満月は東の空へ 「お前さ、俺がこんなくそ忙しい飲食店の店長になりたいって夢見て目指して今やってると思ってんの?」 ぷはーと紫煙を吐き出した店長は、どかっと事務所の机の上に足を乗っけて火を揉み消した。 それを横目に、考えること一秒。 「思いません」 「だろ」 即答したら、即行で肯定された。 このさばさばした感じが女性的には決断力があってかっこいーらしいが、僕には理解できない。適当なだけじゃないか。 けれど、店長は確か女性の前ではジェントルマンを装っていた筈だ。なるほど、ジェントルマンがさばさば何でも決めてくれるのなら、かっこいーとなるのかもしれない。 つまり店長の周りには、決断能力の低い人間が集まってくるのだろう。と、そこまで考えて、僕も僕で優柔不断なことを思い出した。合掌。 「お前、今失礼なこと考えてただろ」 「失礼なことってなんですか?」 「失礼なことは失礼なことだよ」 「考えてないですよ。失礼ですね」 「ふてぶてしくて可愛くない」 店長に可愛いと言われたところで嬉しくないから、どーも、とだけ返事をした。 日曜の夜。普段はそれほど混まないけれど、今日に限って激戦区と化した店舗のクローズ作業を終えた僕らは、疲れた体を事務所で休ませていた。 だから、魔が差したのだと断言できる。 僕は思わず、家にいる人魚のことを、オブラートに包んで相談してしまったのだ。よりにもよって、適当・いい加減・口が軽い、の三拍子揃った店長に、だ。 茶化してくるかと思った店長は、けれど天井を仰ぎながら二本目の煙草に手を伸ばす。ライターを差し出して火を点けてやれば、さんきゅ、と言われた。代わりに一本くださいと告げて、返事を待たずに取り出す。こら、と小さく咎められたけれど、知らん振りして火を点ければ、甘ったるい匂いが立ち昇った。 ブラックストーンのチェリー。有名な女性漫画家が作中に登場させたこの煙草を吸い始めたのはナンパのネタになるからだ、と彼は豪語している。いつでも、誰に対しても。 けれど、僕は知っていた。重度のヘヴィスモーカーである彼は、仕事中の喫煙を我慢する為に、一度でも吸えば独特な匂いが体に染み付くそれを吸っているのだ。そうやってプライドを持って仕事に臨む彼を憎みきれないから、どれだけ大変でも、アルバイトを辞められないのだった。 「俺だって昔は逆玉の輿にのりたーいとか、ギャンブルで一発逆転してぼろ儲けしたーいとか、色々夢はあった訳よ」 「それ夢じゃないです。欲望です」 「うるせ」 彼は、すぱすぱと一日分のニコチンを補充するように煙草を吸う。まるで生き急いでいるようだけれど、唇には満足げな笑みが刻まれているのだから、それで良いのだろう。 「ただよ、なんか気付いたら学校卒業してて、働き始めたけどなんか仕事が好きになれなくて、なんとなく転職した会社がここでよ。ああいう募集要項ってな、良いことしか書いてねーんだぞ。知ってっか」 「分かってますよ。でも、僕この前やっと就職決まったんですから、そうやって脅さないで下さい」 「ほいほい。まー若い内は苦労しといた方がいーぞ。年とると苦労するのも怠いからな」 そこは素直に頷いておく。 「で、まあ入社してみれば休みは不定だし朝から晩まで働かされるし給料は大して上がらないし、不満ばっかりな訳だ」 「はい」 「けどよ、俺は今の生活が悪くないと思ってる。お前らアルバイターからすれば、もっと待遇の良い会社で働きたいって思うかもしんねぇけどな」 「う………はい」 「素直でよろしい。でも、兎に角俺は悪くないと思ってる。お前はそれを否定するか?」 「いえ、まさか」 即答すれば、だろ、と視線で問われた。こくこくと頷いている間に、またしても紫煙が大量に吐き出されてはぷかぷかと消えていく。 「それと同じだろ」 「何がですか?」 「そいつだよばーか」 そいつとはつまり、僕がオブラートに包んで話したエリサのことだ。けれど、それがどれを指すのか分からずに、思わず眉を顰めて首を傾げる。ここまでの会話を振り返るけれど、疲れた頭は上手く答えを弾き出してくれなかった。 「昔っから決められてた役目とやらを、そいつは納得してんだろ?してないんだったら、どうにかする為に反抗するなりなんなりしてる筈だ。話を聞いてる限り、それが出来ない根性無しじゃなさそうだしな」 「ああ…確かに、そうだと思います。彼女だったら嫌なことは嫌だと言って、自分でどうにかする気がします」 「だから、俺と同じじゃねーか。別に夢見てた訳でもないのにここの店長やってて別に悪かねーと思ってる俺と、やりたいと思ってた訳でもない役目とやらを果たそうとしてるそいつと」 「あ」 だろ、ともう一度念を押される。 「お前がとやかく考えることじゃねーよ」 「………そっか」 すとん、と臓腑に落ちる音がした。 「人生なんざそんなもんだよ。なるようにしかならねぇってか?」 ははっと笑った店長は、乱暴に煙草を揉み消すなり僕の咥えていたそれを奪う。抗議する為に頭を上げようとした。けれど、ハンドクリームを塗りたくってもよくならない荒れを抱えた掌でもって、思い切り押さえ付けられる。 「だから、お前が気にすることじゃねーってこと。分かったらとっとと着替えて来い」 わしゃわしゃと乱暴に頭を撫でられて、思わず肺の辺りが熱くなった。 ああ、本当に、全く。 こういうかっこいい大人がいるから世の中捨てたもんじゃないなって思うし、僕ももうちょっと頑張ろうって思える訳だ。 「はい、店長」 「良いお返事で結構結構。俺のありがたーい話は高ぇぞ」 「知ってます。楽しみにしていて下さい」 「ほいほい、期待しないで待ってるよ」 掌から解放され、更衣室へと向かう。 仕事に入る前はもやもやと煙っていた心の靄は、だいぶすっきりしていた。心なしか体も軽くなった気がして、スキップをしてみる。転びかけて、すぐやめた。 慌てて着替えて飛び出せば、店長は相変わらず紫煙を生産しながら書類と睨めっこしていた。様子を窺えば、帰れ帰れと左手を振られる。いつもは気を遣ってもう少し留まるところだけれど、今日ばかりは勢いよく礼をして外へ向かった。 電源を落とした自動ドアを開けたところで、事務所に傘を忘れてきたことに気付く。戻るのが面倒でそっと前へ手を差し出せば、水は一滴も落ちてこなかった。 「雨、あがったんだ」 長く続いた神様の涙で湿った空気を思い切り吸い込めば、やっぱり肺がきゅうと痛んだ。 それを心地良く思いながら、電車に駆け込み、流れる景色に焦燥を抱く。今度、店長へ煙草を一箱買っていこう。一番ニコチンの少ないやつをあげて、いい歳なんだから体のこと大事にして下さいと伝えよう、なんて考えて気を紛らわせた。 けれど、すぐに思ってしまう。早く、早く駅まで着きますように。願ったところで速度は変わらない。それでも僕は、早く帰りたかった。 電車を降りてからは、全速力で走った。 普段は不気味な薄暗い道さえも、真っ直ぐ真っ直ぐ、愚直に走り抜ける。 そうして辿り着いた玄関扉に鍵を差し込むと、がちゃり、軽やかな音が響いた。 灯りを落とした室内は、相変わらず暗いままだ。カーテンを開け放した窓、そこから入る光はいつもと同じ街頭と家の灯り、そして久しぶりに見る微かな月明かり。 おかえり。凛とした声がした。 答えようと口を開いて、そのまま固まる。 僕は人魚じゃない。だから、人間並みの視力しか無い。それなのに、たらいの中に立つ彼女の素足に、水滴が這っているのが見えた。息を呑む。ただ一つの音も漏らしてはいけない気がした。 「明日が満月みたい」 微笑む彼女は、何かを期待しているようで、そのくせ全てを諦めているように見えた。 ちゃぷ、と水の揺れる音がして、覚束無い足取りの人魚はたらいを出る。 「体の仕組みも人間になっちゃったのかな?ちょっと寒いや」 ぶるりと震える身体に、タオルを渡してやらなければと思った。 慌てて洗面所に向かおうとした僕は、けれどその後の宣言にまたしても固まる。 「という訳で、温泉に行ってみたいな!」 「………は?!」 「温泉って気持ち良いんでしょ?海の底には無いんだーだから連れてって?」 可愛らしくおねだりする彼女に、思わず脱力した。全速力でここまで走ってきた足はもう限界で、その場に崩れ落ちるように座る。 「あのさ、そういうの何て言うか知ってる?」 「ん?分かんない。何て言うの?」 「………無茶振りっていうんだよ」 title *** 意味探し |
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