今日も月が、嗤う。





そしてに微笑んだ






「うーん・・・」


彼女を目の前にして、つい唸ってしまった。

浴衣の着付けくらい、できる。
この国に暮らす時間はとても長いから。

ただ、妙齢の女の子の着付けを、最初から手直しして良いものか。
いくら肌襦袢は着ているとはいえ。


「マリ、あのね、」
「なぁに」
「浴衣、丈が斜めになってるし、肩の線もずれてるの」
「自分で着るの、三回目だもの」
「直してあげたいんだけど、うーん、流石になぁ」


明るいリビングで帯を結わない浴衣を着た彼女を見て、溜め息をついた。
浴衣を留める紐の結び目が、とても必死だ。それだけで、これ以上彼女自身が綺麗に着付けるのは難しいのだろうと判断できる。


「着付け直してくれないの?」
「え、えぇぇ?!ちょ、うぅ、それは、うぅ」


大きな瞳をきょとんとさせて、彼女は首を傾げた。
背中に流れる黒髪が、そっと揺れる。


その姿に、何も言葉が出なくなってしまった。

あぁ、もう。
どうしてそんなに無防備なんだ。


そんなこちらの気持ちを露知らず、彼女はその細い指で、必死に結んだのであろう紐をあっという間に解いてしまう。
そして当然、端折っていた浴衣の裾が長くなって床へ波打ち、合わせた襟が開いた。


「はい」


表情を変えない彼女は、勿論、何も考えていないのだろう。

あぁ、もう。
こっちの気も知らないで。


「マリ、他の男の人の前で、こんなに無防備になっちゃ駄目だからね」
「イバラは良いの?」


素直に良い、とは言えなかった。
だから、首を傾げて濁してしまう。


「じゃあ、着付けるから背筋を伸ばしてね」


そう伝えて、そっと薄紫の浴衣の襟を握った。

肩の線、背中の線を合わせて、裾の長さを決めた。歩きやすいように、少しだけ短めに。
その間、出来る限り肌襦袢に透ける白い肌を見ないよう努めるのに、とてもとても苦労した。

その、視線を逸らす姿が不思議なのだろうか。
彼女はじっと、こちらを見詰めてくる。


「イバラ?」
「なぁに?」
「嫌、だった?」
「着付けるのは全然嫌じゃないよ」


柔らかく答えてから、浴衣を留める紐を細い腰へ回した。
きつくならないよう締め上げてから、結ぶ。


「でも、こうあまり目の前で薄着になられてしまうのは、あまり良くないかなぁと」
「どうして?イバラが食事をする時はいつも見てるでしょ?」


そう言いながら、彼女はそっと胸元へ手を宛てた。


「・・・お腹は、空いてない?」


問いにどきりとしたけれど、平然を装って床へ膝をつき、襟を合わせて形を整えてやる。
そして表情を隠しながら、いつもの声音で返事をした。


「うん、まだ大丈夫だよ。ありがとう」


仕事として、最近は彼女以外の血を喰らっているから。
そう心の中で付け足してから、立ち上がって今度は帯を手に取る。


「はい、これを抑えててね」


左肩に帯を掛け、彼女の手をそこへ添わせた。
そうして残りの長い方を腹へ巻きつけて、結び始める。


「苦しくない?」
「大丈夫」


しゅる、という帯が擦れて鳴る音が、部屋に響いた。
夏の午後、夕暮れ前。蝉の鳴き始める季節。

開け放った窓から入る風に髪を揺らされながら、彼女は真っ直ぐに立ち続けた。


その凛とした横顔が、彼女の叔母と重なる。
そして、彼女の母親とも。


「マリ」
「なぁに?」


彼女の母親へ別れを告げたのは、自分だった。
だから彼女にも、そうするべきなのだろうか。

見上げてくる視線を絡めとり、けれど、言葉は飲み込んだ。


「・・・なんでもない。よし、できた」


ぽん、と帯を軽く叩いてやり、その手をとって姿見がある彼女の部屋へ向かう。
そして着付けを確認して貰ってから、机の椅子をその前へ持ってきてそこへ座らせ、黒髪をそっと指で梳いた。


「さて、お嬢様。御髪はいかが致しましょう?」
「お任せで」
「仰せのままに」


おどけて一礼して見せてから、用意してあった櫛で再び梳く。

文化祭の時はお団子にしたから、束ねた髪を今度はおろそう。
そう決めて、そっと黒髪へ口付けた。






彼女を駅へ送り届けて、一本電車が行くのを待つ。
そして改札内へ入り、次にやって来た電車へ乗り込んだ。


向かう先は彼女と同じ、この近辺で今年最初の花火大会が開催される駅。
彼女は高校の友人と大勢で場所をとって見るという事なので、多分、鉢合わせる心配は無いだろう。

扉の近くに寄りかかると、静かに息を吐いて天井を仰いだ。
彼女に嘘を吐くのは慣れているけれど、それに感じる小さな罪悪感に慣れることはいつまでもできなかった。

動き出す電車。移りゆく車窓へ視線を移し、もう一度息を吐く。

その、無防備になったタイミングを見計らっていたのだろうか。
斜め下から、聞き慣れた声で話し掛けられた。


「こんにちは。今から向かうのですか?」


ぞっとするようなタイミングに、思わず眉を顰める。
神出鬼没の仲介人だ。


「人目のある所で話し掛けて欲しくないのだけれど」
「おや、それは失礼致しました」


悪びれもせずに、座席へ腰掛けた男はこちらを見ず、深く帽子を被ったまま言った。


「先程一緒に歩いてらっしゃったのは、どなたですか?」


震えそうになった手を、辛うじて抑える。

仲介人に、彼女を見られていた。
迂闊だった自身に舌打ちをしかけて、けれどそれも堪える。


「知人の姪です」


間違ってはいない。
とくり、と静かに鼓動が早くなった。

それに気付いているのか、にぃ、と笑った気配が下からする。


「そうですか。それにしては、随分と大切にしていらっしゃるようでしたが」
「貴方には関係無い」
「確かに、そうですね。失礼致しました」


見計らったように、電車が減速を始めた。
次の駅だ。


周囲に立つ人間へ悟られないよう、静かに斜め下を睨みつける。
けれどそれに振り向かない男は、よっこらせ、と呟いて席を立った。


「大丈夫ですよ、誰にも言いません」


今のところは。
遠ざかっていく背中からそう微かに聞こえたのは、空耳だと思いたかった。


降りる人間を吐き出し乗る人間を吸い込んだ電車は、再び前へ進み始める。
ホームには、既にあの男の姿は無い。

それに多少の安堵を感じ、本日何度目かの溜め息を落とした。
ガタンガタン。誰の思惑にも関係なく、電車は進み続ける。


ふと見回すと、辺りは鮮やかな浴衣ばかりだ。
きっと、花火大会へ行くのだろう。平和な光景に、また溜め息をつきたくなった。

けれどそれは我慢して、ふ、と苦笑し瞳を閉じる。


あの男に、彼女の存在を知られてしまった。
いや、既に知っていたのかもしれない。

そう考えると、彼女がこちらの事情に巻き込まれてしまう事も目に見えていた。


「・・・そうなる前に、僕が居なくなれば問題はないか」


その時を想像して、どうしようもなく悲しくなる。
けれどそれを呑み込んで、再び瞳を開けた。


さあ、今日も仕事だ。






ぱん、


一際大きな火の花が咲いた。
わぁ、と歓声があがり、空気がざわめく。

地面に敷いたシートの上に座って空を見上げながら、手に持ったペットボトルのお茶を一口飲んだ。
そして、悟られないよう視線を巡らせる。


一緒に居るのは、同級生達だ。
文化祭の打ち上げに参加したことで、自分をこういった行事に誘っても良いと思ってくれたらしい。

クラスの何人かで花火大会へ行くのだけれど、と声を掛けられた時は、驚いたけれど少し嬉しくもあった。

拒絶されない自分。それは、馴染みのないものだ。
だから、この状況の違和感を拭うことがなかなかできない。


ぱん、ぱん、ぱん、


そして結局思考に残るのは、唯一最初から、自分を拒絶せず受け入れた彼の事。


いつかの秋に、一緒に行った遊園地で見た花火を思い出した。
あれは途方も無く壮絶だったけれど、今、目の先で咲き続ける花は、夏がやって来る予感を孕んで楽しげだ。


「綺麗・・・」


ぽつりと呟いたけれど、そうだね、と返事をくれる彼は居ない。
そのせいか、何かが足りない感覚を消せなかった。


「かのっち、そのたこ焼きとってっ」


不意に手元にあった未開封のたこ焼きを指差して言われ、それを手にとる。


「文化祭であんなに作って食べたのに、まだ食べられるの?」
「だってたこ焼き大好きだもんー♪」


はい、と小さく言いながら手渡し、首を傾げた。
お礼を告げられ、再び視線を夜空へ戻す。

花火に照らされ、藍色から紺碧、それよりも青へ近付くその様に、溜め息をついた。


どうしてだろう。
足りない。落ち着かない。


「まりあさん、大丈夫?」


突然、後ろから問われた。
聞き慣れた声に振り向くと、浴衣姿の狐モドキが居る。


「いっくん」
「こんばんは、まりあさん。先輩が心配してますよ」
「え?」


ほら、と言って狐モドキが示した先には、男子バスケ部のキャプテンが居た。
キャプテンは狐モドキへさんきゅ、と小さく言ってから、わたしを見て元気無さそうだったから、と告げて空へ視線を戻す。


あぁ、気遣わせてしまった。
申し訳ない、と思ったけれど、同級生よりは馴染み深い狐モドキが居るというのは、ほんの少し楽だ。

出来る限り体を右に寄せて、空いたスペースを左手で軽く叩いた。
その仕草に反応して、狐モドキが隣へ滑り込んでくる。

そして、窺うようにこちらの顔を覗いてきた。
だから、小さく頷いて言う。


「大丈夫だよ。変な顔してた?」
「いつも通り可愛いですけど。心ここに在らず、って感じでしたよ」
「可愛くないよ」
「可愛いですよ?」


否定し続けても、更に否定し続けてきそうだったから止めた。
それを察してくすくすと笑んだ顔は、打ちあがった花火に照らされて一瞬一瞬、暗がりに浮かび上がる。


「・・・こうやってみんなと花火を見るのは、とても楽しいの。でも、」
「でも?」


その先は、お見通しなのだろう。
けれど狐モドキは、首を傾げてきちんと言葉にしろ、と促してきた。


「・・・イバラが居ないのが、少し変な感じ」
「変って?」
「・・・足りない」


そうですか、と呟いてこちらを覗き込んでいた顔が漸く空を見上げる。
そのタイミングで、ぱん、と再び花が開いた。


しばらくの沈黙。


切り取られた空間に居るような錯覚に陥った。
ざわめく周囲。

自身が孤立するのは、何時だって人の中に居る時だ。
それに気付いたのは、何歳の頃だっただろう。


ぱん、ぱん、ぱん、


連続で花は咲き、わぁ、と歓声が上がる。
その一体感から外れて、狐モドキは再び口を開いた。


「俺も、最近は慣れましたけど、ふとした瞬間に足りないって思う時がありますよ」
「・・・大事な女の子?」
「はい」


くすり、と笑んた狐モドキの横顔には、微かな羨望が混じっている。


「会いに行ける場所に居るんですから、行けばいいんですよ。まりあさんの場合は、帰る場所にその相手が居る訳ですが」
「・・・そう考えると、わたしって贅沢者なのかな?」
「はい、とても」


ぱん、ぱん、ぱん、


狐モドキと、再び目が合った。
鮮やかな花火に照らされる世界は、夢の中のようで。


「駅前の病院に入っていく茨さんを見掛けました。今行けば、花火に間に合うかもしれません」
「え?」
「だから、早く行って下さい。先輩には上手く言っておきますよ」


その代わり、また勉強を教えて下さいね。

冗談交じりに告げられた言葉に、背中を押されて。
わたしは、何も考えずに立ち上がった。


シートの端に置いていた下駄を履き、爪先で地面を二度蹴る。
そして、それを見守るように眺めていた狐モドキを振り返って、一言。


「ありがと」


言い終えてすぐ、人混みの中を急ぎ足で歩き始めた。
どうして彼が、そんな場所に居るかを考えずに。


「いってらっしゃい、まりあさん」


くすりと笑んだ狐モドキの声が、聞こえた気がした。






花火を見たい、と言われたから、その体を抱き上げて屋上へ連れてきた。

屋上を囲む金網が、風に揺れてカシャリと鳴る。
その向こう側には、夜の街と花火が広がっていた。


腕の中の女性は、細く呼吸をしながらそれを見詰めている。
死に近付いた人間の、独特の力無さがその瞳にあった。


男性の夢魔のように、必ずしも女性の血を喰らう訳では無い。
けれど自分も弟も、男性の血よりは女性の血の方が好みであることも確かだ。

それが配慮されているのか、舞い込んでくる内容は基本的に女性からのものばかりである。
そんな細かな所であの仲介人に気を遣われているというのが、多少腹立たしくもあった。


意識を世界へ戻した瞬間、腕の中の体が数秒震えた。
だから抱き締める腕に力を込めてやり、静かに尋ねる。


「寒いですか?」
「ううん、大丈夫」
「今ならまだ、止められます。寿命を全うしたいのでしたら僕は去りますので、仰って下さい」
「寿命、かぁ」


その女性は、金網をそっと指先でなぞってから、くしゃりと微笑んだ。


「寿命ねぇ・・・ふふ、君は残酷だなぁ」


仕草で降ろすよう示されたから、そっとその足先を地面へ近づけてやる。
すると女性は飛び降りるように腕の中からすり抜けて、自身の足で立ち街を見詰めた。


「残り少ない時間を足掻けと、君は言うの?」
「・・・そういう選択もあると、思うだけです。決して僕の意見を押し付けようとは思いません」
「じゃあ、君が病気になって、もうすぐ死んでしまうと宣告されたら、どうする?」
「え?」
「あと少しで命が尽きると告げられたら。君は、苦しまずに早く訪れる死と、足掻き苦しんで迎える死、どちらを選ぶ?」


振り向いたその瞳には、微かに浮かんだ涙。
それを手の甲で拭い、女性は首を傾げて口の端を上げた。


その挑むような笑みに、命の儚さを思う。
足掻き、疲れたのなら、安息を求めても良いじゃないか。そう言いたくなり、けれどそれは目の前の笑みへの侮辱のような気がして、呑み込んだ。


だから、自身のことを考えた。

もしも血を喰らうことができなくなり、命尽きるのなら。
自分は、どうするだろう。


瞳を閉じて、想うのは彼女のことだけ。
きちんと一人で食事を作り、洗濯と掃除をして、毎日を過ごせるだろうか。

気掛かりなのは、それだけだ。
彼女の命をこれ以上奪わなくても良いという一点で、途方も無く安堵を覚えるのは確かで。


瞳を開けて、目の前の女性を見詰める。
浮かんだ答えは、口から滑るように紡がれた。


「きっと、僕を知っている人達から逃げて、苦しくない内に終わりを選ぶと思います」


想定外の答えだったのだろう。
目の前の瞳が大きく見開かれてから、もう一度、くしゃりと微笑んだ。


「弱虫」
「はい。弱虫なんです」


ぱん、ぱん、ぱん、


金網の向こうの世界は、必然の明日を信じて廻り続けている。
それを見詰めながら、女性はそっと呟いた。


「なんだか、疲れちゃったなぁ」
「病室へ戻りますか?」


そっと差し出した手は、柔らかく拒絶される。
そして、告げられたのは。


「もう、戻らなくていい。ここで、終わりにして?」


命を奪え、血を喰らえ、という最終宣告だった。


どうしてだろう、と思う。
依頼をして、自分が目の前に現れて尚、この女性は迷っていた。

自身の命を他へ委ねるか、自身で全うするか、どちらにするか、を。


この短い会話の中で、心を決める何かがあっただろうか?
振り返るけれど、見当がつかなかった。

それが顔に出ていたのだろう、女性はくすくすと笑み、そっとこちらへ手を伸ばしてくる。


「分からないって顔をしているね、吸血鬼」
「・・・はい」
「ふふ、分からなくても良いよ。さ、気が変わる前に早くして?」


もう一度、目の前の瞳を見詰めた。

涙はもう蒸発している。
そして迷いも、無い。


「・・・分かりました」


伸ばされた指先をそっと握り、抱き締めるように距離を詰めた。


「ダンスしてるみたい」
「・・・何か、言い残すことは?」
「何も、無いよ」


せめて最後に、と思い、握った指先はそのまま、空いた右手をそっと腰に回す。


「召し上がれ?吸血鬼」


そう呟いて、震えた無防備な喉。
その脇にある頚動脈へ唇を近づけ、一気に牙を突きたてた。


震える体。
力の抜ける足。

喘ぐように酸素を求める唇。
頬を伝って落ちてきた、涙。


その全てを忘れまいと、流れ込む血を飲み下しながら一挙一動を逃さないよう、全神経を働かせた。

どうしても、奪う命ならば。
せめて、その最後を忘れずこの身に刻む為に。






命を全て飲み干し、牙を引き抜く。
そっとその首筋を伝う血を舌で拭うと、くすぐったかったのだろうか、女性は最後の力でくすりと体を揺らした。


そうして、あとは抜殻になるだけの体を抱き上げる。
その時、もう声を出せるほどの命も残っていないだろうに、その唇が微かに動いた。


弱虫な君が逃げ場の無い世界で生きていく糧になるのなら、それも良いと思ったんだよ。


その言葉は、果たして本当に紡がれたのか、空耳だったのだろうか。
最後に微笑み、そして事切れた体へ問い掛けようとも、決して答えは返ってこなかった。






病院を出て、家路へ着く。
花火はまだ夜空を彩っており、同じように駅へ向かう人間は少なかった。


それでも、通常よりは人通りが多い。
その間を縫うように歩きながら、供給された力で回復した体と反比例して沈む心を持て余した。


ぱん、ぱん、ぱん、


後ろで花火が散り続ける。
その合間に名前を呼ばれた気がして、ふと振り返った。


勿論、知っている顔は何処にも無い。


前を向き、再び歩き始める。
独りで居る、誰にも気を遣う必要が無いこの状況が、今はとても有り難かった。


病院から駅はすぐで、構内もそれほど混んではいなかったから、あっという間に帰るべき駅まで着いた。

見慣れた改札、見慣れた駅前の店。
それらを横目で眺めながら、無意識に足は家へと向く。


彼女が帰ってくるまでに、この感情を処理し終えなければ。
そう思えば思うほど、心が沈んでいくのを止められなかった。


本当に、莫迦だ。


誰も見ていないことを良い事に、右手で顔半分を多い、表情を歪める。
けれど、その瞬間に服の裾を後ろから引かれた。


あぁ、こんな時に一体誰が。
逃げてしまいたい衝動に駆られたけれど、どうにか笑みを顔に張り付け振り向く。

そして、その視界に現れた相手に、驚いて思わず動きを止めてしまった。


「・・・マリ?どうして」


同級生と花火を見ている筈の、彼女だった。


こちらの服を掴んだままの彼女は、夕方と同じ薄紫の浴衣を着ている。
その裾が少し乱れているのは、自分を早足で追いかけてきたからだろう。心なしか、呼吸も荒かった。


「もしかして、追い掛けてきてくれたの?」


こくり、と縦に頷いてから、彼女は掴んでいた指を外す。
そして、小さく言った。


「イバラが病院から出てきた時から追い掛けてたんだけど、追付けなかった」


その言葉に、心臓が大きく鼓動を打った。


彼女は、こちらをひたと見据えている。
けれど、その瞳に浮かぶ感情を読み取る事はできない。

むしろ、こちらの感情を読み取ってさえいるようだ。


落ち着け、と自分に言い聞かせる。
深い呼吸を一度してから、彼女の視線から逃れるように一歩前へ出て、左手を差し出した。


「気付かなくてごめんね。さ、帰ろ?」


彼女は一度、大きく瞬きをした。
その姿が可愛らしくて、抱き締めたいな、と場違いなのに思う。


成る程、危機的状況に立った時の自分は、思考が脱線するのか。
新たな発見に自身で驚いている内に、彼女が差し出した手を握り返してきたから、それを握って包み込んだ。


そして、家までの道を辿り始める。
自分一人の時よりも余程ゆっくりな歩き方に、もしかすると、これが誰かと生きるという意味なのかもしれない、なんて考えが浮かんでは消えた。


本当に、関係の無い思考ばかりが頭を埋め尽くす。
そうして考えないようにしている本題を、彼女が決して忘れないという事も十分承知の上で。


「花火、綺麗だった?」
「・・・うん」
「そっか。みんなと一緒で楽しかった?」
「・・・うん」
「そっか、良かったね。また誘って貰えると良いね」


ほら、こうやって逃げようとする。
だから弱虫なんだよ、と、先ほどまで生きていた、自分が命を奪った、あの女性へ教えてやりたかった。


「浴衣は苦しくない?」
「・・・大丈夫」
「足は、痛くなってない?」
「・・・平気だよ」
「履くの三回目だもんね、流石に馴染んだかな」
「イバラ」


呼ぶ声。
けれど、聞こえない振り。


「でも、疲れたら言ってね?マリを背負って帰るくらい、僕にだってできるから」
「イバラ」
「ねぇマリ、屋台で」
「・・・イバラ!」


もう一度、強く、名前を呼ばれた。

熱を出した時以外で彼女が声を荒げたのは、初めてかもしれない。
それくらい、珍しいことだった。


「どうしたの?マリ」


それなのに、自分は。
真正面から受け止める事が怖くて、へらへらと笑っている。


彼女の指に力が入り、強く手が握られた。
それに反応し、足を止めて横に居る彼女の方を向くと、その漆黒の瞳が真っ直ぐにこちらを見詰めている。


「ねぇ、イバラ、どうしたの?」
「何が?」
「だって、さっきから変だよ」
「変?何処が?」
「どうして、そうやってはぐらかそうとするの?」




いつからだろう。
彼女が、こちらの感情を窺い自身がどうすべきかを考えるようになったのは。

初めの内は、持て余した自分の感情だけで手一杯だった。
それなのに、共に過ごした年月の中でどれだけ押し留めようとしても、彼女は確かに成長していった。


例えば、今。
逃げようとする僕に気付いて、逃すまいと手を伸ばしてくるように。




「ちゃんと答えて」




ひたと見詰めてくる瞳。

あぁ、どうしよう。

きっともう、逃れられない。
きっともう、嘘は吐けない。


病院で何をしていたのかと問われれば、きっと答えずには居られない。
それくらいの強制力を、その黒い光は持っていた。




「どうしてあの病院に居たの?」


そして彼女は、きっと答えを確信している。
確信しているけれど確認したいから、今の問いがあったに違いない。

そう思わせるくらい、その言葉に迷いは無かった。


だから、僕は。
事実を告げる以外に、選べなかった。


くしゃりと微笑んでみせる。


「食事をしに行ってたよ」


果たして、上手な笑顔が作れていたかは分からない。


「ここ最近、わたしの血を飲まなかったのは?」


繋いでいた、指が離れる。


「今日みたいに、もうすぐ死んでしまう人達から血を貰っていたから。マリの血は、必要なかったんだ」




彼女の母親へ別れを告げたのは、自分だったけれど。
彼女にさよならを伝えるのも、やはり自分なのだろうか。

今が、その時なのだろうか。




そう思ったら、笑んだ顔が泣きそうに歪んだ。
彼女は俯いてしまったから、良いだろうか。

例え見ていたとしても、きっと暗いから気付かれない。
だから、このままで良いだろうか。


駅から家への帰り道。
見慣れた風景の筈なのに、街灯が余所余所しく光っていた。

それに照らされた彼女の顔が、再びこちらを向く。


「そっか」


ぽつりと呟いた唇。
よく見るとその上には紅がひかれ、瞼の上も、ささやかながら色付いていた。

その下には当たり前だけれど、見慣れたいつもの彼女の顔。
けれどそれは、見た事の無い感情に彩られていた。




その、表情といったら。




「もう、わたしは要らないの?」




その、表情といったら。




彼女の指先から滑り落ちた白いビニール袋。
そこで初めて、彼女が荷物を持っていたことに気付いた。


アスファルトに叩きつけられて剥き出しになったのは、透明なパックに入った焼きそばと、お好み焼きだ。
もしかすると、一緒に食べる為に買ってきてくれたのかもしれない。

そう思ったら、どうしようもなく悲しくなった。


「・・・先に帰る」


搾り出したような、微かな声。
そして彼女は、横をすり抜けて夜の街へと消えた。


それを目で追う事さえできず、追い掛ける事なんてもっとできず、地面に落ちたビニール袋を拾う為に指を伸ばす。




どうして、どうして、どうして。




指先がゴミになってしまったそれを集めながら、頭は別の事を考えていた。

目まぐるしく回る思考。
どうして、という問いに対して、弾き出される答えは一つも無い。




どうして、どうして、どうして。




いつか切り捨てられるのは自分なのに。
いつか置いていかれるのは自分なのに。

どうして彼女が、あんなに悲しそうな顔をしなくてはいけない。




幾度と無く、あの瞬間の彼女の言葉が、表情が、甦る。


もう、わたしは要らないの?
そう言った時の彼女は、別れを告げた時の彼女の母親と同じで。




涙を堪えて歪んだ顔で、微笑んでいた。




「マリ・・・どうして?」




呟く声は、闇に解ける。
きっとそれを聞いていたのは、紺碧に浮かびこちらを見下ろす月だけだった。




「どうして君が、そんなに悲しそうに笑うの?」




あぁ、月が。
僕らを嗤っている。





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