「まりあさんて、勉強得意でしたよね?」


倒れてしまった時に介抱してくれたお礼。
という訳で彼に持たされたスコーンを、養護教諭、保健室まで運んでくれた体育の先生に渡した。


そして最後が、昼休み。


「体育よりは得意だよ」
「噂では、学年トップと聞きました」
「全部の教科が平均的に点数とれるだけ」
「それを得意と言わずに何を得意と言うんですか」


やれやれという風情で言うのは、狐モドキだ。

本日も、快晴。
桜の葉の影が緻密な模様を地面に落とし、気持ちよさそうに揺れていた。


「それじゃあ、中間試験の勉強を見て下さい」


企み顔で言う狐モドキの顔は、いつも通りの完璧な笑顔。


彼からのお礼だけで済ますのも癪だから、という理由で申し出た、わたしからのお礼。
突きつけられた内容は想像以上に容易なもので、正直、肩透かしを喰らった。


「そんなのでいいの?」





また週も、この場所で






家から自転車で十五分行った場所にある、中央図書館。
駅からもそれなりに距離がある割に、一〜五階まであるフロア全域に夥しい本棚と本が収納されており、その蔵書数の多さから休日は多くの人が訪れているらしい。


指定されたのは、その見慣れた茶色いタイルの建物の入り口だ。
自転車を駐輪場に置いてからそちらへ向かうと、狐モドキは既に居た。


イヤホンを耳に突っ込み、壁に寄りかかって手の中にある本へ視線を落とすその姿は、どうしてだろう、冒し難い何かを感じさせた。

風が吹いて、日に透けた髪が揺れる。
きっと睫毛の影が頬に落ちているに違いない。そう思わせるくらい、整った顔だ。


「いっくん」


名前を呼ぶと、ゆっくりと顔が上がった。
イヤホンを外しながら、目元と口の端が笑みを刻む。


「おはようございます、まりあさん」
「おはよ。待たせた?」
「いえ、大丈夫ですよ」


ぱたりと本を閉じ、こちらに歩み寄ってきた。
その姿は同じクラスの男子生徒より、余程大人びている。

濃紺のカラーパンツにシャツとパーカーを着ているだけなのに、それなりに見えてしまうのは詐欺だ。

そしてその茶色の強い瞳は、近付いたなり顔を覗き込んできた。


「なぁに?」
「まりあさん、すっぴん?」
「うん。特に何もしてないよ」
「肌、凄い綺麗ですね」


静かに離れて、館内へ促すよう歩き始める。
その仕草は慣れたものだ。


「でも、そろそろ日焼け対策と基礎化粧はしておいた方が良いですよ?」
「基礎化粧・・・」
「保湿です。洗顔の後に化粧水と、乳液を毎日」
「・・・めんどう」
「年をとった時に泣くのはまりあさんですよ?」


くすくす笑いながら言う彼の声音は、幾許かの郷愁を含んでいた。


「どうしてそんな事、詳しいの?」
「前に住んでいた場所に、女の子の幼馴染が二人居るんです。その片方が、お洒落とか美容とかに凝っていて、色々聞かされていて」
「ふぅん」
「もう片方は、全然そんなのに頓着していないんですけどね」


瞳が、優しげに細まる。
その眩しそうな表情は、何かを希う、それ。

だから、思わず聞いてみた。


「恋人さん?」


すると彼は、びっくりした顔でこちらを見てくる。
今日も、一本とった。


「な、なんでですか?」
「だって、そういう顔をしてたよ」


その瞳が、更に大きく見開かれた。


「いっくん?」
「・・・まりあさん、少し変わりましたね」
「え?」


今度は探るように上を泳いでから、再びその視線がこちらを向く。
既に驚いた顔は引っ込められていて、いつもの笑顔だ。


「だって、そんな風に人の表情で何を考えているかを察するなんて、してなかったでしょ?」
「・・・失礼な」
「だって初めて会った頃は、他人に興味が無い人なのかなぁって感じでしたもん。俺がそう思うのも無理ないです」


あ、席がありましたよ。
そう言って空席を二つ指差した狐モドキは、ほんの少しだけ歩くスピードを上げて其処まで行き、机に鞄を置いた。

二つ並んだ木製の椅子。
自分もその片方へ鞄を置き、勉強道具を出す。

筆箱、ノート、教科書。
それらをゆっくりと机の上に置きながら、もう一度聞いた。


「それで、恋人さんなの?」


隣で同じ作業をしていた狐モドキは、苦笑する。
そして、最後にペットボトルの飲み物を置いた時に言った。


「引越しの日に告白をして、夏休みに帰ってきた時に返事をくれって言って、此処へ来ちゃいました」


そのシチュエーションを想像するのに要した時間は、一分。
そして思ったのは、


「・・・いっくん、生殺し状態だね」


ということ。
本当ですよ、と言いながら椅子に座った狐モドキは、そのまま机に突っ伏す。


「だって、しょうがないじゃないですか。今までただの幼馴染だったのに、いきなり好きだとか言われたらアイツ混乱しちゃうし。でも俺が居ない間に他の男にとられるのも嫌だし」
「連絡、とってないの?」
「その、美容マニアの片方とはたまに」
「・・・やっぱり生殺しだね」
「・・・はい」


それ以上は何もつっこまない事にして、ノートを開いた。
やりかけの宿題と試験範囲が被っているから、とりあえずそこからこなしてしまう事にする。


木製の机と椅子が置いてあるその場所は、並び置かれた本棚達の一番端にぽつりと置かれていた。
大きくとられた窓から入る昼間の日差しで手元は十分明るく、図書館独特の静かで重い空気が背筋をしゃんとさせる。


「じゃあ、分からない事があったら一応聞いてね」
「一応って、随分弱気ですね」
「だって、分からない事の方が多いもの」
「大丈夫です、俺一年生です」


誰かと勉強をするのは、あまり得意ではない。
けれど、狐モドキは必要最低限の干渉しかしてこないから予感があったから、嫌いじゃない。


小さく息を吐いてから、カリカリと音をたてて、真っ白な紙へ英単語を写し始めた。
隣からも、同じ音が聞こえてくる。


がさり、と何処かで、新聞をめくる音がした。






図書館を出たのは、空が茜色に染まり始める頃だった。
正面玄関を出た所で、思い切り伸びをする。それでも肩の凝りは拭いきれなかった。


「疲れましたね」
「うん」


隣を歩く狐モドキも、こきこきと音を鳴らしながら首を回している。
結局この日分かったのは、この隣を歩く男が幼馴染に片思い中で生殺し中である事と、もう一つ。


「いっくん、わたしなんかが居なくても、勉強できるでしょ」


教える必要がないレベルで、賢いこと。
たまに使うべき公式だとか、解答が合っているかを聞かれる事はあったけれど、それはあくまでも確認であって、分からないから教えて欲しい、ではなかった。


「はい、実はそれなりに」
「・・・じゃあもう誘わないでね」
「え、嫌です」


必要無いのに、居る意味があるのだろうか。
訝しんで隣を見上げると、歩きながら狐モドキは当然のように言った。


「だって、一人だとさぼっちゃいます」


まりあさん、予想通り真面目に勉強し続けていたので、俺もやらなくちゃって気になれましたよ。
付け足しでそう言い、彼は腕を伸ばして進行方向を指差した。


「さて、俺は駅まで行かないといけないので、こっちに行きますね。まりあさんは自転車でしたっけ?」
「うん。方向も違うけど・・・駅まで行ける?」
「はい、大丈夫です。幼馴染が迷子になってはそれを探し回っていたタイプです」
「そう。じゃあ、気をつけて帰ってね」
「まりあさんも、転ばないように気をつけて」
「転ばないよ」


伸ばした腕を引き寄せて、今度はこちらへ手を振ってくる。


「それじゃあ、また明日。まりあさん、来週も勉強見て下さいね」


茜空を背景に、狐モドキはそう言って首を傾げた。
どうやらこちらに拒否権は無いらしい。


「・・・うん。じゃあ、またね」


それだけ言って、踵を返す。
そして、建物の側面にある駐輪場の方へ歩き始めた。


靴が踏みしめるアスファルトを見詰めたまま前へ進んだけれど、建物に沿って曲がる瞬間、ふと振り返る。
其処には相変わらず、笑顔を浮かべた狐モドキがポケットに手を突っ込んでこちらを見送っていた。


茜と青の混じる空。
ほんの少しだけ顎が上向く癖のあるその少年へ、小さく二回だけ手を振る。


そして、駐輪場へ再び向かった。






「おかえりなさい」


そう言ってふわりと微笑んだ彼は、わたしの腕から鞄を奪い、リビングへ先導する。


「今日はとても温かかったから、夏を先取りして冷やし中華を作ってみたよ」


ダイニングテーブルの上には、既に夕飯が並んでいた。
胡麻垂れの冷やし中華に、煮物、温かい緑茶。


「さ、早く座って?」
「うん」


手にした鞄をソファへ置き、戻ってきた彼は椅子を引いた。
されるがままにそこへ腰掛け、太腿の上に礼儀正しく両手を置く。

その様子をくすくす笑い、彼は頭を優しく撫でてから耳元に口を寄せてきた。


「お勉強お疲れ様でした」


あぁ、頬へ口付けられる。
そう思って反射で構えたけれど、とても近くにあった彼の唇は、降ってこないまま離れていった。


あれ、と思う。
けれど次に、自意識の過剰さに嫌悪を感じる。


「さ、食べようか」


そんなこちらの考えをお見通しなのか、気付かずにいるのか、彼は対面にある席へ座った。
そして、そっと掌を合わせて言う。


「いただきます」
「・・いただきます」


遅れて言い、箸を手にとった。






相変わらず彼の作るご飯は美味しくて、綺麗に全てを平らげた。
そしてソファに座って休憩していたけれど、以前はやって来て抱き締めてくる彼が、今日は来ない。


そういえば、ここ最近は。倒れてからは、ずっとそうだったかもしれない。
けれど、そうする理由が思い当たらずに、眉を顰めてしまった。


昼間は温かな日差しの降り注ぐソファの上で、膝を抱えて丸くなる。
流石に夜風は冷えるから、窓は閉められていた。





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