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生地の薄いカーテンを越えて部屋を照らす朝日に、目を覚ます。 その時、隣に在るその静かな寝顔が、どうしてだろう、恋しくて堪らなかった。 同じ布団にくるまって眠るけれど、絶対に触れてこない。 その律儀さが嬉しくて、腹立たしくて。 愛を捧ぐ -6 左手の本と右手の軽量カップを真剣に見比べる顔がおかしくて、けれど笑いを堪えて厳しく言う。 「あのね、料理は指示された分量をきちんと守ることが大切なの」 彼の出掛けない日。 彼が家に居る日。 その日はいつも、一緒に過ごす。 「アナタはね、料理ができないくせに、目分量で作るから、食べられないものができあがるんだよ」 「・・・・・・そうだったんですね」 そう言った彼は、ごくりと唾を呑んでから、カップに入れた料理用の赤ワインをお鍋の中へ注いだ。 香りが狭いキッチンに充満して、じゅうじゅうと音をたてていた牛肉が静かになる。 それを見守っている時間を使い、次にする事を確認するよう本を指差した。 すると彼は、書かれた文章の一文字すら取り零さぬよう律儀に目を通し、投入すべき野菜の用意をする。 「それから、スピードとタイミングも大切。躊躇っている間にお肉が焼けすぎたり、野菜を煮込みすぎても、味が変わってしまうの」 はい、と返事をする横顔は、本当に本気で、そろそろ笑いを堪える限界だった。 「ふふ、あはは、はははは!」 とうとう声をたてて笑う。 けれど彼はそれを気にせず、本に書かれた手順を忠実に守りながら料理を作り続けていた。 ああ、どうして、こんなに、一生懸命になれるのだろうか。 失敗することが怖くて、一生懸命を回避してきた自分が悔しくなるくらい、紫の瞳は真摯だ。 あとは煮込むだけ、という状態になった所で、彼は手早く後片付けを始めた。 流しに置きっぱなしにしていた調理器具を洗い上げて籠に干し、満足げに笑ってこちらを見遣る。 「今日はきちんと食べられるものが作れそうですね」 無邪気なその表情と栗色の癖っ毛が相まって、とうとうわんこにしか見えなくなってしまった。 だから、良かったね、と笑いながら、その髪をくしゃくしゃに撫でてやる。 「わぁ、ユリさんひどいです、」 「そんな事言っていいのー?もう料理教えてあげないよー?」 「う、それは困るのですが・・・」 こちらの切り札をちらつかせると僅かな抵抗さえも止み、アタシは思う存分その栗毛を掻き混ぜた。 満足した所で手を離し、大きく息を吐きながら畳の上のクッションへ埋もれる。 真剣に頑張る彼の姿を見ていたら、つられて疲れてしまったのだ。 「疲れてしまいましたか?お昼寝します?」 「うん、少しだけ寝る・・・でも、起きたらお散歩に行こう?」 ねだるように首を傾げると、ふわりと紫の瞳が細められる。 了承の意思表示に安堵したアタシは、そのまま夢の中へと引き込まれていった。 それを追い掛けるように、毛布がそっと掛けられる。 ありがとう、でも大丈夫よ。 この部屋は日溜りのよう温かいから。 それを伝えられたかは、覚えていない。 起きた後、彼とアタシは日が暮れるまで散歩をした。 冬の風は強く吹き付けてきたけれど、着膨れするくらい着込んだアタシは勿論、寒さに強いという吸血鬼の彼もへっちゃらだ。 パン屋さんでフランスパンを、スーパーでチーズとワインを買って、帰路を辿る。 空いた左手で弱くアタシの手を引く彼は、先ほど自分が作ったビーフシチューが楽しみらしく頬を上気させていた。 その様子が可愛らしくてくすりと笑うと、わくわくを隠し切れない顔が振り向く。 だから、反射で緩く首を振ってから、そういえば、と話を切り出した。 「ねぇ、どうして名前を教えてくれないの?」 「名前、ですか?」 「うん。何度聞いても、アナタは誤魔化すじゃない」 おどけて軽く睨むと、彼は困ったように笑う。 これ以上は踏み込まないで下さい。 言外に伝えてくるけれど、北風に背中を押されたアタシは今日ばかりは引き下がらなかった。 「いっつもアナタって呼び方なんだもの。はぐれた時に困っちゃうでしょ?だから、名前を教えて」 繋いだ掌が、ほんの少しだけ震える。 けれど、それはアタシの手を握り直して前へ前へと進むよう誘い続けた。 それに抗うのも馬鹿らしいから、ひたすら足を動かす。 その間にずっと考えていたのか、俯き加減だった彼の顔は漸く再びこちらを向いた。 「・・・名乗る名前が、無いんです」 「え?」 「だから、教えられない」 悲しそうに、微笑んだ。 事情は分からない。けれど、聞いてはいけなかったのだと悟り、思わずアタシも眉を下げる。 「ご、ごめんなさい・・・」 「いえ、ユリさんは謝らないで下さい。僕が悪いんです」 ね、と傾げた首に巻きつけたマフラーが、ふわりと揺れた。 いつも優しい光を讃えた紫色を見詰めるのが辛くてその様を追って、アタシは繋いだ右手に力を入れる。 あぁ、嫌な思いをさせてしまった。 アタシはいつも優しい気持ちを貰っているのに、どうしてこうも駄目なんだろう。 こういう時はより一層、欠陥品の自分が嫌になる。 縮こまってぎゅうと目を瞑ると、不意に彼の指先がこちらの額に触れた。 それは滑り降り、皺の寄った眉間をそっと撫でる。 恐る恐る目を開けると、彼は気遣うようにアタシを覗き込んでいた。 「本当にユリさんのせいではないですから。気にしないで下さいね?」 心配する声音に、ぷるぷると首を横に振る。 そして、もう一度ごめんなさいを言おうとして、代わりに閃いた事をそのまま伝えた。 「じゃ、じゃあ、アタシが呼びたい名前で呼んでも良い?」 唐突に表情が明るくなったアタシに驚いた彼は、一瞬ぽかんという顔をした。 けれどすぐに、くしゃりと微笑む。 「はい、是非」 「じゃあね、」 息を吐く間も無く、アタシは顔を輝かせて言った。 「春!今日からアナタは春って名前よっ」 「ハル、ですか?」 「うん、そう!」 「どうしてか、聞いても?」 苦味を少し含んだ、けれど優しい紫に絡め取られる。 勢いで正直に答えようとしたアタシは、慌てて指先で口を塞いでもう一度首を横に振った。 「内緒」 そう言ってしまえば、彼・・・春が深く追求してこない事も知っている。 そしてそれが、優しさではなく踏み込まないように引いた一線だという事も。 けれど、それで良いのだ。 アタシはいつか、春の血肉になるのだから。一線を越え、情が移ってしまったらいけない。 「分かりました。じゃあ、ハルと呼ばれたら振り向きますね」 「そうよ、いっぱい呼ぶからちゃんとこっちを見てね?」 「はい、ユリさん」 そうしてまた、二人で歩き始める。 何度、二人で辿った道筋だろう。 何度、これから辿れる道筋だろう。 ビーフシチューの待つ日溜りの家は、決してアタシの家では無いけれど、帰りたいと最も願う場所になっていた。 美味しくできました、と嬉しそうにはしゃぐ春を見ながら、少しでも多くの料理を教えてあげよう、と思う。 アタシが彼に出来る事なんて、それくらいしか無いのだから。 |