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白いカーテン、消毒液の匂い、受話器に向かって話す高い声。 やめて、やめて。 何もしないで、わたしは一人で大丈夫だから。 「お子さんが熱を出して倒れたんですよ?」 煩わせないで、ママのこと。 せっかく今日は、空が綺麗で少し優しかったのに。 ごめんなさい 彼が食事をした翌朝。 目が覚める場所は勿論彼の部屋のベッドで、隣で眠っていた筈の主は既に不在だ。 「何時・・・?」 時計を確認する為に、体を両手で支えて起き上がる。 くらりと頭の中が揺れた気がしたけれど、首を振って誤魔化した。 サイドテーブルに手を伸ばし、時計を確認する。 そろそろ起きないと、遅刻をする時間だ。 右手でぐしゃりと髪を掻き混ぜ、フローリングの床へ裸足の指先をつける。 その冷たい感触に眉を顰めてそちらを見下ろしたら、きちんと釦の留まったシャツが目に入った。 あの細い指が、律儀に留めたのだろう。 それがなんとなく癪で、上から幾つかを外した。そのままぼんやりと、胸元を見下ろす。 そこにはぽつりと開いた、二つの小さな穴。 不思議と痛みは無いけれど、消えるまでには数日かかってしまう。だから彼はいつも、首筋ではなく心臓の近くから血を喰らった。 指先でそっと撫でてみたけれど、血が滲んでくることはない。 その時、まるで見計らったかのようなタイミングで、こんこん、とノックの音がした。 返事を待たずにゆっくりと扉が開かれて、部屋の主である筈の彼が窺うように入ってくる。 その紫の瞳が起きているわたしを認識して微笑もうとしたけれど、胸元に開いたその穴に気付いた瞬間、くしゃりと顔を歪めた。 そして、歪めたまま、今度こそ微笑む。 「おはよう、マリ」 「・・・おはよう」 返事をすると、彼はそっと近付いてきて、枕元に膝をつきこちらを見上げてきた。 そのまま、牙の痕へ唇が触れる。 「イバラ、」 「朝ごはんの支度ができたよ。顔を洗って、早く来て?」 呼ばれた名前は知らない振りをして、彼はその長い指で器用に釦を上まで留めた。 そして、できた、と小さく微笑み、部屋を出て行く。 彼がどうしてあんなにも悲しそうなのかが分からなくて、静かに閉まった木製の扉を意味も無くと眺めた。 けれど、ずっとそうしている訳にもいかないから、今度こそ冷たい床の上に立ち上がる。 深緑のカーテンを左右へ開き、窓も少しだけ開けた。 陽の光の差し込み、篭っていた空気が動く。朝だ。 ぺたり、と足の裏を鳴らしながら歩き、扉を開けた。 左を見遣るとカーテンは既に大きく開かれており、電気を点けなくとも十分室内は明るい。 右を見遣ると、ダイニングテーブルの上には食器が並んでいた。 キッチンからはまだカチャカチャと音がしているから、何かもう一品出てくるのかもしれない。 テーブルに近付くと、お皿の上にはいつも通りホットケーキが数枚重ねられていて、サラダの入った小鉢も綺麗に並べてあった。 「さ、早く食べちゃおう?マリ、学校へ行く前にお風呂も入らないといけないでしょう」 横から言われて振り向くと、トレイの上にティーポットとさくらんぼを何粒か入れた小皿を載せた彼が立っている。 その顔はもう常のものだったから、先程の事については触れないことにした。 「うん」 短く返事をして、椅子へ座る。 置いてあったティーカップへ紅茶が注がれて、湯気と香りが立ち上った。 煙る視界が、揺れる。 「え・・・」 世界が、揺れる。 がた、と大きな音をたててテーブルに手をついてしまった。 倒れそうになる体を支えて立ち上がると、椅子から滑り落ちるようにして床へ崩れる。 「マリ?!」 慌てた声と共にティーポットを置く音がして、すぐに彼も床へ降りてきた。 倒れそうな体を細い腕が支えてくるから、思わずそれに縋る。 ぐらぐらと揺れているのは、世界ではなく自分自身だ。 頭の中がぐるぐると渦巻いている。 「・・・眩暈だから、大丈夫」 深い呼吸を繰り返し、ただひたすら元に戻るのを待った。 漸く回復した頃には、ご飯かお風呂、どちらかを選ばないといけない時間だった。 彼は学校を休むよう勧めてきたけれど、今日はどうしても受けないといけない小テストがあるから、仕方ない。 勿体無いと思いつつホットケーキを半分と紅茶を流し込むようにして食べ、慌ててシャワーを浴びた。 髪はドライヤーで水が滴らないくらいまで乾かし一つに束ねてしまい、制服を着る。 中身を確認せずに掴んだ鞄を持って、玄関へ。 これほどまでに、教室にあるロッカーに感謝した事は無い。勉強に必要な物は、全てあの中だ。 「マリ、お弁当とおやつっ」 慌てて追いかけてきた彼からお弁当の入った桃色の手提げを受け取ると、いってきます、と小さく言って外へ出た。 地面より空に近い共用廊下は、強い風が吹き抜ける。 スカートを片手で抑えながら歩き始めると、先程の眩暈の残滓が頭を過ぎった。 けれど、首を横へ何度か振り、追い遣る。 そしてエレベーターへ乗り込む頃には、無理矢理働かせたその頭で、学校へ辿り着くまでの最短ルートを弾き出したのだった。 我ながら、危機的状況への冷静な対応ができていると思う。 「あれ、まりあさん顔色悪くないですか?」 斜め後ろから飛んできた声に、危うくお弁当箱を落としそうになった。 振り向く前に視界へ現れた狐モドキは、遠慮なく顔を覗き込んでくる。 日に透けた髪が、茶色く輝いた。 それがふわりと風に揺れたから、思わず指先で触る。 想像以上に、硬い髪。 勿論目の前の顔は驚いていて、今日も一本とった、と満足した。 「おはよう、いっくん」 「あ、はい、おはようございます」 指を離し、食事を再開する。 今日のメニューは肉と野菜がメインで、炭水化物もグリンピースご飯だった。 狐モドキはすとんと隣へ座り、再びこちらを覗き込んでくる。 ベンチの近くにある葉桜は、既に青々と茂り夏の準備をしていた。その影が地面に描く模様を追い掛けて、隣からの視線を無視する。 風が吹いて、影も揺れた。 「まりあさん」 「なぁに」 「本当に大丈夫ですか?」 「何が」 「顔、真っ白ですよ?」 そう?と首を傾げ、最後の人参を口へ放り込んだ。 噛締めると甘さが滲んで、崩れる。 空になったお弁当箱を片付けて手提げの中へ入れると、膝の上に置いた。 それが、かたかた揺れている。 風かと思ったけれど、地面の模様は揺れていなかった。 あれ、と首を傾げる。 確かに、これは不味いかもしれない。 左手で頬に触れると、その指先も震えていた。 小テストは午前中の授業で終わったから、午後は保健室で休むか、帰宅するべきか。 「まりあさん?」 答えようとして口を開き、世界が、また揺れた。 目を見開いた狐モドキの顔が視界の隅に映ったけれど、すぐに消える。 そして次の瞬間、体が地面へ打ち付けられる衝撃。 「ちょ、大丈夫ですか?!」 慌てる声に、心の中で答えた。 大丈夫だから、とりあえずしばらく放っておいて。 「先生呼んで来ますから、少しこの場を離れますよ!」 言うなり、駆け出す足音がした。 あぁ、大丈夫なのに。 そう言いたいけれど、うまく声がだせない。 そして遠ざかっていく意識。 あぁ、やっぱり今日は学校を休めば良かった。 え?迎えに来れない?どうしてですか? お子さんが熱を出して倒れたんですよ?仕事? それでは、他にご在宅の方は・・・居ないんですか?では、 せんせい、やめて。ママのこと、おこらないで。 わたし、だいじょぶだから。ひとりでちゃんと、かえれるから。 トゥルルルル、トゥルルルル、 滅多にならない呼び出し音に、慌ててリビングの本棚の上に置いてある電話機へ駆けつけた。 右手で棚に手をつき、左手でクリーム色の受話器を持ち上げ耳へ押し当てる。 「はい、もしもし」 「こんにちは。茨さん?」 「・・・アザミさん」 「こうしてお話するのは久しぶりね。2人ともお元気かしら?」 「お陰様で、元気にやっています」 意外な女性からの電話に、思わず背筋を伸ばした。 彼女と似ている、けれど深さのある声。 何かメモを、と目線を走らせたけれど、紙もペンも手の届く場所には無かった。 まいったな、と思っている内に、再び相手が話し始める。 「そう。でも、先程まりあの通っている高校から電話があったわよ?」 「え?」 「お昼休みに倒れてしまったとか。熱ではないから起きたら一人で帰らせる、とのことだけれど」 「え・・・」 「貧血からの眩暈ではないか、と養護教諭の方は仰っていました。今日は、レバーか何かを食べさせてあげて下さいね」 その声音は硬質だけれど、こちらを責める響きを含んでいなかった。 ただ淡々と、事実だけを伝えているだけ。 だからと言って、決して冷たい人ではない。 本当に、報告という意味で連絡をしてきたのだろう。 それ故に、内容を頭が理解すればするほど、足が竦んだ。 倒れた。何故。自分の、せい? 「貴方があの子のことをよく見て下さっているのは知っています。だから申し訳ないと思っているのだけれど、まりあは意地っ張りだから」 「はい」 「見守るだけでなくて、止めたり、背中を押してあげたり、してやって下さいね」 「・・・はい」 自分の方が長く生きている筈なのに、拙い。 それは、信念だとか決意だとか、目指すものだとか憧れだとか、そういったものを何も持たずにただ「生きて」だけいたからだろう。 電話口の女性は、自分なりの世界を見る枠組みを持ち、自分の信じた通りに歩いている。 だから、こうして話をする時は、どうしようもなく緊張した。 それを知っているのだろう。硬質な声が、少し柔らかくなる。 「茨さん」 「はい」 「ごめんなさいね。本来は、親戚である私達がまりあに対して責任を持つべきなのに、全てを貴方に任せてしまって」 「とんでもないです。僕は彼女と一緒に過ごす事ができて、嬉しく思う事こそあっても、嫌だとか辛いとか、そう思う事はありません」 きちんと伝わるように、言葉を選んだ。 彼女の体調不良の原因は、どう考えても自分だ。 それが苦しくて仕方なく、伝えない事にも罪悪感があるけれど、押し隠して、言う。 「だから、こうして一緒に居ることを許して下さって、本当に感謝しているんです」 「そうね。前からそう言って下さいましたものね。ありがとう、茨さん」 では、また何かあった時は連絡しますね。 そう言って、女性は電話を切った。 ツー、ツー、ツー、 通話が完全に切れたことを確認してから、自分も受話器を置く。 目を閉じて、大きく息を吐いた。 そのまま深呼吸を三回。 そして三回目の息を吐き終わった瞬間に勢いよく目を開けると、一目散に自分の部屋へ入り、財布を掴んだ。 「ええ、そうなんです。突然中庭で倒れてしまったみたいで・・・」 聞き慣れないアルトの声で、意識が浮上した。 「熱は無いので、風邪ではないと思いますよ。貧血かしらねぇ・・・でも、春の健康診断で採血した時には、異常無かったと思いますよ」 電話を、している? やめて。ママには連絡しないで。 わたしは一人で大丈夫だから。あの人の手を、煩わせないで。 頭は覚醒しきっていないというのに、体はすぐに動いた。 起き上がり、ベッドを降りて白いカーテンを開ける。 シャッ、とレールの走る音が響いて、視界が開けた。 それと共に、薬の臭いが鼻に届く。 「あら、叶谷さん起きたのね。いきなり動いて大丈夫?」 振り向いた白衣の女性は、養護教諭だ。 皺の浮かぶ顔に朗らかな笑みを浮かべ、こちらへ近付いてくる。 「あらあら、まだ顔色が悪いわねぇ。とりあえず座って、ほら」 そっと押されただけで簡単にベッドの上へ座らされてしまった。 けれど、その間も視線が離せずにいる。 彼から。 「・・・イバラ?」 「良かった、とりあえず動けるみたいだね」 にこりと微笑まれて、思考がようやく追いついてきた。 そして、また自分が失敗した事に気付く。 何がママだ。彼女はもう、居ないというのに。 「・・・先生。わたし、どうしたんでしたっけ?」 「覚えてないの?貴方、プールの近くで倒れちゃって、一緒に居た一年生の子が慌てて教えに来てくれたのよ」 「・・・そうでした」 「それで、保健室まで先生方で運んで貰って、お家の方に連絡を入れておいたの」 「来なくても大丈夫って言われたんだけど、心配だったから迎えにきたよ」 にこりと笑って彼が言い、養護教諭が、微笑ましそうに優しいお兄さんねぇと言う。 その認識は色々と間違っているけれど、訂正すると説明が長くなるので止めた。 そうですか、とだけ呟き、時計を確認する。 針は、六限が終了してから一時間近く経っていた。 「すみません、ご迷惑をおかけしました」 座ったまま頭を下げる。 「あらあら、大丈夫よ気にしないで。あぁでも、あの一年生の子にはお礼を言っておきなさいね。なんだっけ、名前ど忘れしちゃったけど」 「はい、そうします」 「じゃあ受付票だけ書いたら、帰っていいわよ」 そう言って差し出されたボードと鉛筆を受け取り、ざっと内容を見た。 名前、クラス、どんな症状で保健室へ来たのか、その時間・・・ 若干面倒な内容がずらりと並んだそれを渋々書きながら、ちらりと彼を見遣る。 細身のデニムパンツに七分丈のサマーニットを着た姿は、制服姿の生徒かスーツ及びジャージ姿の教師しか居ない校内で浮いていた。 そしてその紫の瞳は、珍しいのだろう、保健室中をきょろきょろと見ている。 その弾みで目が合いそうになり、不自然にならないようボードへ視線を落とした。 遠くでは、運動部の掛け声、帰宅中の話し声、吹奏楽部の楽器、様々な音がする。 その中でも目の前の廊下を歩く上履きの音は特に耳へ届くから、保健室の前でその音が止まった時、何気なく扉を見遣った。 「失礼します」 そして、思わず立ち上がってしまった。 「あれ、まりあさん。もう大丈夫なんですか?」 「え、あ、うん、大丈夫みたい」 片手に荷物を持った狐モドキは、静かに保健室へ入ってくる。 そして、養護教諭に挨拶をして、彼に気付いて小さく頭を下げて、こちらへ歩み寄ってきた。 「はい、どうぞ」 「・・・え?」 「まりあさんの荷物。もう教室に居るかと思って行ってみたら、残っていた先輩が、まだ戻ってなくて保健室に荷物を届けに行く所だって言ってたから。ついでに持ってきました」 「そ、う」 差し出された荷物を受け取った。 「ありがとう」 「どういたしまして」 彼の視線を感じていたけれど、そちらを向きたいとは思えない。 何故だろう、彼に狐モドキを紹介するのも、狐モドキに彼を紹介するのも、どちらにも躊躇いがあった。 「あと、倒れた時、先生達に知らせてくれてありがとう」 「まりあさん、どうしたんですか?やけに素直ですけど」 「・・・二度と言わない」 「嫌です言わせます」 くすくすと笑う狐モドキは、よくよく見ると体操服を着ている。 「部活中?」 「はい。バスケ部です」 「え、嘘」 「本当ですよ。実は抜け出して来ているので、先輩達に怒られそうです」 「キャプテン、うちのクラスだっけ?」 「そうですよ」 「明日、フォローしといてあげる」 「まりあさん、駄目ですそれもう怒られた後なんで遅いです」 「だからだよ」 ひどいなぁと頭を掻いてから、狐モドキは、それじゃあ行きますねと言って踵を返した。 その指先がドアの取っ手にかかり、がらり、と開かれる。 そのタイミングで、彼が言った。 「マリ、書けた?早く帰ろ」 聞こえていたのだろうけれど、狐モドキは淀みなく廊下へ出て、扉を閉める為に室内の方を向く。 彼らの視線が、ほんの一瞬だけ、重なった気がした。 「失礼します」 その言葉と共に、扉が閉まる。 「マリ?」 「え?」 「書けた?」 苦笑して彼は近付いてくると、ひょいとボードを覗き込んできた。 全然書けてないね、と言いながら左隣へ座るから、パイプベッドが重さで揺れる。 「早く、帰ろ?」 念を押すような言葉。 理由の分からない重圧に思わず頷いて、鉛筆を握り直した。 養護教諭に見えない位置で、彼の掌がわたしの左手を握る。 その力は、痛いくらいだった。 「イバラ、迎えに来てくれて、ありがとう」 鍵穴へ鍵を差し込んだ瞬間に、後ろから言われた。 それに答えず、鍵を回して開錠する。そして、扉を開けて彼女を中へと促した。 こちらの顔を見上げてきた彼女は、一瞬躊躇ったけれど、室内へ足を踏み入れる。 追うように中へ入り、玄関の鍵を閉めると、靴を脱いで彼女の手首を掴み、引っ張ってリビングへと向かった。 「イバラ?」 廊下を抜けて、リビングへ入り、扉を閉める。 ばたん、と大きな音がしたけれど、頓着していられなかった。 馬鹿みたいに、余裕を失っている自覚はある。 けれど堪え切れなくて、彼女を腕の中に閉じ込めた。 その細い体が、もがいた。 「心配したんだよ」 ぎゅうと力を込める。 逃れようと身じろぎをした彼女は、けれど諦めたのだろう、すぐに大人しくなった。 「イバラ、」 「倒れたのが、学校だったから良かったけど・・・横断歩道の途中とか、ひと気の無い道とかだったら、どうなっていたか、」 感情が昂ぶり過ぎて、涙が滲んだ。 喉が痛くて、目頭が熱い。 「アザミさんからの電話でマリが倒れたって聞いた時、本当に怖くなって」 あぁ、どうして。どうして、こんな言い方しかできない。 彼女を責めたい訳じゃない。 責めるべきは、彼女に無理をさせている自分だというのに。 「マリ、お願いだから無理しないで、心配させないで」 でないと、狂ってしまうかもしれない。 それ以上言葉が紡げなくて、ただひたすら腕の中の温かい体を抱き締めた。 再びもがき始めた彼女は、細く息を吸って口を開く。 「・・・・・・ごめんなさい」 その声は、掠れていた。 「わたし、ごめんなさい、大丈夫だから、わたし、は、」 「・・・マリ?」 「一人で大丈夫だから、」 様子がおかしい。 確認しようと腕を放したけれど、今度は彼女の指先がこちらのニットを握って離さなかった。 突然訪れた、彼女の混乱。 こちらまでそれに引っ張られてしまいそうで、目まぐるしく動き出そうとする脳に、落ち着け、と言い聞かせる。 「マリ?」 肩を掴み、ゆっくりと響くように名前を呼んだ。 けれどもう、彼女の意識は此処に居ないようで、反応を示さなかった。 ただただ繰り返し、此処には居ない誰かに向かって言う。 「違う、ごめんなさい、わたし大丈夫だから、一人でなんでもするから、」 「マリ、どうし」 「お願いだから泣かないで、やだ、怒らないで、」 彼女の体が床へと沈むから、自身もそれに合わせて床へ座り込んだ。 力無くこちらを見上げてくる彼女の表情は泣きそうに歪んでいるのに、焦点を結ばない黒の瞳には涙が浮かんでいない。 肩から手を外し、こちらを掴んで離さない彼女の手に触れた。 それは、先程までは無かった熱を持っている。 「マリ、熱が上がって」 「違う、だいじょ、大丈夫だからお願いぶたないで、良い子にするから、泣かないで、笑って、」 喘ぐように口で息を吸い、最後に叫ぶように彼女は呼んだ。 「ママ」 そして、意識を失った体が、倒れた。 ごめんなさい、風邪なんてひいてないから怒らないで。 大丈夫だから、お出掛けしてきて。 わたしが悪い子なの、だから我慢する。 お願いだから、怒らないで、泣かないで、笑っていて。 「・・・そうですか。そんな事を言っていたんですね」 「はい」 電話口の女性の声は、相変わらず硬質だ。 けれどその響きに、今は多少の罪悪感が混じっている気がする。 意識を失った彼女の体温は、さらに高くなった。 申し訳ないと思ったけれど、パジャマへ着替えさせてベッドへ運び、その額に冷却シートを貼っている。 その間も小さな唇は、苦しそうな呼吸の合間に幾度も母親を呼び、幾度も謝っていた。 「私は、あまり家に居なかったから、というのは言い訳でしかないのだけれど。百合は、家族の愛情を知らないで育ったことは、知っているかしら?」 「誕生日を祝うという習慣すら知らなかったので、なんとなくですが。想像はつきます」 「そのせいで、まりあにも辛い思いをさせていたのかもしれないですね・・・」 灯りを落とした部屋で、電話のランプだけが無機質に光る。 それに呼応するように、相手は淡々と言葉を続けた。 「折を見て、まりあと話します。熱はどう?あまりにも辛そうでしたら、救急病院へ連れて行ってあげて下さいね」 「そのつもりです。申し訳ありません、夜分にお騒がせして」 「いいえ、茨さんが謝る事は無いのですから、そんな風に言わないで下さいね。学校へ迎えに行って下さったのでしょう?」 「はい。どうしてそれを?」 「まりあさん、お弁当箱を保健室へ置き忘れたままだそうですよ。養護教諭の方が、ご親切に連絡を下さいました」 「そうですか。取りに行くよう、彼女に伝えておきます」 扉を開け放しにしてある彼女の部屋から、また声が聞こえた。 目が覚めたのなら、せめて水を飲ませなければ。 「すみません、マリが起きたようなので、様子を見てきます」 「お願いします・・・本当に、情けない伯母でごめんなさい」 「いえ、アザミさんには本当によくして頂いています」 「・・・貴方のような人がまりあの傍に居てくれることに、感謝します」 それでは、ごめんください。 そう言って通話を切った女性に、心の中で謝った。 ごめんなさい。ユリさんの命を奪ったのも、マリの命を削っているのも、僕だ。 結局は、一番大切なところでその信頼を裏切っている。 受話器を置いて、足早に彼女の部屋へ向かった。 机の上にあるランプだけを点けた暗い部屋の中で、彼女は目を開き、苦しそうに口で呼吸を繰り返している。 「マリ、大丈夫?目が覚めた?」 「う、ん」 「喉は渇かない?水を飲む?何か食べたいものは?」 「お水、欲しい・・・」 ベッドの脇へ跪き、背中へ腕を入れて火照った体を起き上がらせる。 そしてサイドボードへ置いていたペットボトルの蓋を開け、緩く震える手に持たせてやった。 自分の手も添え、落ちないようにする。 小さな喉がこくりこくりと動いてきちんと水が飲めたことを確認すると、ほっとして思わずため息がでた。 彼女の肩がそれに反応して、びくりと震える。 「ごめんなさい、もう大丈夫だから、」 しまった。 過敏な神経を逆撫でてしまったようだ。 そう、確かに彼女は母親へ謝っていた。 ごめんなさい、一人でできるから、煩わせないから、構わないでいいから、と。 「マリ、」 「ご、ごめんなさ、」 「マリ」 優しく響くように注意して名前を呼ぶと、その黒い瞳が焦点を結んだ。 そして、ゆっくりとこちらを向く。 「イバ、ラ?」 「そうだよ、マリ」 「あ、れ?わたし、・・・」 「帰ってきてからすぐに、熱を出して倒れちゃったんだよ」 掌で額に触れると、そこは相変わらず熱い。 そのまま前髪をかき上げて頭を撫でてから、背中に手を宛がった。 優しく、ゆっくりとした等間隔であやすように叩いてやる。 「もう少し寝て、明日の朝、何か食べようか」 「う、ん」 「何が食べたい?」 彼女は悩むように視線を泳がせてから、布団を握り締める自身の手を見詰めながら答えた。 「お稲荷さん」 「え?」 「お稲荷さんが、食べたい」 随分とおかしな選択な気もするが、望むのなら、勿論作る。 「分かった。用意しておくね?」 「うん」 「じゃあ、寝ようか」 「うん」 背中を支えながらゆっくり横たえてやり、肩が隠れるまで布団をかけた。 大人しくそれを受け入れていた彼女は、黒い目でもって窺うように見詰めてくる。 「イバラ」 「なぁに?」 「ごめん、ね」 「何が?」 「倒れた挙句、熱までだしちゃって」 驚いて、つい反応が遅れた。 感謝の言葉を貰う事はあったけれど、謝られたことなど無かったのだ。 それと同時に、思う。 謝るべきなのはやはり自分であって、彼女ではない。 「大丈夫だよ。ゆっくり休んで、早く治して?」 けれど、これ以上彼女に負担はかけたくなくて、それだけ言って微笑んだ。 顎が隠れるくらいまで掛け布団を引き上げた彼女は、小さくこくりと頷く。 「じゃあ、おやすみ、マリ」 「おやすみなさい、イバラ」 見られていては寝付きにくいだろう。 そう思って、そっと枕元を離れた。 部屋を出る直前に振り返ると、瞼を閉じた彼女は、相変わらず苦しそうに呼吸をしている。 何かあったら、すぐに呼んでね。 そう伝えて、扉は開けたままにした。 静かに窓辺のソファまで行き、深く座る。 レースのカーテンの向こうには、相変わらずの街と夜空が広がっていた。 腕を閉じた目にあてて、天井を仰ぐ。 深く吐いた息が、ほんの少しだけ夜の空気を揺らした。 「どうして、奪うことしかできないんだろう」 呟く声は、誰にも届かない。 何があっても良いように、一晩中そこで起きていた。 彼女の部屋からは、もう母親を呼ぶ声も、謝る声も聞こえない。 どうか、どうか、安らかな夢を。 祈ることさえ恐ろしくて、けれど祈らずにはいられなくて。 夜明け頃、そっと彼女の部屋を覗くと、呼吸は落ち着き、その顔も穏やかさを取り戻していた。 それに安心して、泣きそうになる。 額に貼っていた冷却シートを新しいものに変えて、布団を掛け直してやった。 そして、そっと頬を撫でて・・・ 落とそうとした口付けは、やっぱり止めた。 |