「そうだったのね」


ピンと伸ばした背筋も、きっちりと纏められた髪も、綺麗に着付けた桔梗色の着物と紫陽花柄の帯も、全てがママと対照的だ。


「何も出来なくて・・・いいえ、何もしようとしなくて。本当にごめんね、まりあ」


齢を重ね、誇りを纏った女性だ。
だから、どうしてこんなに幼い自分へ謝るのか、そもそもこうして構うのは何故か、分からなかった。


「それでも、私は思うの」


分かるのは、どうしようもなく、その瞳の形がママに似ているということ。


「百合は、」


きっとそれが、少しだけ胸を苦しくさせる。





会いたいあなたはない






ガタガタガタガタッ。
ボウルの底面に電動ミキサーがぶつかり、鈍い音をたてた。

けれどそれに動じず、ひたすら泡立て続ける。


ふと気配を感じてリビングの方を見ると、トーテムポールのように彼と狐モドキの顔がこちらを覗き込んでいた。
何も言わずに、ボウルの中へ視線を戻す。


「マリ、大丈夫?」
「大丈夫」
「まりあさん、何か手伝いましょうか?」
「要らない」


こちらを覗いていた二つの顔は、静かに消えた。






「茨さん、あれは何をしてるんですか?」
「お菓子作りだよ」
「どうしてですか・・・絶対に、茨さんに作って貰った方が早いですよね?」
「そうなんだけど、うーん、親離れの時期?」
「茨さん、親でいいんですか?」
「良いか悪いかといえば断然悪いけど、嫌われるよりはマシだと思う」
「それはそうですけど、うーん、二人とも変にずれてるんですよねぇ」






要するに、分量と手順をきちんと守れば良いのだ。
そうすれば、失敗はしない筈である。


五月の連休に磨き上げた流し台は、既に少しだけ汚れていた。
これを綺麗に維持する彼の日々の行いが、どれだけ負担なのかを思い知る。






「ところでいっくん、もうすぐ文化祭なんだよね?」
「そうですよ。今、その準備で校内がバタバタしてます」
「高校生活三年目にして、漸くマリが呼んでくれたの。これってどういう心境の変化かな?」
「うーん、親離れですか?」
「え、でも親離れするなら、それこそ文化祭なんて呼ばなくない?」
「あぁ、確かに」






オーブンの温度を設定して、再び泡だて器で卵白をかき混ぜた。
収納の引き出しを足で開けて、型を探す。

それでうっかり泡だて器を空気中へ浮かせてしまい、見事に卵白が飛び散った。


「わ、」


小さくあげてしまった声。
けれど彼らは、それを聞き逃さなかった。


「マリ?!」
「まりあさん!!」


二人がやって来る気配がする。


「大丈夫だから来ないで」


咄嗟に強く言った言葉で、足音が止まった。
多分、耳でこちらを窺っている筈だ。だから、散らかった卵白を気にせずに、泡立て続ける。

ガタガタガタガタッ。
この音がでるのは、ボウルが小さいからだろうか?


しばらくして、二つの足音が静かにソファへ向かう音がした。

よくよく考えてみると、来客を考えていなかったから一つしかないソファだ。
男二人で、どうやって座っているのだろう。






「凄く心配」
「台所がですか?」
「それは良いの、散らかったものは片付けるだけだから。マリが怪我しないか、心配」
「・・・茨さん、それ、何て言うか知ってます?」
「え?親バカ?」
「・・・違います。過保護、です」
「あ、それ弟にも言われたよ」
「・・・俺の目は間違ってないことが分かって嬉しいです」






全ての生地を混ぜ合わせて、そこへ細かく刻んだ紅茶の茶葉を入れた。
そうして再びよく混ぜて、見つけ出した型へ流し込む。


「よし」


鉄板の上にそれを置き、温めたオーブンへ入れて扉を閉めた。
焼く時間も、レシピ通りに設定する。


橙の光に照らされたその姿を見て、無事焼き上がりそうな予感に安堵を覚えた。
勿論、振り返ったら目に入るであろうキッチンの惨状なんて、そっちのけで。


ヴン、と唸るオーブンをぼんやりと見詰めながら、昨日の午後、伯母様と会った時のことを思い出した。






「伯母様、あまりわたしを買い被らないで下さい」
「え?」


沈んでいた視線が、弾かれたようにこちらを見詰めた。
何度見てもその瞳はママと同じもので、けれど目の前にいるのはママではない。


「わたしが良い子じゃなかったから、ママはずっと泣いていたんです」


笑って欲しかった。
だけど、それが出来なかった。

ぶたれるのは、当たり前。
怒られるのは、当たり前。


「結局、最後にママに笑顔をあげたのは、イバラでした」


わたしが出来なかった事を、彼がした。
だからわたしは、それに報いる為にも、彼の食糧となった。

ママが望んだから。
ママの代わりに、彼が与えてくれたものを返す為に。


「だから、伯母様が謝る必要はありません」


そう言うと、伯母様は悲しそうな顔をした。
あぁ、突き放すような言葉だっただろうか。そう思い、言葉を付け足す。


「それに、伯母様には本当に色々として頂いています。今こうして普通の生活ができるのだって、伯母様のお陰なんです。お礼を伝えて謝るべきなのは、むしろわたしの方です」


そうでしょう、と首を傾げてから、頭を下げた。


「いつも、本当にありがとうございます」


たっぷり三秒間それを維持してから、顔を上げる。
そして目が合った伯母様は、柔らかく苦笑していた。


「・・・本当に、気を遣わせてばかりで悪い伯母ね」
「いえ、そんなことは」
「でもね、まりあ。これだけは知っていて頂戴」


黒い瞳が、ひたとこちらを見据える。
反射で背筋を伸ばし、膝の上へ手を揃えて置いた。


「わたしは、こうして貴方と会って話が出来ることを幸せに思うし、色々と世話を焼けるのを楽しく思うし、もしかすると貴方にとっては煩わしい私の我儘なのかもしれないけれど、」


一旦、言葉が切れる。
言うのを躊躇うような、覚悟をするような、そんな間。


そして、伯母様は微笑んだ。


「私は貴方を大切に想っているのよ」


カラリ、と、アイスカフェラテの氷が崩れた。

静かな喫茶店だ。
濃い色の柱と机、椅子、灯されたランプ。外の世界をぼかす分厚い窓ガラスからの光が、緩く店内を照らしていた。


その空間に、目の前の女性はいとも簡単に溶け込んでいる。
凛としたその姿。

ママは少し猫背で、窺うように世界を見詰めていた。
身を包む服は、わたしが上手く干せなかったから、少し皺が残っていた。

記憶の中のママの姿とは対照的に、毅然と佇む伯母様。
姉妹とは思えないくらい対照的なのに、どうしようもなく、その目元がそっくりだった。


その口が、言う。
わたしのことを、大切に想っている、と。


そんな感情、知らなかった。
だから、どうすれば良いか、分からない。


正しい返事の見当がつかず、思わず瞬きを何度もしてしまった。

あぁ、自分は驚いているんだ。
それは分かるけれど、分かったところで答えがでる訳でもない。


「・・・伯母様、ごめんなさい」
「あら、なにが?」
「わたし、それがどんな気持ちなのか分からないです。だから、どうお答えすれば良いのかも、分からない」


そして口から出た言葉は、考えていることをそっくりそのまま。

それを聞いた伯母様は、驚いた顔をした。
けれど、すぐに柔らかく微笑む。


「そうねぇ」


その指先が、なだらかな曲線が描かれた真っ白いコーヒーカップの取っ手を摘んだ。
ゆっくりと口元へ運び、中身を一口飲んでから、静かにソーサーへ戻す。


再び、目が合った。
その瞳にこちらを責める色が無いことを確認して、安堵する。

安堵してから、それを恐れていた自分に気付いた。


「まりあは、百合に泣いて欲しくない、と思っていたのよね?」
「・・・はい。笑って、欲しかったです」


幸せというのは、きっと笑っている時に在るものだから。
笑っていて欲しかった。


心の中で確認をして、深く頷く。
すると伯母様は、そっと手をこちらへ伸ばし、指先で頬を撫でて言った。


「きっとそれが、大切に想う、という事だわ」


大切じゃなければ、相手の笑顔なんて望まないもの。


付け足すように言いながら、伯母様は指を自身の膝の上へ戻す。
その少し荒れた指先に、何故だろう、懐かしさを憶えた。






「・・・茨さん、大変です」
「ん?」
「このシフォンケーキ、普通です。普通に美味しいです」
「そうだね、美味しいね」


台所の掃除をしている間に焼きあがったシフォンケーキへ、生クリームを添えて二人にだした。
その感想が、それだ。

普通というのは、多分褒め言葉なのだろう。
狐モドキは、いつだってわたしの作った食べ物を、破滅的、おかしい、どうしてこうなるんだ、と評価するから。


「まりあさん、これはどうやって作ったんですか?」
「レシピ通りに作ったよ」
「って事は、まりあさんきちんと作ればちゃんとできるって事ですね」


そう言って、狐モドキは笑みを浮かべる。
どうしてだろう、褒められた気がしなかった。


「うん、本当に美味しいよ、マリ」


彼も、目元に皺を寄せて微笑む。


「・・・ありがとう」


それだけ言って、彼の淹れてくれた紅茶を飲んだ。
流石にこれほど美味しく淹れることはできないから、それだけは頼んだのだ。

呷ったカップ。ふわりと広がる香りの向こうに、シフォンケーキを食べながら話をする彼らの姿を見遣った。
その両方が、楽しそうに話をしながら笑んでいる。


あぁ、良かった。
笑ってくれた。


その事実に胸を撫で下ろして、自分もケーキを口へ運んだ。
味は、自分好み。そして見た目も、きちんとしている。


「ね、マリ、美味しいでしょ?」
「まりあさんの料理レベル、上がりましたね」


二人に言われ、こくりと頷いた。


「ありがとう、マリ」


三人で囲むダイニングテーブルに、だいぶ見慣れた休日だった。






「それでも、私は思うの」


伯母様の言葉を思い出す。
幾度考えても、導き出される答えは否定だけ。


「百合は、」


ママが愛したのは、ママの王子様。

わたしはママに笑顔をあげられなかったから。
良い子じゃないわたしに、愛される資格なんて無い。


だから伯母様、きっとあなたは間違っている。


「貴方のことを愛していたわ」


そうだったら、良かったのに。
もう、ママには会えない。





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