好きよ、本当に好きよ。


こんな想い、貴方は要らなくても。





愛をぐ -4






満たされている。
そう気付いた瞬間、もっと欲しい、もっともっと欲しい、と願うのは、やっぱりアタシが欠陥品だからなのかな。


春がアタシを抱き締めて眠ってくれたのは、あの夜だけだった。
次の日からは相変わらずの律儀さで、境界線があるかのように離れて眠っている。

それを寂しいと思ってしまうのは、贅沢で。
もう一度、と願ってしまうのは、傲慢だ。








「春、ご飯のお代わりはいる?」
「ありがとうございます。でも、もうお腹いっぱいなので大丈夫ですよ」


いつでも春に血をあげられる状態になった自分に気付いてから、夕飯は毎日きちんと作っていた。
今日のメニューは、煮魚と煮物、お新香にお味噌汁とご飯。
アタシが居なくなった後も春が色々と作れるように、たくさんの料理を作って、そのレシピを残していこうと思った。


「そっか。じゃあ食器片付けちゃうね」
「洗い物は僕がやるので、置いておいて下さ」
「だーめ!アタシは居候なんだから、これくらいやらせて?」


立ち上がろうとする春を軽く手で封じて、アタシは立ち上がる。
使い終わった食器を重ねて扉一つ向こうのキッチンへ行くと、シンクの中にそれを置いた。
そして、溜め息を一つ。
銀色の蛇口を捻ると、さらさらと水が零れ始めた。


ここで暮らし始めて、二ヶ月近くになる。
突然居なくなったアタシを心配している人は居ないだろうけれど、世間体を考えると捜索願くらいは出ているのかもしれなかった。

あぁ、でも、どうだろう。
旦那様はアタシが居なくなった所で問題無いし、実家はアタシが居なくなった事すら気付いていないかもしれない。


終わりが見えた瞬間、現実もまた戻ってきた。
最後までこの日溜りの中に居させてくれれば良いのに、と、思わずにはいられないけれど。


スポンジに石鹸をつけて泡立てると、窓の向こうの夜空を見ながらお皿を手にとり磨いた。
コップ、お箸、お茶碗、小皿。
愛着の湧き始めたそれらも、今では心を引っ掻いてくるばかりだ。


「死にたくない訳じゃ、ないんだけどな」


きゅ、とガラスが悲鳴を上げる。

痛いのだろうか。辛いのだろうか。
色々と想像したけれど、出会った時から変わらず命を差し出す事に抵抗は無かった。


ただ。


ガシャン、


不意に力の抜けた手から、グラスが滑り落ちた。
ぼんやりとシンクを見下ろすと、そこには無残な姿に散ったガラスの欠片がある。


「・・・割っちゃった」


あぁ、ほら、また失敗した。
洗い物すらまともに出来ないアタシが、やっぱりあんな事を願ってはいけなかったんだ。


思っていた以上に大きな音が響いたらしく、春が扉の向こうから名前を呼んでくれた。
大丈夫ちょっとグラスを割っただけだから、と上の空で返事をして、片づけをするべく大きな破片を摘む。

泡と水に塗れたガラスは、蛍光灯の光を弾いてきらきらと輝いていた。


「ユリさん大丈夫ですか?手は切ってないですか?」


がら、という音をたてて扉が開き、春がキッチンへやって来る。
その音に驚いたアタシの体は小さく震え、指先のガラスを零した。


「っ」


尖った部分が皮膚を掠り、シンクへ落ちる。
がしゃん、という不協和音が響いた一拍後、アタシの手は彼に掴まれていた。


「春、」
「すみません、また驚かせてしまって。とりあえず洗いましょう」


ぷつりと赤い血液が湧き出てきた指先を流れる水の中へもっていき、春の手は泡のついたアタシの手を丁寧に洗う。
切れた皮膚の近くはあまり触れないようにその作業を終えた彼は、蛇口を捻って水を止めると、タオルで両手を包んでくれた。


「消毒液と絆創膏を用意しますから、ユリさんは座っていて下さいね」


気遣うような、淡い笑み。
それに申し訳なくなり縮こまって頷くと、温かい畳の部屋へとアタシは戻った。


クッションの上にへたり込むように座り、溜め息を吐く。
ふと目をやると指先からは再び血が滲み始めていたけれど、どうしようとも思えず眉を顰めた。
そのタイミングで部屋に戻ってきた春が、慌てて目の前へしゃがみ込む。


「痛いですか?」


顰めた眉の原因が、痛みだと思ったらしい。
緩く首を横に振ると、大丈夫だよ、と力無く伝えた。

そんなアタシの仕草に、春は余計に心配そうな顔になった。


「見せて下さいね」


そう告げて、彼の骨ばった指先がアタシの指先を捕らえる。
傷は深くなさそうですね、と呟くように言った唇が近付いてきて。


そっと、滲んだ血を舐めた。


「っ」


柔らかい舌が、器用に傷口を這う。
くすぐったいような、微かに痛いような、どうしようもない感覚に肩が震えた。

そんなアタシの様子に気付かない春は、丹念に血を拭い続ける。
くしゃくしゃの栗色の髪が、目の前で揺れていた。それに鼻を埋めたい衝動を必死に抑え、顔を覗き込もうと首を傾げる。


「は、る?」


上ずった声に気付かなければ良い。そう願いながら、捕らえられていない方の手で頬に落ちて邪魔そうな髪をかき上げてやった。
そこからちらりと見えたのは、茫漠の、紫の瞳。


怖い、と思った次の瞬間。鋭い針の刺さる痛みが走った。


「いっ」


思わず口から零れた声に反応して、春は一瞬の内にアタシの指から離れる。
紫の光は再び焦点を結び、恐怖が滲んでいるであろうアタシの表情を認めるなり、くしゃりと悲しそうに歪んだ。


あぁ、また間違えてしまった。
春にこんな顔をさせたい訳じゃない。

痛いのなんて、覚悟していた。怖いのなんて、分かっていた。
それを春に悟らせてはいけなかったのに。優しい彼にそれを知られてしまえば、悲しむのなんて、苦しむのなんて、分かっていたのに。


無理矢理笑顔を作って、成り行き任せに抱き締めた。
ほら、この手はまだ、誰かを抱き締める事ができる。


「ごめんね春、ちょっと驚いちゃっただけだから」
「違うんですユリさん、ごめんなさい、僕は」
「謝らないで?春がお腹空いてるのなんて、ずっと前から知っているのよ?今は、ちょっと驚いちゃっただけで」
「嘘を吐かないで下さい!」


唐突に声を荒げた春に、びくりと震えてしまった。

骨ばった掌がアタシの肩を掴み、ぐいと体を離す。
拒絶されたのかと悲しくなる前に、春の右手がそっと頬を包んだ。

深い紫が、アタシを見詰める。
意識を逸らしたくて湿った指先へ視線を動かそうとしたけれど、どうしようもなく捕らえられてしまった。


「僕は命をくれと言ったんです、怖くないはずが無いじゃないですか!お願いだから、嘘は吐かないで下さい・・・僕は、ユリさんにそんな事をして欲しくなんて無いんです!」


その言葉に、堪えきれなくなった涙が溢れる。

駄目なのに。今ここで泣いたら駄目なのに。
欠陥品のアタシは、自分で自分の体を上手く使う事すら出来ない。


「だ、って、アタシが春の傍に居られるのは、いつか命をあげる為だから、でしょ?」


ぽろり、ぽろり。
涙も言葉も落ちていく。


「傍に、居たいの。だから、命をあげるのを怖がったら、アタシ、もうここに居られなくなっちゃうでしょ?」
「・・・ユリさん?」


親指が眉尻の涙を拭った。
丁寧に何度も繰り返されるけれど、追い掛ける様に涙は止まらない。


「好きよ、本当に好きよ。アタシは要らない子だから、死んでしまいたいってずっと思っていたの。ねぇ春、傍で生きていく事が出来ないのなら、早くアタシの命を奪ってっ」


お願いだから。
お願いだから。


「お願いだからっ」


その後はもう、言葉を紡ぐ事も出来なかった。

絶え間ない嗚咽、止まる事を知らない涙。
それを隠すように、今度は彼の胸に顔を埋めて抱き締めて貰った。


少し体温の低い腕は火照った体に心地よくて、縋るように頬を摺り寄せる。
涙を拭ってくれた掌は背中をゆっくりと撫でて、偶に髪を梳いた。


あぁ、出会った日のようだ。


大泣きをするアタシ、それを宥める彼。
けれど、あの時とは涙の意味が全く違う。


全てが悲しくて、苦しくて、それはきっと自分のせいで、泣く以外に昇華する方法が無くて、久しぶりに触れた優しさが温かすぎて、あの時は泣いたけれど。


今は、彼が欲しくて欲しくて仕方なくて、けれど手に入らない悲しさに、自分の命しかあげられない空しさに泣いている。

早く奪って貴方のモノにして、と、駄々を捏ねている。


本当にアタシは駄目な子ね。
与えられて、満たされて、もっともっとと欲しがって。それなのにアタシから差し出せるものは一つしか無い。他に何もできない、欠陥品。


嫌になっちゃったよね。
それでも、優しい貴方は拒絶する事も出来ないもんね。

だからアタシは、心の何処かで安心して縋っていた。








アタシを抱き締める彼の顔が、どれだけ苦悩に塗れていたかも気付かずに。





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