は、終わらない。 どうしようか、考えた。 けれど、気の利いた言葉なんて、思いつかなかった。 続く沈黙。 結局それを破ったのは、狐モドキの微かな声だ。 「それでも、まりあさんにだって、伝える権利はありますよ」 自意識が低いんだか優しいんだか、本当に分からない人だなぁ。 そう呟いて、苦笑する気配。 「それに、茨さんは鈍い人なので、言わなきゃきっと伝わりません」 何歳下の人間に、鈍いと言われているのやら。 そんな彼を思ったら、少し笑えた。 「そう、だね」 ほんの少し、自分の口元が綻んだ気配。 けれど、夕闇に沈んだ部屋で、それを見たのは誰も居なかった。 彼が居なくなったら、また、泣いても良いかな。 口から吐き出しそうになった言葉は、そっと飲み込む。 これ以上、狐モドキに迷惑を掛けたくはなかった。 それに。 肯定されてしまったら、もう、後戻りができないくらい甘えてしまいそうだったから。 一体いつから、わたしはこんなに弱くなったのかな。 少し前の自分だったら浮かびもしなかった事ばかり考えていて、驚いた。 悔しいけれど、変わったのはきっと、君のお陰だよ。 飄々としてるくせに、なんてお節介なんだろう。 それで損をしても、きっと気にしないで笑っているんだろうね。 ソウイチ。 結局その日は、夕飯までご馳走になってから帰った。 一人で大丈夫だと言ったのに、駅まで送って貰って。 そして辿り着いた部屋には、相変わらず彼の気配だけが無い。 テーブルの上に用意された食事。 それを冷蔵庫へ仕舞い、ごめんね、と呟いた。 |