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ありがとう、と。 言われる資格を持っていない。 月に請う 六月の晴天。 今日の花嫁はきっと幸せだろうと思わせる、その青を見上げる。 コンクリートの壁に嵌められた四角い窓。 息苦しさを感じる筈のものなのに、どうしてだろう、その向うに広がる景色の無限さに心が躍った。 「兄さん」 冬を越えたプールは、間も無く綺麗に磨かれるのだろう。 そこで授業を受けるスクール水着姿の彼女を思い浮かべて、思わず顔が赤くなった。 いやいやいや。三年生は、もうプールの授業は無い筈だ。消えろ煩悩。 「兄さん」 強めの声が耳に届くと同時に顔を覗き込まれて、意識が世界へ戻ってきた。 目の前にあるのは、見慣れた弟の顔だ。 「どうしたんだ?体調が悪いのか?」 自分の目線よりほんの少しだけ高い所にある淡い紫の瞳が、心配げな色を宿していた。 まさか、色々と想像していてぼけっとしていた、なんて言える訳が無い。だって、お兄ちゃんだもの。 「ごめんね、なんでもないよ」 そう言って微笑むと、視線を辺りへ巡らせた。 制服を着た生徒は勿論、それ以上に居るのは、浴衣やツナギ、メイド服に着ぐるみ等何かしらの特殊な服を身に付けた彼らだ。 囲まれた世界。 どこか懐かしくて、少し埃っぽくて、狭く広い世界。 その中で一瞬の輝きを抱えた姿は、この目にとても眩しかった。 彼女の通う高校の文化祭、最終日。 初めて招かれた高校は、予想以上に広かった。 要するに。 「じゃあ、この年になってどうして校舎内で迷子になるんだ」 「ぅ。で、でもさサク、この年って幾つだと思ってるの?」 「・・・三桁いっていると思うが?」 「ぅ、確かに。いやでも、初めて来る場所で迷子になるのは年齢関係ないよっ」 「此処へ来ると決まった時点で、事前に調べない兄さんが悪い」 漫才のような会話を繰り広げているのは、校門を入ってすぐにある校舎の二階だ。 廊下で大人の、しかも男二人が騒いでいるのは目立つのだろう。 近くを通り過ぎる、主に女子生徒の視線が痛かった。 それに気付かぬ振りをして、再び弟を見遣る。 じと、とした呆れた視線を返されてしまった。 「・・・サク冷たい」 「もうその手には乗らない」 「・・・サクぅぅぅ」 ぎゅうと服の裾を掴み、上目遣い。 自分が彼女にやられたら、もう何でも言う事を聞いてしまう体勢を弟に使ってみた。 勿論、効かなかった。 「兄さん、いい加減に・・・」 眉が寄せられ、瞳が閉じる。 そして盛大に吐かれた弟の盛大な溜め息。 それに被せて、聞き覚えのある声が自分の名前を呼んだ。 「あれ、イバラさん?」 「いっくん!」 切り替えの早さには、自分でも感心する。 一瞬で弟から手を離し、救いの神がやって来たと言わんばかりの勢いで声のした方へ振り向いた。 するとそこには、相変わらずの笑顔を浮かべた少年が立っている。 新撰組の陣羽織を着て。 「・・・劇?」 「はい、そうです。新撰組と維新志士で和製ロミオとジュリエットです」 「・・・男色?」 「流石にそれは先生方から許可が出ないですよ?勿論、片方は女の子です。沖田総司が実は女の子だった、的な感じです」 なるほど、時代が変われば人も変わる。 思いついた生徒も、それを採用したクラスにも感心してしまった。 「もう終わっちゃった?」 「はい。お陰様で大盛況でした」 少年の後ろには、クラスメイトなのであろう同じく陣羽織を着て眼鏡を掛けた生徒が居る。けれど、知り合いらしい男と話し始めた少年に気を遣ったのか、先に行ってるね、と告げて通り過ぎていった。 すれ違う瞬間、陣羽織の裾が風に浮く。 それを目線で追ってから元の場所へ戻すと、彼女曰く狐モドキの少年は、僕と弟の顔を見比べて、くすりと笑んだ。 「ご兄弟ですか?」 「うん、そうだよ」 「そっくりですね」 そう言ってから、少年は弟へきちんと挨拶をして名前を告げた。 その礼儀正しさに驚いたのだろう、弟は目を大きくしてそれを見詰めていたけれど、我に返って自分も挨拶をする。 そして、思い立ったように聞いた。 「兄さんは全く宛てにならないんだが、三年五組の教室が何処か分かるか?」 「ああ、それが分からなくてこんな場所に立ち往生してたんですね」 少年はくすくすと笑い、それから指で窓の外に広がる中庭の向こうの校舎を指差す。 「あちらの校舎の一階です。たこ焼き屋さん、分かりますか?」 その指の先を見ると、其処にある窓には赤い画用紙が蛸の形に切り抜かれたものと、黒いテープ作った「たこ焼き」という文字が貼り付けられていた。 「ほらみろ、校舎がまず違う」 弟の深い溜め息が聞こえたけれど、無視だ。 「あそこかぁ!ありがとういっくん、助かったよ」 「いえいえ。行くんですか?」 「うん。その為に、一人はちょっと恥ずかしいから弟を引っ張り出して来たんだもの」 「仲が良いんですね。せっかくなので、俺も案内がてら行きますよ」 「え、悪いよ?」 そう言いながらも、この空間で自身が浮いている自覚があるから、案内をして貰えるのは非常に有難い。 それをきちんと見抜いているのだろう、少年は、丁度お腹も空きましたし大丈夫です、と言って行くべき方向を促してきた。 「それに、お二人で歩かせると女子生徒に囲まれちゃいそうだし」 まりあさん、あぁ見えてやきもち妬きそうですからねーと笑って付け足された言葉の意味は、よく分からない。 ともあれ、漸くゴール地点が分かり、呆れ顔の弟を引き連れて歩き始めたのだった。 「いらっしゃいませぇ!」 教室に入ると、幾つもの笑みと言葉が向けられた。 その中に知った顔があったのだろう、少年は丁寧に挨拶をして話し掛けている。 ざわめく空気、幾つもの風船やダンボールで飾られた教室内。 ざっと視線を走らせたけれど、彼女の姿が見当たらなかった。 「あれ?」 「・・・兄さん、此処まで来て彼女に会えなかったというのは笑えないぞ」 弟も同じ姿を探していたのだろう、耳打ちしてくる。 その変な二人組へきちんと対応しようと寄ってくる生徒が居るのだから、再び感心してしまった。 「こちらへどうぞー!」 「ご注文はどうしますかぁ?」 浴衣に身を包み、見事に髪を結い上げた少女に両脇を囲まれお会計をする机まで誘導される。 ダンボールにカラフルなペンで描かれたメニューへ目を通すと、たこ焼きにかけるソースが何種類かあるらしい。プラス、激辛が一粒入ったロシアンたこ焼き。 「サク、ロシアンたこ焼きかな?」 「・・・兄さんはどうしてそう冒険したがるんだ」 「分かった分かった、普通のも買ってあげるから。すみません、普通のたこ焼き一つとロシアンたこ焼き一つ下さい。あ、いっくんも食べるー?何が良いー?」 振り向いて聞くと、先輩に捕まったらしい少年からは、普通のが食べたいです、という返事があった。 なので、普通のをもう一つ、と付け足してお会計をする。 学園祭で使用する金券は、流石に彼女から受け取っていたのだ。 それを必要な分だけ渡して支払いを済ませると、もう一度今日室内へ視線を走らせる。 「お客さんはあの子のお友達なんですかー?」 お会計に居る浴衣姿の少女が、狐モドキの少年を示しながら身を乗り出して聞いてきた。 その瞳の中に好奇心を見つけて、若いなぁ、と思いながらも頷く。 「正確に言うと、あの子は僕らの親戚の友達です。その親戚の子を尋ねて来たのですが」 「あ、じゃあその親戚の子がうちのクラスの?」 「そうです。えぇと、叶谷さんは今居ますか?」 「え、かのっちの?!」 驚いた顔をした少女は、けれどすぐに席を立ち上がり、中庭に面した窓へ向かって何かを話し始めた。 どうやら、中庭でたこ焼きを作り、教室内で販売をする、という仕組みになっているらしい。 すぐに窓の向こうから、ひょこりと何人かの生徒が顔を出してこちらを見てきた。 目が合ったから頭を下げると、礼をしてから彼らは彼らで話し始める。 その声は聞こえなかったけれど、悪意は無さそうだったので、放っておいた。 「・・・兄さん、マリの行方を完全に無視されているが、良いのか?」 「んーまぁ、どうしようもなければいっくんにお願いして携帯電話で連絡とるから、大丈夫」 「え?彼女、持っているのか?」 「うん。最近買ったのー機械音痴で上手く使えてなくて可愛いんだー」 へら、と微笑んだら弟が何かを言おうとして、けれどそれを飲み込んで我慢した時の何とも言えない顔になる。 それから再び眉間に皺が寄り、マリアナ海溝よりも深い溜め息。 「・・・最初からそれを教えてくれれば、俺の携帯で彼女に連絡をとったというのに」 ぼそりと呟かれた言葉。 その意味を咀嚼して、理解して、確かに、と納得した。 「でも、ほら、過ぎた事だし、無事に着いたし」 「・・・もう二度と兄さんと出掛けない」 「えーお兄ちゃん寂しい!」 先程と同じ漫才のような会話を繰り広げていたら、くすくすという笑い声が各所から聞こえてきた。 あぁしまった、と口を閉じたけれど、しっかり注目の的になっている。 「仲が良いんですねぇ」 「かのっちって一人っ子でしたよね、従兄妹とかですかー?」 お会計に陣取っている女子生徒達が笑みを浮かべ、首を傾げてきた。 瞼にきらきらと光る色が乗せられ、それを包むように睫が丁寧に上を向いている。 彼女がこんな風に色を乗せたら、どんなに綺麗だろう。 そう思ったけれど、無垢のままで居て欲しい、とも思った。 矛盾する願い。 そんなのは、生きている以上当たり前の事だ。 「従兄妹ですよ。いつもマリがお世話になってます」 そう言って小さく頭を下げる。 すると、初めましてと言って自己紹介を次々にされてしまった。一気に名前を覚えられる訳もなく、むしろ名前を覚える気もあまり無く、困って笑みだけを返す。 弟は、もう関わる気が無いらしい。珍しそうに教室内を眺めていた。 そうしている間に、たこ焼きが出来上がったようだ。 窓の外から教室内へ渡された三つのパックが、お会計の女子生徒へと渡されてからこちらへ差し出される。 「はい、お待たせしましたぁ。かのっちもそろそろ着くと思うんですけど、」 「あ、来た来た!かのっち、お客さんきてるよ!」 教室の後ろにある出入り口に向かって投げられた声を追い掛けて、振り向いた。 そこには、見慣れた姿がある。 「マリ」 思わず、頬が緩んだ。 受け取ったたこ焼きのパックを三つ、全て弟に押し付けてそちらへ小走りで寄る。 彼女は、見たことの無い浴衣を着ていた。 薄紫の地に、桜と撫子の花が散った柄。帯は柔らかな白で、全体の印象を引き締めている。 誰の趣味かがすぐに思い当たり、くすくす笑いながら尋ねた。 「アザミさんが買ってくれたの?」 「うん。この前会った時に」 「綺麗に着付けられたね」 「・・・伯母様が午前中にいらっしゃって、直してくれた」 「うん、可愛い」 頬にかかる一筋の髪を背中へ流してやり、それから弟の方を向く。 「サクも一緒だよ」 「二人は仲が良いね。サク、来てくれてありがとう」 「・・・いや、別に。兄さん、たこ焼きが冷める」 こちらへ歩いてきた弟から再度たこ焼きを差し出されて、反射で受け取った。 目線の端で水色がちらついたから次にそちらを見遣ると、先輩と話し終えたらしい少年もこちらへ近付いてきている。 「いっくん?」 「まりあさん、こんにちは。お二人が迷っていたので、連れて来ました」 「迷ったのは兄さんだ」 「いやいや、一緒に迷っていました」 くすくす笑いながら少年に言われ、弟は何とも言えない微妙な顔をした。 流石にフォローしないと、機嫌が斜めどころか直角に急降下してしまう。 それに、教室中の視線を集めているのも気になったから、とりあえずこの場から居なくなる必要もあった。 「えぇとマリ、いっくん、たこ焼き買ったから食べよう!何処か座れる場所はあるかな?」 「そうですね、場所を移しましょう。まりあさん、シフトは大丈夫ですか?」 「うん」 「じゃあ、いつもの所に行きましょう」 言うなり、少年は知り合いの先輩へ頭を下げてから教室を出た。 弟がそれに続き、最後に彼女と自分が残される。 彼女は小走りで会計の女子生徒の所まで行くと、短く何かを告げた。 高い声でほんの少し会話が交わされてから、再度こちらへ戻ってくる。 「イバラ、お待たせ」 「ん。じゃあ、行こうか」 頷いて、手を出しそうになった。 けれどここで繋ぐと色々と彼女が問い詰められて面倒な事になりそうだったから、我慢して華奢な背中に宛てるだけに留める。 そして教室の外へ彼女を促してから、もう一度教室内へ向けて小さく笑んで礼をして、その場を去った。 どれがロシアンたこ焼きか分からないと言ったら、全員に嫌な顔をされた。 流石に傷つく、と思いながらも、文句を言われる前に弟と少年に一つずつ渡してしまう。 自分は彼女と半分こだ。 「はい、マリ」 ありがとう、と言って受け取った彼女は、パックを開けて物怖じずに最初の一粒を口へ放り込んだ。 浴衣にソースが零れないよう、慌ててパックの下へハンカチをひいてやる。 それを見ていた弟は、呆れた視線で相変わらず過保護だと伝えてきた。 そしてそれを読み取ったらしい少年が笑いながら、やはり物怖じずたこ焼きを頬張る。 プールの近くにあるベンチだ。 いつもは静かな場所らしいけれど、今は文化祭のざわめきに晒されて空気が騒いでいる。 風が揺らすのは、葉桜の枝。 それが地面に落とす影を見詰めながら、彼女は二つ目のたこ焼きを口へ頬張った。 「・・・意外に美味しい」 そう言ったのは、最後に渋々食べ始めた弟だ。 返事をするように彼女が頷くから、後ろでまとめようとしていた黒髪が乱れてしまった。 「わ、マリ動いちゃ駄目だよ!」 彼女の背後からは、座っている彼らの背中がよく見えた。 左からいっくん、マリ、サクの順で仲良くベンチに収まる光景はなかなか微笑ましい。 緩みっぱなしの頬をそのままに、再び長い黒髪を綺麗に梳かした。 「イバラ、はい」 こちらを見上げ、楊枝に指したたこ焼きを彼女が掲げてきたから、ソースが落ちる前にそれに喰らいつく。 弟の言う通り、高校の文化祭で売っているものとしてはレベルの高い部類の味だ。 きちんと蛸が入っていて、中がとろとろだった。 「美味しいねぇマリ」 そう言いながらも、手は休めない。 まとめた髪を左耳の近くへ持ってきて、ざっくりとゴムで結ぶ。そして出来た束を二つに分けて、ゴムに巻きつけてピンで留めていった。 「兄さん、どうしてそんな物持っているんだ」 「いつ何時、マリの髪を結ぶ事態が発生しても良いようにだよ」 「イバラさん準備良いですね」 男三人が話す中、彼女は黙々とたこ焼きを食べている。 なので、手早く髪を仕上げてしまい、よし出来た、と告げて黒髪をそっと撫でた。 「ありがとう、イバラ」 「どういたしまして。マリ、もう一個頂戴」 「ん」 再びたこ焼きが掲げられ、それに食いつく。 すると、それを両脇から見ていた少年と弟は、座ったまま少し体を前に傾けて顔を見合わせ、溜め息をついた。 「少年、この二人と一緒に居ると色々と耐えなければいけないが、大丈夫なのか?」 「お陰様で、最近は慣れました。同士も居る事がわかったので、耐えられそうですよ」 「辛くなったら逃げろ。それは逃げた訳じゃない、立派な防衛だ」 「はい、分かりました」 会話の意味が理解できず、彼女と二人で首を傾げる。 それを見て、少年はくすくす笑いながら告げた。 「砂を吐く前に逃げたほうが懸命だ、という話です」 理解することを放棄したらしい彼女は、ふぅん、とだけ言って再びたこ焼きを口へ運ぶ。 そして、噛んだ瞬間。 動きを止めた。 「っ」 両手で口を抑え、けれど何も言わずに微かに肩を震わせている。 何が起こったのか分からず、けれど一瞬後には理解した自分も弟も少年も、全員が自身の荷物を探った。 そして、見事なまでに誰も目的のものを持っていなかった。 「いっくん自販機はどこ?!」 「学食の所にあります、すぐ買って来るのでまりあさん少し我慢してて下さい!」 言うが早いか、少年はあっという間に駆け出す。 弟は零れないように彼女の膝の上からたこ焼きをどかし、自分は隣に座って背中をさすってやった。 「兄さん、さすったら吐くぞ」 「え、あ、そうか!ごめんマリ、いっくん戻ってくるまで待っててねっ」 微かに頷いた彼女は、無意識だろうか、こちらの腕を掴んでくる。 その手をそっと握ってやりながら、少年が駆けて行った方を見た。 要するに。 ロシアンたこ焼きに入っていた激辛の一粒を、彼女は見事に引き当てた訳で。 「まりあさん、買ってきましたよ!」 新撰組隊士がペットボトルの水を片手に持って走ってくるまで、彼女はひたすら口内の辛さに耐え続けたのだった。 後夜祭と打ち上げにでてから帰るから、遅くなるね。 そう言った彼女を教室へ送り出した。 同世代の生徒達の輪の中へ戻った彼女は、たどたどしくも其処へ馴染もうとしている。 その姿に微笑んでから、弟と二人、高校を後にした。 校門を出て、駅までの道すがら。 ずっと黙っていた弟は、駅の前で漸く口を開いた。 「兄さん」 「ん、なぁに?」 「彼女は、少し変わったな」 「でしょ?」 嬉しそうに首を傾げた自分とは対照的に、弟の表情は何かを躊躇って沈んでいる。 だから、代わりに言った。 「狭い世界に居たけど、段々広くなってきたんだよ。人に興味を持って、自分にも興味を持つようになった。いっくんのお陰だと思う」 「あぁ」 「子どもを見守るお父さんって、こんな気持ちなのかな?嬉しいけど、寂しい複雑な気分」 「兄さんは、」 雑踏に消されそうな声。 静かに近付いて、言葉の先を促した。 バスのクラクション、電車が線路を走る音、話し声、足音。 それらに消されないように、耳を澄ます。 「兄さんは、彼女の親じゃない」 「・・・うん」 「無償の愛なんて必要無い。与えたなら求めていい。奪いたいなら奪えばいいし、慈しみたいのなら慈しめばいい。それを拒むか受け入れるかは、彼女の選択だ」 「サク、それは少し乱暴だよ?」 「茶化すな」 ガードレールに腰掛けて小さく笑んだら、ぴしゃりと言われてしまった。 目の前に立つ弟の顔を見上げる。 黒髪の奥に光る淡い紫。 そこには宿るのは、真摯さだ。 「兄さん、どうして躊躇うんだ?どうせ、彼女が逃げるのなら追い掛けて押し留めるつもりも、あの少年が彼女を奪うならそれを止める気も無いんだろう?」 「それは勿論」 「どうして、」 「だって、そもそも彼女と僕は平等じゃないもの」 けれど、その真摯さ以上に。 この身が抱えるのは、罪悪感だ。 僕が彼女から奪うのは、血。そこに含まれる、命。 本当は、怖くて怖くて仕方ない。 奪う度に彼女の寿命を削っているのではないか。 次は同族になってしまうのではないか。 次は、死んでしまうのではないか。 「僕ばかり奪い続けているのに、どうして与えて欲しいと言えるの?ご飯くらい作るよ、掃除だってする。でもそれは、彼女にだって出来ることを代わりにやっているだけだ」 血を奪う度に、意識を失った顔を見るのが怖くて仕方ない。 眠っている間に鼓動が止まってしまうのではないかと、恐ろしくて眠れもしない。 「彼女から掛け替えの無いものを奪い続けているというのに、どうしてそれ以上を求めていいの?」 右手で前髪をかき上げる。 笑おうとして、失敗した。 「いいわけ、無いじゃないか」 そうでしょう、と瞳で問うと、弟の顔まで歪めさせてしまった。 けれどそれをフォローする気になれず、見続けることはもっと出来ず、俯く。 そして、沈黙が落ちた。 俯いた先に、手を繋いで歩いていくカップルがいる。 堪えがたい羨望が、胸を焦がした。 同じ立ち位置。平らな天秤。刻む時間の平等さ。 当たり前の事が手に入らない、この身を恨みさえした。 この身だからこそ、長い時を渡って漸く彼女に出会えたというのに。 どれだけ思い悩んでも変えられない事を考えている自分に、苦笑した。 このまま黙り続けている訳にもいかず、よいしょ、と言って立ち上がる。 「だから、今回の仕事を引き受けたの」 「・・・彼女がいつ居なくなっても、良いように?」 「うん、そうだよ」 手を伸ばして、弟の黒髪をくしゃくしゃと掻き混ぜるように撫ぜた。 いつもは抵抗するのに、今日ばかりは黙ってそれを受け入れるから、つい笑みを深くしてしまう。 「サクは本当に、お兄ちゃん想いだね」 「・・・誰が、こんな面倒な事ばかり背負い込む奴を」 「優しい子だね。ありがとう、サク」 言葉を遮ってそう言うと、弟はもう一度顔を歪めてから俯いて、勝手にしろ、と言った。 「さ、行こう?君も行くべき場所があるんでしょ?」 「・・・あぁ」 歩き出すよう促して、再び駅へと向かう。 切符を買い、改札へ入ると、行くべきホームは別々だ。 階段の下で再び足を止めて、弟の正面に立った。 そっと腕を包む服を掴み、今度こそ上手に笑む。 「今日は付き合ってくれてありがとう。また遊んでね?」 「・・・分かった」 「それじゃあ、気をつけていってらっしゃい」 「・・・兄さんも」 淡い紫は、こちらを見ようとしなかった。 だから、最後にもう一度ありがとうと告げてから、踵を返し階段を登り始める。 真ん中辺りまで登った時、後ろから名前を呼ばれた。 彼女に貰った名前ではない、昔々の使い古した名前だ。 振り向くと、呼んだのは勿論弟だ。 未だ歪んだままの顔で、囁くように告げてくる。 「それでも俺は、兄さんに幸せで在って欲しいと思う」 幾星霜を超えて尚、消えないその真っ直ぐさは美徳だ。 「それは、僕も同じだよ」 君の幸せを祈っている。 それは僕の手でもたらす事が出来ないから。 白く染められた病室。 その中央に置かれたベッドに横たわる女性は、細く静かに呼吸を繰り返している。 「こんばんは」 自身の声が低く響いた。 窓から入る月光に照らされて、それが少しでも柔らかくなれば良いのに、と思う。 「あら、やっとお迎えが来たようですねぇ」 返ってきた声音は、掠れたアルト。 それは積み重ねてきた時間の長さを孕んでいて、耳に心地よいものだった。 「イバラといいます。依頼人の、 さんで間違いないですか?」 「ええ、ええ、そうですよ。わざわざ来て頂いて、申し訳ありませんねぇ」 「いえ、これが仕事ですから」 冷たく聞こえないよう努めて言い、静かに枕元へ歩み寄る。 そっと顔を覗き込むと、皺だらけの顔の中にある黒い瞳と目が合った。 「綺麗な瞳だこと」 「吸血鬼なので」 「いえいえ、色の事ではなくて、瞳の事ですよ。そんなに綺麗な瞳をしているのに、初対面とはいえ人の命を奪うというのは難儀でしょうに」 こほり、と小さな咳。 背中をさすろうと手を伸ばしたけれど、大丈夫ですよ、と手で押し留められた。 「ふふ、それでも依頼を反故にする気は無いんですけどねぇ。ごめんなさいね、イバラさん」 「お気遣いありがとうございます。ですが、そのようなお言葉は不要です」 「ありがとう。もうね、寝たきりで息子夫婦に面倒を掛けるのが辛くて辛くて。このまま何かが拗れていくくらいなら、この瞬間に居なくなる方が幸せなものですから」 その言葉が、引っ掛かる。 「・・・幸せ、ですか?」 「え?」 「幸せ、でしたか?」 問うと、ふわりと微笑まれた。 「ええ、ええ。とても幸せな人生でした」 その言葉の中に、どれだけの想いが込められていたのだろう。 推し量る事も、気の利いた返事をする事も出来ずに。 「それなら、良かったです」 そう言って、自身も微笑むことしか出来なかった。 そっと膝を床につき、首筋へ唇を寄せる。 それからもう一度だけ、確認をした。 「苦しくはありません。何か、残す言葉はありませんか?」 「そうですねぇ、連れ合いはもうあちらで待っていますし、息子夫婦には手紙を書きましたし・・・あぁ、そうだ」 くるりと首が回り、顔がこちらを向く。 至近距離にきた黒い瞳は、月光の元、相変わらず優しげに笑んでいた。 「こんな事をお願いして、本当にごめんなさいねぇ。でも、これだけは知っていて欲しいの」 「はい。なんでしょうか?」 「これは私の選んだ事であり、貴方は手段ですから。後悔は、抱え込まないで下さいね?」 だって貴方、お互い了承済みなのに、それでも命を奪った事に懺悔をしてしまいそうなんですもの。 そう小さく呟いてから、女性は再び咳き込む。 何も出来ずにその姿を見詰めながら、ただただ貰った言葉を血肉にしようと咀嚼した。 けれど、意味を理解して躊躇いが生まれる。 どうして、命を奪いにきた人間に、こうも優しくできるのだろうか。 「さ、あまり長引かせてしまうのも申し訳ないですから。こんなお婆ちゃんで申し訳ないけれど、どうぞ、召し上がって下さいな」 つんと顎が上を向き、首筋が露わになった。 どうしようもなく、止めたくなった。 けれど、これは仕事だ。契約だ。止めることは、許されない。 首筋へそっと唇を寄せて、痛みが最小限で済むように、頚動脈へ牙を埋め込んだ。 布団の中の小さな体が、びくりと震える気配がした。 けれどそれ以上は何の反応も無く、ただただ流れてくる血を、命を飲み下す。 全てを終えて、そっと血を拭ってから離れると、最後の力で女性は言った。 ありがとう、と。 「おや、本当に仕事を終えてきたんですね」 「・・・仲介人」 「どうもこんばんは」 帰り道、街灯の下に見知った顔を見つけた。 仲介人。 こうした仕事を何処かから持ってくる、得体の知れない男だ。 そして、今は見たくない顔でもあった。 「用が無いなら、居なくなって下さいませんか?」 「そうして後悔を抱えるくらいなら、受けなければ良かったのに」 「貴方には関係ない」 「そうですね、失礼致しました。では、報酬はいつもの口座に」 その背中が完全に見えなくなるまで、その場に立ち尽くす。 後悔するな、と言われた。 そう、後悔はしていない。懺悔もしていない。 ただただ、悲しいだけだ。 どうしたって、誰かの命を奪わずには生きていられないこの身が。 家に着いて全ての部屋を確認したけれど、彼女は帰っていなかった。 その事実に落胆する自分がいる。 どうしようもなく、恋しかった。 その身を抱き締めて、何も考えずに眠ってしまいたかった。 そう願う自分を、自嘲する。 昼間、弟には偉そうな事を言ったというのに、結局は求めてしまうのだ。 奪い続けて尚、彼女を。 ベランダに出て、空を仰ぐ。 紺碧に浮かぶ月の光は平等に降り注ぐというのに、この瞳からは涙も流れなかった。 |