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生憎の曇り空。 それを見詰めながら、電話から聞こえる言葉を確認して、問いかける。 「それは、本当にその人が必要としているからされた依頼なんですね?」 「ええ、それは勿論」 「・・・分かりました。受けます」 「おや、珍しいですね。貴方がこの手の依頼を受けるなんて」 どのような心境の変化があったのかは、詮索しないですが。 そう言った男は、淡々とその内容を告げた。 そして全てを確認し終え、受話器を置いた。 お茶にしようか 試験直前の土曜日。 今日も彼女は、図書館で勉強だ。 いつもは部屋にひたすら篭もり、お腹が空いてはふらふらとリビングへやって来てお茶とお菓子を平らげる、の繰り返しだから、わざわざ図書館へ行くというのは珍しい事だった。 「うーん、親離れってやつかな?」 呟いた言葉がリビングに響き、もの悲しくなる。 窓へ近付いて空を見ると、昼間は薄かった雲の層がだいぶ厚くなり、灰色の濃さも増していた。 今にも降り出しそうな天気。 「マリ、傘持っていってたっけなぁ」 とはいえ、連絡が無ければ迎えにも行けない。 仕方ないから、とりあえずおやつを作る事にした。 彼女がお腹を空かせて帰ってきた時、いつでも食べて貰えるように。 トゥルルルル、トゥルルルル、 その時、狙ったようなタイミングで、最近大活躍中の電話が鳴った。 ぱたぱたとそこまで駆けて行き、受話器をとる。 「はい、もしもし」 「兄さん?」 「あれ、サク。どうしたの?」 彼女かと思ったけれど、残念ながら相手は弟だ。 いやいや、残念と言ったら失礼なので、脳内でそれは撤回した。 そんなこちらの思考など知らない弟は、受話器の向こう側で言葉を続ける。 「兄さん、どうしたんだ?」 「ん、何が?」 「あいつに聞いた。兄さんが、いつもは受けない依頼を受けたって」 「・・・うーん、あの人は顧客情報の守秘義務というものを知った方がいい気がするね」 「そんなことはどうでもいいっ」 語尾が荒くなった。 冷静に見えてその実、弟は激情家だ。 恩に厚く、関われば世話を焼き、少しでも好意を持てば最後、頑なに責任を全うしようとする。 あの男に話を聞き、心配をして電話を掛けてくれたのだろう。 その優しさは嬉しく代え難いものだけれど。 「どうしてだ?彼女がいるのに、わざわざそんな風にしなくてもいいじゃないか」 「うーん、まぁ、色々と理由はあるんだけどね」 何を言われたところで、決めたことを覆すつもりはない。 「説明をすると長くなるから、また今度」 「兄さんっ」 「サク、ありがとう。でも、僕は大丈夫だよ」 確認をするように言った。 こうすれば、兄の頑固さを知っている弟は、それ以上の詮索をしてこないに違いない。 「・・・分かった。すまない、余計なことを」 案の定、弟はすぐに引き下がった。 謝らないでね、電話をありがとう、と優しく伝えてから、静かに電話を切る。 そして、天井を仰いだ。 「本当、駄目なお兄ちゃんだねぇ」 返事は勿論、無い。 そして息を一つ吐き出して気を取り直すと、台所へ向かった。 今日は、苺のパイを作ろう。 案の定、夕方近くなって雨が降り始めた。 重力に逆らわず地面へと落ちる雫は、ざぁざぁと跳ねる音を世界へ響かせる。 それを聞きながら、ぼんやりと彼女の身を案じた。 相変わらず、連絡は無い。 だから自分は、待つしかない。 電子レンジの中には、焼きあがってしまったストロベリーパイ。 勿論ポットにはお湯が常備、お風呂も溜めてあった。 準備は万端。 けれど、待ち人は帰らず。 何度目かの溜め息を吐き、ふと時計を見遣った。 二つの針が指し示すのは、十六時半だ。 止みそうに無い雨。 やはり、図書館近くまで傘を持って迎えに行こうか。 そう思って立ち上がった。 けれど、その次の瞬間、玄関の開く音がする。 「あれ、帰ってきた?」 慌ててリビングを横切り、廊下へ続く扉を開けた。 そして、目に飛び込んできた光景に驚いて息を呑む。 「イバラ」 「お、かえりなさい、マリ。えぇと?」 「一緒に勉強してたの。傘が無くて濡れたから、とりあえずうちに来て貰った」 濡鼠、というのはきっとこの状態を指し示すに違いない、というくらいびしょ濡れの彼女が見遣ったのは、彼女の斜め後ろに立つ少年。 同じく濡れた姿の少年は、礼儀正しく初めましてと言って名乗ったけれど、勿論そんなもの、耳に入ってくる筈がなかった。 「あ、うん、えぇと」 動揺して、頭が働かなくなる。 彼女が誰かと一緒に勉強をしていた事に驚き、その誰かを家へ連れて来るくらいに打ち解けている事に驚き、それが男だったという事実に衝撃を受けた。 とはいえ、いつまでもそのままで居させる訳にはいかない。 冷静さを取り戻そうと努力した結果、口からでたのは無難な言葉だ。 「こんにちは、イバラといいます。えぇとそれじゃあ、とりあえずマリはタオル持ってくるから待っててね、君は風邪ひかないようお風呂にいこう」 「いや、でも」 「どのみち濡れたまま家に入られても困るから、うん、お風呂はすぐだから大丈夫だけどね、はいこっち」 「いっくん、彼の言う事聞いて」 渋る少年へ彼女が言い、漸く靴を脱いで貰うところまで漕ぎ着ける。 そして廊下へ足を踏み出したのを確認して、すぐそこにある洗面所への扉を開けた。 中へ入り、少年が入って来てから今度は風呂場へと入る。 「こっちがお湯でこっちがお水、温度は給湯器で調整してね。シャワーと蛇口の切り替えはここ。お風呂も溜まってるから、入って温まってね?」 「はい。すみません、頂きます」 「で、タオルが・・・」 洗面所へ戻り、引き出しからバスタオルを取り出した。 それを籐の籠へ投げ入れて、風呂場から覗いてきた少年に、これ、と指で指し示す。 ついでにもう一つタオルを取り出して手に持ってから、にこりと笑って首を傾げてみた。 「僕の服を後で置いておくから、とりあえずそれを着てね」 「分かりました。ありがとうございます」 「じゃあ、ごゆっくり」 頭を下げられたから、ひらひらと手を振ってやる。 そしてそのまま後ろ足で下がり、ぱたり、と扉を閉めた。 一仕事を終えた開放感から、溜め息を一つ。 けれどすぐに横からくしゃみが聞こえて、危うく飛び跳ねてしまう所だった。 「わ、マリごめんね、タオル持ってきたよっ」 次は彼女だ。 慌てて駆け寄り、バスタオルで包みつつ鞄を預かる。 されるがままの彼女は、バスタオルの端を持ち、それで顔を拭いた。 それが終わるのを待ってから、全身の水を拭うようにタオルで軽く叩いてやる。 漸く水が滴ってこなくなった所で、今度はその体を抱き上げてリビングのソファへと運んだ。 彼女は嫌がる素振りも無く、再び全身を包んだバスタオルの端っこで顔を拭いている。 「大丈夫?寒い?」 「・・・少し」 「じゃあココアを入れるから、ちょっと待ってね」 そっと降ろして額に張り付く前髪を除けてやってから、ぱたぱたと台所へ駆け込んだ。 彼女が最近お気に入りの水玉模様のマグカップを取り出し、インスタントのココアの粉を入れる。 ポットでお湯を注ぎ、牛乳も注ぎ、電子レンジで数十秒温めてから、慌ててソファまで運んだ。 「あ、しまったスプーン!」 掻き混ぜていない事に気付いて、もう一度台所へ戻り小さなスプーンを掴むと、再び彼女の元へ戻る。 そして、彼女の前にしゃがみ、小さな両手に支えられたマグカップへそれを沈め、カチャカチャとかき混ぜた。 「よし、できた。マリどうぞ?」 そう言って見上げたら、漆黒の瞳と視線がぶつかる。 それは不思議なものを見る目でこちらを見詰めていたから、何か顔についているのかと思い、反射で左手を額に宛ててみた。 「顔、何かついてる?」 彼女はぶんぶんと横に首を振る。 では、何だろう? 皆目見当がつかないから、彼女が口を開くのを待つしかなかった。 マグカップが寒さで色を失った唇へ近付き、ココアが飲み下される。 温かさで緩んだその頬を見て、つられて自分の口元も緩んでしまった。 「美味しい?」 「うん。マシュマロが、甘い」 小さく呟いて、もう一口。 それから息を大きく吐いた彼女は、改めてこちらの顔をまじまじと見てきた。 「どうしたの?」 「イバラ、よく分からないけど焦って動揺してたから。珍しいなって」 「う、そりゃあ、うん、マリがびしょ濡れで帰ってくれば、焦るし動揺するよ?」 「そう?」 「うん、そう」 本当は、彼女が連れてきた少年に焦って動揺している訳だけれど。 そんな事、言える筈が無い。 「ごめんね、また困らせて」 こちらの思考を知らない彼女は、そう言って長い睫を伏せた。 彼女の言う「また」というのは、先日学校で倒れた時の事を指すのだろう。 あの時、混乱して熱に浮かされて母親に謝り続けていた事を、彼女には伝えていない。 忘れているのなら、そのままの方が良い、と思ったのだ。 それどころか、倒れて熱を出したあの一件は、どうしてだろう、お互い口にしていなかった。 だから、今このタイミングでそれを引っ張り出してきた彼女に、ほんの少しだけ驚く。 けれど、それを顔に出さないでいられるくらいの事はできた。 悲しいけれど、生きている年月は無駄に長いのだ。 「大丈夫だよ。それよりも、風邪をひかないでね?」 「・・・うん」 未だ温かさの戻らないその頬へ、手を伸ばす。 けれど、触れる前に、引いた。 彼女の掌に包まれたココアから昇る湯気が、二人の間を静かに線引いている。 息を吹き掛ければ簡単に消えてしまうそれは、だからこそ明確に、触れ合わない距離を浮き立たせた。 それを直視し続けられず、静かに立ち上がって廊下へと続く扉を見遣る。 「さて、彼に着て貰う洋服を置いてくるね」 そう告げて、そっと自室へ向かった。 少年がリビングへやって来たので、今度は彼女を洗面所へ押し込んだ。 よく体を温めること、あの少年にはちゃんとお茶を出しておくことを告げてから、扉を閉める。 そしてリビングへ戻ると、少年はタオルで髪を拭きながら、窓辺に立って外を眺めていた。 けれどすぐにこちらへ気付き、振り返る。 「まりあさんより先にお風呂を頂いてしまって、申し訳ありません」 「ううん、お客様だからそれが当たり前だよ」 言いながら、無意識の内に少年の事を観察していた。 幼いけれど、整った顔だ。濡れた黒髪がぺたりと貼り付いているけれど、日に透けたらきっと綺麗だろうな、と想像ができた。 何かスポーツをやっているのだろう、細いながらも筋肉のついた腕、足。 猫のような目を細め、思考の読めない笑顔を浮かべている。 多分、彼女よりも年下。 けれど、人間関係の築き方が上手なのだろう。でなければ、人との距離のとり方がひどく不器用な彼女と友達にはなれない。 そして弾き出された結論は、もう、自分は必要とされなくなる時期なのかもしれない、という残酷な現実だった。 何も言えずに黙っていたら、少年が口を開いた。 「そんなに威嚇しないで下さい。俺には、前にいた場所に置いてきた、大事な子が居るんですから」 そう言って、にこりと笑った。 その言葉に、自分の顔が余裕を失っていたことに気付く。 間違いなく、目の前に居る少年に抱いた感情は、嫉妬だ。 彼女と対等で在れること。 彼女と共に歩き、時を刻んでいけること。 彼女により近い場所で、言葉を交わし、感情を共有し、お互いに義務を負うこともなく、ただ「一緒に居たい」という気持ち一つで隣に居ることを選べること。 全て自分の手には無いもので、羨ましく、歯痒く、悔しかった。 「茨さん、で良いですか?俺はまりあさんに恋愛感情を抱いていませんし、今後もそれは無いです。大事な幼馴染が居るので」 大人のそれへと変わりきっていない幼い声で吐く言葉は、予想以上に大人びている。 「多分、まりあさんも無意識にそれを悟っているから、こうして相手をしてくれているんだと思います。でなければ、俺なんて簡単に弾かれてお終いですよ」 その言葉は、明らかにこちらの感情を慮ったものだった。 言い切って、少年は小さく首を傾げながら、そうでしょう?と言う。 数えるのも億劫なほど年下の人間に、いとも簡単に自制を失った自分に苦笑した。 それから、それに気遣える少年への評価を改め、椅子をすすめる。 「お茶を淹れるから、少し待っていて貰えるかな?甘いものは大丈夫?」 尋ねると、少年はにこりと笑んで大きく頷いた。 その様子に完全に毒気を抜かれ、ゆっくりとした足取りで台所へ向かいながら、どの茶葉を使うかを考えたのだった。 かたり、と椅子が引かれる音がして、少年が座った気配を察する。 とりあえずレンジからストロベリーパイを出して、ダイニングテーブルへ運んだ。 「マリが来たら、切り分けて食べるね」 そう告げて、再度キッチンへ戻る。 茶葉は、散々悩んでアッサムにした。 あの少年の嗜好が分からない以上、なるべく癖の無いものの方が良い。 いつも通りの手順で準備をして、カップとポットをテーブルへ運んだ。 そして、すすめた椅子へ座ってきょろきょろと辺りを見渡していた少年の前へ、カップを置いて紅茶を注ぐ。 「さっきは、大人気なくてごめんね」 「いえ、平気です」 くすりと笑い、彼は言った。 「茨さんがまりあさんを大切に想っているのは、保健室でお見掛けした時にすぐ分かりましたから。突然降って湧いた素性の知れない人間に良い顔できないのは当たり前です」 「うーん、達観してるねぇ・・・あ、あの時荷物を持ってきてくれたのは君だったんだ」 「そうですそうです。まりあさんの事を凄く優しく見守ってたのに、こっちを向いた時は思い切り威嚇する目だったから、もういっそ清々しかったです」 「わぁ、本当に申し訳ない・・・」 「平気ですってば」 そして紅茶を飲んだ少年は、あ、美味しい、と満面の笑みを浮かべた。 その後、お風呂から出た彼女と三人でパイを食べ、紅茶を飲んだ。 彼女と僕の関係を聞かれ、予め用意してあった「従兄妹」という回答をした。 少年もその以上の事を問いただすのはよくないと判断したのだろう、そうですか、とだけ言って他の話題へ移る。 彼女と少年の出会った時のこと、彼女の作る凄まじいお弁当のこと、少年の家族や幼馴染のこと、学生食堂のこと、試験勉強のこと・・・ その内容は、彼女が普段、決して話さないものばかりで。 自分の知らない彼女の姿を知ることができ、嬉しくもあり、悔しくもあった。 口数の少ない彼女も、僅かながらその表情を変化させて会話へ参加している。 それを見ながら、同世代の友達ができて良かったね、と、半分だけ思った。 お茶を始めて一時間半。 少年は、母親が夕飯を作って家で待っているから、と言って帰り支度を始めた。 傘と、服もそのまま貸し、濡れた少年の服は袋に入れて持って帰れるように準備する。 駅まで送ると言ったけれど、笑顔で断られた。 曰く、方向感覚は良いから大丈夫、とのこと。 それを言われてまで送るというのは逆に失礼な気がして、その言葉に従った。 少年は、去り際に彼女へ聞こえないように言ってきた。 「茨さん、本当にまりあさんの事が大切なんですね」 「勿論」 「色んな意味で、ごちそうさまでした」 そう言って深々と頭を下げられたから、自分も慌てて下げる。 その様子を見て、彼女は怪訝な顔をしていた。 そして、少年は帰っていった。 洗い物を片付けてからリビングに戻ると、彼女はソファの上で教科書を眺めていた。 そちらへと近付きながら、問う。 「マリ、夕飯はどうする?食べられそう?」 漆黒の瞳が、こちらを向いた。 そして、一度天井を泳いでから、戻ってくる。 「食べられる」 「何が良い?」 「・・・うどん」 雨が降って、気温が下がったから温かいものが食べたい、という事だろう。 分かった、と返事をして、キッチンへ戻ろうとした。 けれど、彼女の声が呼び止めた。 「イバラ」 「ん、なぁに?」 ソファの前へ回り込んで、目線を合わせる為にしゃがむ。 すると彼女も、ソファの上で正座をした。 「もう、風邪、ひいて迷惑かけたりしないから」 「え?」 突然のその言葉が、何処からやって来たのかを考える。 十秒近く考えてから、彼女がお風呂へ入る前に、風邪をひかないでね、と言った自分を思い出した。 そして、伝え方を間違えたのかもしれない、と思い当たる。 迷惑を掛けられたくないから、風邪をひくな。彼女はそう捉えたのかもしれない。 純粋に心配で熱で苦しんで欲しくないから、言っただけだというのに。 悲しくなって、微笑んだ。 「マリ」 「・・・なぁに」 「この前の事、迷惑だなんて思ってないんだよ。僕が血を貰ったせいで、マリの体調を悪くさせてしまってごめんね」 そう告げると、彼女は驚いた顔をした。 けれど、それを気にせずに先を続ける。 「風邪をひかないでねってお願いしたのは、あの時マリが本当に苦しそうだったから、またそうなって欲しくないなってだけだよ。だから、これから先、風邪をひいたからって自分を責めないでね?」 視線を逸らさずに言い切り、くしゃりとその黒髪を撫でた。 言葉を反芻し噛み砕いているのだろう、彼女からの反応は無い。 辛抱強く待ち続けて、ようやく一度だけ、頷いた。 それを確認して、立ち上がる。 「よし、それじゃあすぐにおうどん作るから、待っててね」 今度こそ、キッチンへと向かった。 うどんを茹でながら、少年のことを思い出す。 整った顔で、やけに大人びていた。気遣いをさせてしまい、本当に申し訳なく思う。 「マリとあれだけ仲良くなれるってことは、よっぽどお節介なんだろうなぁ」 呟いて、つい苦笑してしまった。 話をしながら、彼女に同世代の友達ができて良かった、と、本当に思った。半分だけ。 もう半分は。 独り占めできなくなってしまった、という、愚かな悲しさだ。 タイマーが鳴り、コンロの火を消す。 こんな風に、心を渦巻く嫉妬を、独占欲を、消すことができればどんなに良いか、と思った。 |