くしゃくしゃの髪、


つぶらな瞳、


それを見て思った。


あぁ、わんこだ。







愛をぐ -8






あまりの寒さに耐えられず、問答無用で近くのホテルへ入った。
お金なら、持っている。旦那様が、生活できる以上のお金をきちんと毎月、渡してくれるから。


温かな室内でもまだ歯の根が噛み合わず、大きなバスタブへお湯を張る。
そして変わりばんこでお風呂に入り、ようやく人心地がついた。


さっきまでは死のうとしていたというのに、今はふわふわのバスローブに包まれて、知り合ったばかりの人と一緒に温かな部屋に居る。
その事実が無性におかしくて、笑いが込み上げた。


大きな窓に、自分の姿が映っている。
なんて貧相な女なんだろう。
更に笑いが止まらなくなった。


そのまま大きな椅子に座って笑っていたら、彼がお風呂から出てきた。
濡れた栗色の髪はくしゃくしゃで、やはりワンコのようだ。

それを真っ白なタオルで拭きながら近付いてくる彼は、アタシの顔を見て、悲しそうな顔をした。
理由が分からないでいると、その間に同じバスローブを着た体が椅子の傍へ膝をついて視線を落とし、こちらを見上げてくる。


「どうして泣いているんですか?」


左頬が、大きな掌で包まれた。


「・・・へ?」


吃驚して瞬きをすると、ぽろり、と、大きな水玉が転げ落ちる。


「あれ、アタシ、泣いてる・・・?」


親指が、濡れた目の下を拭った。


「うん、泣いています」


紫の瞳は、確かにこちらを見詰めていた。


「泣く時は、笑わなくて良いんですよ」


突然の言葉に、また、理解が出来なくなる。
そして意味を咀嚼して、恐ろしくなった。


だって、アタシは欠陥品。
だから、泣いたら迷惑が掛かってしまう。


泣いちゃいけない。
怒られてしまう、嫌われてしまう。


せっかく、ようやく、きちんとお話してくれる人が目の前に居るのに、また居なくなってしまうのは、いやだ。


「ごめんね、ごめん、」


謝ったら、首を傾げられた。


「何がです?」


だって、迷惑でしょう。
アタシが泣くのは、煩わしいでしょう。


「すぐに、泣き止むから、」


泣いている、と意識した途端、止められなくなるのはどうしてだろう。
それでも必死に鼻を啜って、手首で目を擦って、どうにか止めようとした。


けれど彼はそれを柔らかく抑えてくる。


「どうしてそんなに、泣くのを躊躇うんですか?」


だって。


「だって、嫌でしょう?」


堪えきれず、嗚咽が零れた。

昔、聞いたことがある。泣くのを堪えるほど、鼻水が出てきて泣き顔が汚くなるそうだ。
けれど、堪えずには居られない。

これ以上、嫌われたくない。


「なんだ、そんな事ですか」


そんな事って言われた。
もう駄目だ、嫌われてしまった。


「嫌じゃないですから、思う存分泣いて下さい?」


ほら、嫌だって・・・


「え?」


デジャブだろうか。
驚いて、また涙が止まった。


「悲しい事があったんですよね?僕じゃ慰められないかもしれないですが、」


謙遜か、自虐か。それでも良いのなら、と、暗黙の責任転嫁をして。
彼は包み込むように、言葉を紡ぐ。


「せめて泣いている時、傍に居させて下さい」


ね?と、首を傾げられる。
その目元の皺が愛しくて、違う、優しさだ、と訂正。

その瞬間、一度は引っ込んだ涙が、また溢れてきた。


「ひっく、うぅ、」
「ほら、我慢しないで」
「うぅ、ぅあ、あああああっ」


くすくす笑いながら、右頬も掌で包まれる。
それがとてもとても温かくて、ぼろぼろと、体中の水分が目に集中しているのかもしれない、と思ったくらい、涙が溢れてきた。


「ふぇぇ、」


思わず、首に抱きつく。
そして、わんわん泣いた。


こんな姿に呆れず、彼は優しく大丈夫ですよ、と繰り返しながら、背中をさすってくれる。
それに甘えて、もっと泣いた。


涙に応えて貰えたのは、久しぶりだった。
泣き疲れて眠ったのも、久しぶりだった。


「大丈夫ですよ。ね?」


低い声が、耳に心地よかった。








ふかふかの枕に埋もれて、目を覚ました。
見知らぬ天井。
それをぼんやりと見詰めながら、腫れぼったい目、かぴかぴに乾いた頬に触れる。


ああ、そうだ。
昨日は大泣きして、そのまま寝てしまったんだ。


そう思い当たって、ぼんやりと首を横に向ける。
サイドボードを挟んで隣のベッドには、相変わらずわんこのような彼が、安らかな顔で眠っていた。

開け放しのカーテンの向こうから朝の光が入ってきて、その背を照らしている。
その様子は、枯れた涙がまた溢れてきそうなくらい、穏やかなものだ。


ふと、毛布と掛け布団に包まれた自身の体を見下ろした。
そこには相変わらずバスローブに包まれた体があって、心配していなかったし、何かあっても文句を言うつもりもなかったけれど、何もされていないようだった。


本当に、損な人。変な人。


ゆっくりと起き上がり、裸足で絨毯の上へ下りる。
そしてそっと彼に近付き、シーツの上に頬杖をついて、その寝顔を見詰めた。


すやすやと眠り続けるその鼻を、軽くつまんでやる。
すると眉を顰めて、苦しそうにした。

離してやると、大きく呼吸。
そしてまた、寝息へ戻る。


くすくすと笑ってしまった。


その気配に気付いたのか、今度はゆっくりと、瞼が押し上げられた。
紫の瞳に、光が差し込む。

こちらを捉えて一度瞬き。
それから、優しく笑みの形を作った。


「おはようございます」
「おはよ、」


名前を言おうとして、まだ聞いていなかったことに気付いた。
お互い名乗らないまま、一晩を共にした訳だ。

自身の迂闊さが可笑しくて、アタシはまた笑ってしまった。


「・・・何か、楽しい夢を見たんですか?」


アタシの笑顔をそういう意味で捉えたらしい彼は、そう問いながら起き上がる。
バスローブが肌蹴、外気に晒されている鎖骨の辺りがやけに細くて、きちんと食事をしているのか、少し心配になった。


「ううん、違うの」


ああ、腫れてしまいましたね。
そう呟いて無造作に指先で瞼を触られたけれど、不思議なくらい不快感は無く、むしろ自然だ。

それを大人しく受けながら、言葉を続けた。


「名前をね、お互い知らなかったなって」
「・・・なるほど」


確かにそうでした、と呟いてから、けれど僕は、名乗る名前を持って居ないんです、とも言う。
それが不思議で、けれど深くその理由を聞けなかった。


だから、話を逸らす。


「ね、命が、欲しいんだよね?」


最初に声を掛けられた理由だ。
散々泣いた、その相手をして貰ったから。

今度は、アタシが役に立つ番だ。


「はい。でも、本当に良いのですか?」


躊躇う事無く、頷いた。
だって、きっと、そこに間があれば、この人は、「やっぱり要らないです」、という人だと思ったから。


「そう、ですか・・・」


悩むように視線を遠くへ彷徨わせた彼は、けれど、床に座らせたままですみませんでした、と言ってアタシを引き上げ、ベッドに座らせた。
近くに在るその顔を見上げると、その端正な造作にどきりとする。


けれど、そんなこちらの動揺などお構い無しに、彼は再びこちらへ視点を合わせた。
そして、質問。


「まずは、あなたの名前を聞かせて下さい」


細められた瞳が、朝の光の中でとても優しい。


昨日から、一体どれくらいの会話をしたのだろう。
言葉を受け止めて貰って、投げ返して貰う。

そんな単純な行為なのに、とてもとても久しぶりの事だった。


「アタシは、」


名前を聞いて貰ったのも、一体いつ以来だろう。
そんな事を考えながら、答えた。


「百合よ」




百合さんですね、と、まるで慈しむように、彼は名前を呼んでくれた。





 戻る