ベランダで干した、ふかふかの布団。


小さな冷蔵庫の上に置いた、電子レンジ。


コップにたてた二つの歯ブラシ。


床に置かれたCDラジカセ。


その全てが、眩しかった。







愛をぐ -7






「それでは、夜までには帰るので、お留守番よろしくお願いしますね」


一生懸命頷くと、彼は手を振って玄関から外へ出て行った。
ぱたり、と、音をたてて扉が閉まる。
それに対して何故か微笑んで、アタシは部屋の中へ戻った。


六畳の和室。
清潔に掃除された部屋にあるのは、ちゃぶ台と、CDラジカセ、本棚が一つ。

それが彼の性格を表しているようで、とても愛しかった。








「実は僕、吸血鬼なんです」


あの日、二人で一つのベッドに座って切り出された話の一番最初の内容は、それだった。


「・・・・・・へ?」
「吸血鬼です。西洋名はヴァンパイア。ドラキュラ伯爵で有名なあの、あれです」
「・・・・・・アタシのこと、からかってるの?」


ついつい上目遣いになって、問う。
右に並ぶ彼は苦笑しながら、そっと頭を撫でてくれた。


「いいえ、からかってなんかいませんよ。事実です」
「・・・でも」
「どうしたら信じて貰えるでしょう」


その言葉は、アタシに対する質問ではなく自問自答だったから、黙っていた。
天井を見詰めるのは、紫の瞳。
朝の光がそれに差し込んで、アメジストのようだ。


うーん、と唸っていた彼は、けれど何か思い付いたのだろう、再びこちらへ目線を動かした。


「血を見せても大丈夫ですか?」
「・・・・・・ちょっと?」
「ちょっとです」
「・・・・・・だいじょぶ」


あまり大丈夫じゃなさそうですね、と苦笑しながらも彼は自分の左手を口元へ持っていき、そして、甲を噛んだ。
ぷつ、と、皮膚の切れる音がする。

反射で身を硬くして、瞳を閉じた。
けれど当の本人は、なんでもない声音で、こちらを見て下さい、と言う。


恐る恐る、瞳を開けた。
視界に映る、彼の左手の甲。

それは、赤く染まっていた。


「っ」


身を竦ませるアタシに構わず、彼は、流れ出た血をティッシュで拭う。
剥き出しになった傷口はぐずぐずと鈍く光っていて、生理的な嫌悪を覚えた。


けれど。


不意に、傷口の端が縫われたようにくっつく。


「え?」


それは傷口の両端から始まり、徐々に徐々に真ん中を目指して範囲を広げていった。
何事も無かったかのように、白い皮膚が取り戻されていく。


そして最後には、そこに傷があったなんて思えないくらい、綺麗な手の甲が残った。


ティッシュで拭われた血の赤さが無ければ、自分自身、あの傷は幻か錯覚か何かだ、と思わざるをえないような、そんな。平坦な、甲。


呆然と差し出された手の甲を見詰めるアタシに、彼の低い声が説明をする。


「吸血鬼は、治癒能力が高いんです」


耳元で紡がれるそれはとても心地よいというのに、どうしてだろう、非現実な内容が、うまく受け取ることを難しくしていた。


「他にも、人間に比べて能力の高い点があります。ですが、その代償として、人間の血を食糧としなければならない」


そっとその手を握ると、彼は握り返してくれる。
それに安心して、体から力を抜いた。


「血は、動脈や心臓から直接飲みます。そして、それをされた人間は、」


躊躇うような間。
けれど、説明は続く。


「同族となるか、命を落とすか、どちらかです。ですが、」


再び、間。
その命をくださいと彼が言って、今一緒に居るのだから、躊躇う必要なんて無いのに。
彼はいちいち、言葉を躊躇った。


「僕は、同族を増やすつもりは無い」


手を見詰めていた視線を引き剥がし、右上にある紫の瞳へ移す。
そこには、優しく、悲しく、微笑む顔があった。


「だから、血を飲ませて貰うと、その人は死んでしまいます」
「・・・・・・だから、捨てる命なら、僕にくれませんか、なの?」
「はい、そうです」


伝えられた言葉を、ゆっくりと理解する為に繰り返す。
吸血鬼、人間よりも高い身体能力、代償としての食糧である人間の血、それをとられた人間の行く末。


咀嚼する間、彼は静かに待っていた。
だからアタシも、静かに見上げる。


そこには、相変わらずの紫の瞳だ。
どちらでも良いんですよ、ただ、無駄に散らせるくらいなら、僕の血肉になって欲しいと思っただけだから。そう、言外に伝えてくる色だった。


とてもとても、優しい吸血鬼。
こんなアタシの涙に付き合って、無言で、このまま彼の食糧となるか、それとも逃げるか、選択権まで与えて。


「アナタは器用貧乏ね」
「器用貧乏、ですか?」
「そう。相手の心が分かってしまうから、先回りしてそれを尊重するように道を固めて、そ知らぬ顔をしてそちらへ行くように誘導するの」
「それはユリさんの買い被りです」


褒めてなーい、と言ってつんとそっぽを向いたら、くすくすと笑われた。
それを振り返ったら決意が揺らぎそうで、だからそのまま言う。


「いいよ」


天井の壁紙がやけに白い。


「アタシの命、あげる」


そう言ったら、後ろから柔らかく抱きしめられた。
そして、蚊の鳴くような声で囁かれる。


「ありがとう、ございます」


それが無性に愛おしくて、瞳を閉じた。








そして連れて来られたのは、電車で一時間離れた町にある、彼の住処だった。
曰く、「今のユリさんは心も疲れていて体も疲れていて、きっと美味しくありません!なので、ゆっくり休んで元気になって下さい」とのこと。

要するに、せっかく食べるなら萎れかけより元気なキャベツが良い、という事だろう。
だからアタシは、静かで平穏な毎日を、この部屋で送っている。

彼と一緒に。








冷蔵庫を開けると、ジャガイモとニンジンとタマネギが転がっていた。
それを見て、今日の夕飯はビーフシチューにしよう、と決める。

彼の料理の下手さは初日に思い知ったから、料理当番は自分にして貰った。
料理当番だけでなく、彼が出掛けている間、洗濯、掃除、家事は全て、アタシがしている。


今までずっとしていたから、それは苦にならなかった。
それどころか、喜びでさえあった。


帰宅した彼は、きちんと夕飯を食べて、ご馳走様でしたをくれる。
整頓された本棚を見て、嬉しそうに笑ってくれる、
お日様の香りがするバスタオルを抱きしめて、ありがとうと言ってくれる。


それが、これほどまで幸せなことだとは思わなかった。


「さて、今日はお散歩しようかな」


伸びをして、敷いたクッションの上に座る。
窓の外には、冬の空が広がっていた。


突然与えられた、期限付きの幸福。
それは確かに、アタシの心をゆっくりと満たしていく。


幸せすぎて、涙が溢れてしまいそうだった。





 戻る