サヨナラが欲しかった。


でも、こんなサヨナラ要らなかった。





愛をぐ -3






目が覚めると、辺りは真っ暗だった。
涙で濡れた頬は乾き、むず痒くなっている。布団の中から取り出した手でそれに触れた時、指先の傷に絆創膏が巻かれている事に気付いた。

布団に包まれた体は温かくて、もう一度眠りに落ちようと寝返りを打つ。
そこで、いつもは隣にいる筈の彼が居ない事に気付き、一気に眠気が引いた。


「っ春」


小声で名前を呼びながら跳ね起きる。
掛け布団を畳みの上に落として立ち上がると、キッチンへ続く引き戸を開けた。

そこにも、求める姿は無い。


玄関まで行くと、いつも彼が履いている焦げ茶の靴が無かった。
だから一度室内に戻ってコートを羽織り、アタシも慌てて靴を履く。

鍵はきちんと締まっていたから、彼も持っているだろう。そう考えて、玄関扉の鍵を外からきちんとかけた。
カチリ、という音が想像以上に響いたけれど、その後は再び静寂が辺りを包む。


かつり、かつりと踵を鳴らして廊下を抜けると、闇色に染まった空と散りばめられた星がアタシを出迎えた。
思わず吐いた息が、白く空気に溶ける。

見回したアスファルトの道に、人は誰も居なかった。


「何処行っちゃったんだろ・・・」


当ては無いけれど、ここで立ち竦む訳にもいかない。
唯一思いついたのは散歩によく行く公園で、そちらに向かって歩き始めた。








あの日と同じ、闇に沈んだ夜だった。
屋上でアタシを見つけてくれた彼は、支えようも無いというのに指をそっと握り、笑ってくれた。


あの時貰った命の猶予。
その間に、たくさん貰った。貰いすぎてしまった。


だから、もう返すよ。
それに相応しい夜だから。








複雑に絡んだジャングルジムの影の上に、ぽつり、周囲より深い人影が立っていた。
普段は怖くて近寄らないけれど、アタシはそれにぐんぐん近付いていく。


「春?」


問い掛ける声に、人影が微かに震えた。
しんしんと静寂が降り積もる世界の中、アタシの吐く息が空気に溶ける音さえ聞こえそうだ。


手を伸ばせば触れられる距離まで来て、アタシは漸く人影の顔がきちんと見えた。
彼だ。そう思っていたけれど、ほんの少しだけ緊張していた心が一気に緩む。


「目が覚めたら居ないから、びっくりしちゃったよ」


ふふ、と笑って彼のコートの裾を握った。
街頭がじじ、と鳴って灯りを鈍らせる。けれど十分なほど月と星は明るくて、白く照らされた彼の顔は笑おうとして失敗した歪みを模っていた。


「ユリさん・・・」
「さっきはごめんね?恥ずかしいから忘れて欲しいんだけど、駄目?」


おどけて言うと、彼はゆっくりと首を振る。


「駄目です。僕には、とても忘れられないですよ」


だからね、と。
彼は今度こそ、優しく優しく微笑んだ。


「ユリさんの命は、貰いません」


聞き間違いだと思った。


「・・・え?」


聞き間違いで、あって欲しかった。


「長い間縛り付けてしまって、ごめんなさい」


からり、から、からり。
何かが壊れる音がする。


「明日、お家までお送りしますから」
「は、る」
「それから、」
「どうして?」


思わず縋りつくように、彼の両腕を掴んだ。
間近に来た紫の瞳は、深く深く、憎らしいほど澄んでいて。アタシは怖気づいたけれど、それでも言った。


「どうして?あた、アタシの命、貰ってくれるって言ったよね?」
「ユリさん、」
「もうすぐ終わるって、幸せなまま終われるって、思ってたのに・・・!」


彼はただ横に首を振り、子どもを宥める笑みを湛えたままだ。

それに、どうしようもなく苛立った。
あぁ、この人はアタシに幸せを与えておいて、その幸せを奪おうというの?

そう思ったら、感情が溢れて、零れた。


「どうして、どうして、どうして?!アタシの命、貰ってくれるって言ったじゃない!!ひどい、ひどいよ!!!」


そんなアタシを見ても尚、彼は動じない。

悲しそうに、伏せられた睫毛。
けれどすぐに、深い紫の瞳がアタシを見据える。


「生きたいと、願う人から」


願ってない。
貴方の傍に居られないなら、生きていたいとは思わない。


「命を奪えるほど、僕は強くないんです」


くしゃり、と、情けない笑顔。
ずるいよ。このタイミングで、そんな風に笑うなんて。


貴方が優しいのなんて、知っている。
きっと、誰よりも、誰よりも。

その優しさを今、盾にするなんて。
そんな事をされたら、アタシは何も言えないじゃない。


「だから、ごめんなさい、ユリさん」


ぼろり、と、大粒の涙が零れた。

さっきあれだけ泣いたのに、何処から湧いてきたのだろう。
頭の中の冷静な部分でそんな事を思った。


「ユリさんは、もう大丈夫ですよ」


大丈夫なんかじゃない。


「きっと、今度こそ、」


勝手な事を言わないで!
そう言いたかった。アタシの事、何も知らない癖に。知らない癖に!


けれど、見上げた先の優しい笑顔を見てしまえば、もう何も言えなくなる。


だったらアタシはどうすれば良いの。
泣き止めないアタシは、どうすれば良いの。


「は、る・・・」
「あぁ、目が腫れちゃいますよ。そんなに泣かないで」


親指が、涙を掬った。


「は、る、お願いよ・・・せめて、少しで良いから、貴方に何かをあげられないの?」


嫌だ嫌だと心が叫ぶ。
それなのに、唇は勝手にサヨナラの準備を始めた。

彼は、少しだけ驚いたように首を傾げて、けれど苦笑する。


「僕は、ユリさんから奪えないですよ」
「お願い、春」


最後だから、と、ぶつかるようにその細い体を抱き締めた。
しんしん、闇が降り積もる。


「アタシが、あげたいの」


諦めたような溜め息。
とうとう嫌われてしまったのだろうか、そう思うと体が強張った。

けれど、ふわりと体を離して覗き込んできたその顔は相変わらずの優しさで、ひっくとまた一粒涙が落ちる。


「良いんですか?」
「良いんですよ」


口調を真似て、無理矢理笑った。

悩むように、瞼が落ちて紫の瞳が隠れる。
数秒か、数分か。アタシにとっては永遠の時間。


「それじゃあ、」


低い声が耳朶をくすぐった。
紫に、また捕えられる。


「少しだけ、貰いますね」


近付いてくる顔に、瞼を落とした。
唇が、そっと触れる。額に、涙の痕に、頬の線に、そして、唇に。

躊躇うように、啄ばんでは離れる。
ほんの少しだけ動けば触れる距離にあるそれに、けれどアタシはじっとしていた。
柔らかな感触が次第に熱を帯び、血液と共に全身を駆け巡る。アタシがバランスを崩してしまいそうになって彼の背中を強く引き寄せた時、彼の躊躇いが漸く消えた。


強く強く押し付けられ、唇が開かれる。
そして侵入してきた熱い塊はアタシの舌をそっと撫で、絡めとり、そして強く吸った。


「っ」


酸素を求めて喘げば、更に深く深く侵入される。
溢れる唾液を丁寧に舐め取り、吸い上げられる感覚に、アタシは眩暈を覚えた。


「ふ、ぁ・・・」


奪われ、摂られている。
本能がそれを悟り、アタシは恍惚さえ感じる。


もっと、もっとと唇を押し付け、深く深く自分からも潜った。
彼の呼吸がほんの少しだけ乱れている事に気付いたけれど、自分の方がもっとひどかった。




あぁ、このまま、命まで奪ってくれれば良いのに。




最後に強く吸われ、そして唇が離れる。
彼の舌が、名残を惜しむようにそっと唇を舐めた。


「ありがとうございます、ユリさん」


支える力を無くした体を、彼は丁寧に抱きとめる。
遠のく意識、けれどアタシは必死に瞼を押し上げた。


「もう、サヨナラなの?」


請うような、泣きそうな響きだ。
彼は答えず、静かに微笑む。


言われずとも、分かった。
次に目を覚ました時、彼はもう傍に居ないだろう。


なら、せめて。


「ありがとう、春」


伝えたい言葉なんて、幾らでもあるけれど。


「あのね、アタシ本当に幸せだったのよ。手を繋いでお散歩するのも、一緒に料理するのも、お誕生日をお祝いしてくれたのも、話を聞いてくれたのも、全部全部、幸せだったわ」


傍に居たいと泣いて請いたい。
それなのにアタシの口からは、綺麗な言葉しか零れてこない。


「ありがとう、春。好きよ、本当に好きよ、」


暗いのは、闇が深まったからだろうか。
それともアタシが目を閉じてしまったからだろうか。


待って、まだ何も伝えられていないのに。
お願いよ、なんて出来損ないなの、これだけは伝えたいのに。


貴方はアタシの春だったのよ。温かくて優しい、春だったの。


あぁ、伝えられたのかしら。
ごめんね、ありがとう、サヨナラ、大好きよ。

言葉の残響が、ぐるぐると頭の中を回り続けていた。


ねぇ、春。
アタシ、幸せだったわ。








でもね。


サヨナラが欲しかった。


こんなサヨナラ要らなかった。





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