雨降れ、僕触れ





 甲(契約者)、乙(依頼人)、丙(仲介人)の間で、下記の契約を取り交わすものとする。

一 甲は、乙を満月の晩が過ぎるまで預かるものとする。その際、一切の危害を加えてはならず、また、その存在を他言してはならない。

二 乙は、甲の日常生活に支障をきたす行為をしてはならない。

三 甲、乙は互いに協調し、契約期間を過ごすものとする。尚、相互の認識に差異が生じた場合は、協議のもとこれを解決するものとし、丙は一切の責任を負わないものとする。

四 満月の晩が近づき、乙が人魚から一時的に人間の体へ以降した際、甲と乙は一度以上の性行為を行うものとする。その目的は、甲から乙への精子の譲渡である。尚、行為は双方同意の元行われるものとし、丙は一切の責任を負わないものとする。

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以上の内容に同意し、署名するものとする。



「なんじゃこりゃー!!!!!」

僕は僕の自筆サインがある契約書控えを両手でぐしゃぐしゃになるほど握りしめ、思わず叫んだ。その後すぐに今が真夜中であることを思い出し、慌てて右手で口を塞ぎながら辺りを窺う。
共同住宅で生活する以上は、上下左右に暮らす皆様への配慮が必要である。というのは建前で、要するに揉めたくない。平和に暮らしていたいのである。善良な小市民だから。

ベッドに座って契約書を読みながら百面相する僕は、たらいに頬杖をついた彼女に見られていた。くすくすと笑う青の瞳は、無邪気な光を湛えている。

「だから昨日言ったじゃない。それなら上手くヤれそうだねって」

そう言われて、僕は昨日の会話を脳内で繰り返した。



「あーと……女の子として魅力的だと思ってるよ」
「なんで怒る必要があるの?良かった、それなら上手くヤれそうだね」




……言っていた。
単純に、上手く付き合いながら生活できそうだね、という意味で捉えていたけれど、そうではなかったようだ。

なんだこの僕にばかり美味しい契約!何か契約書には明記されていないデメリットがあるんじゃないか?そう勘ぐってしまう。寿命が縮んでしまうとか、朝起きたら皮膚がしわしわのおじいちゃんになっているとか、魚人になってしまうとか。

「そんな不安そうな顔しないで?とって食おうって訳じゃないんだから」
「そんなこと言われたって、心配だよ!なんかこの契約条件、僕に有利すぎない?」

僕の言葉に、彼女はきょとんとした。丸い目は宝石のようだけれど、確かに意志を持っている。
不意にそれが細まって、にやにやとした笑みを象った。僕は思わず、一歩離れる。攻撃がくる気がしたのだ。
そしてそれは、見事に当たった。

「ふふーん、それを有利な条件って思ってくれてるってことは、私とエッチしたいんだぁ?」
「ちょ、ま、な!人生で一度会えるかも分からない人魚とお喋りできたりしてラッキーって思ってるんだってば!」

綺麗な顔でそういうこと言わないでよ頼むから!
あわあわと慌てながら、頬に熱が集まるのを感じた。僕の方が女の子みたいだ。

「えー、本当?見ず知らずの人魚が一週間も居候する生活だよ?色々すけべなこと出来てラッキーとか思ってないと、有利だなんて言えないんじゃない?」

そうなんだー?と上目遣いで詰られて、完全に顔が赤くなった。シャイボーイでもあるまい、こんなこと位で動じてしまうなんて!不本意である。非常に不本意である!

「そ、そりゃ僕だって健全な男子だし!エリサみたいな綺麗な子がいいよって言ったら食べたくもなるでしょ?!」
「あ、開き直ったー」

くすくすと大人っぽく笑うエリサは、からかいすぎちゃった?と小首を傾げる。その拍子に胸の谷間が深まった様子をしっかり見てしまった僕は、うわぁと叫んで布団の中へと退避した。

「と、とりあえずエリサなんか羽織って!」
「はぁい。じゃあブランケット借りるね?」

流石にやりすぎたと思ったのか、彼女は素直に承諾してくれた。ごそごそという音に、僕は思わず溜息を吐く。
今までそれなりに女の子と付き合ってきて慣れている筈なのに、彼女にはペースを崩されっぱなしである。情けないところばかり見せていて、男のプライド的なものは微塵も残っていなかった。

「はい、羽織ったよ」
「うう、ありがとう」

恐る恐る布団から顔を出すと、宣言通り、彼女はチェック柄のブランケットを上半身に巻いている。その姿にほっとして、のそのそと布団から這い出た。申し訳ないけれど、僕が落ち着くまではそのままでいて貰おう。

「ええと、なんの話をしてたんだっけ…」
「契約内容の話。とにかく、満月がきて私の体が人間仕様になったら、一度で良いから相手してね?」
「…エリサは良いの?」
「もちろん。その為に来たんだから、当たり前でしょう?」

綺麗な形に弧を描く唇が、笑みを作る。それはとても穏やかなもので、だからこそ聞かずにはいられない。

「でも、会って何日も経ってない男に抱かれるなんて、嫌じゃないの?」
「じゃあ君は、会って何日も経ってない女を抱くのは嫌?」
「…質問に質問で答えちゃ駄目って小学校の先生が言ってた」
「うん、そうだね。ごめんなさい」

ほんの少しの影を孕んだ声で、彼女は言った。流れるように瞼が閉じて、その青色が見えなくなる。そうすると彼女は途端、触れるのを躊躇うような厳粛さを纏った。それは神聖なものにひどく似ている気がして、僕は気付かれないよう息を潜める。

そしてふと、眩しいことに気付いた。
そうだ。契約書を読む為に電気を点けているのだ。ここ数日は夜でも間接照明しか使っていなかったせいか、この時間でこれだけ明るいことに違和感を覚えた。
なるべく空気を揺らさないように立ち上がり、ドアの近くにあるスイッチを落とす。慣れるまでと彼女を真似して目を瞑ったら、ぱたぱたと雨の落ちる音が鮮明に聞こえてきた。
海の中はどんな場所なんだろう。雨が降っている時はどんな音がするのか、聞いてみたいと思う。

「昔からそれが当たり前だと思ってたから、嫌じゃないよ」

ぽつりと落ちた言葉に、僕は時間の感覚を失った。
今は真夜中。ここは僕の家。目の前にいるのは、エリサ。そう、僕が聞いた質問へ、彼女は答えたのだ。
一つ一つ確認をして今を手繰り寄せると、静かに瞼を押し上げる。すると、青色とぶつかった。
驚いて目を見開いたけれど、すぐに彼女の瞳だと気付く。薄闇の中で僕をひたと見つめる人魚は、淡く青く浮かび上がっているように見えた。

「当たり前?」
「うん。当たり前なの。私は王の子だから」
「どうして当たり前なのか、聞いても良い?」
「うん。あのね、私達は生きる時間が長い分、生殖能力がとても低いの。だから、一代に一人、人間と交わってその命の種を貰っているのよ」
「それは、王の子の役目なの?」
「そうだよ。王家には他にも色々と役目があるんだけど、私の役目はこれ。人間の男の人との生殖行為をして、子どもをたくさん生むこと。私達は地上から海へ追いやられてしまった種族だから、人間の血を入れることは生き残る上でも必要なの」


フェアじゃないからこれも話しちゃうね。君は聞きたくないかもしれない。
そう言ってもう一つ告げられたことは、確かに僕を動揺させた。


ぶるりと震える体で、漸く室温の低さに気付く。けれど、彼女のいる部屋を暖房で温かくする訳にはいかない。僕は無言でキッチンへ向かうと、薬缶を火にかけて珈琲の準備をする。

その間に、考えた。

僕は契約書に従うだろう。契約内容を守らなければ仲介人から制裁がある、と書いてあった。あのチシャ猫の制裁だなんて、考えるだけで恐ろしい。何か粘着質で決定的な嫌がらせをされそうだ。
そして彼女は、何がなんでも目的を果たそうとするに違いない。けれど、僕が消化できないもやもやを持ったままでいれば、きっと負い目を感じるだろう。それはそのまま、いつだって明るく振舞う彼女に黒い染みを残してしまう気がした。


でもさ。平凡な大学生にはちょっと重すぎるよ!
この話を聞いて、ふうんそうなんだーいい女を抱けてラッキーなんて思う男がいたら、僕はそいつを殴り飛ばしてやりたい。実際は逆に殴り飛ばされると思うけどさ。
そういう意味では、彼女が僕の元に来てくれて良かったのかもしれない、と思った。なんて傲慢な考え。
ああ、自己満足だ。結局僕が彼女に負い目を感じて欲しくないと思うのだって、僕自身納得した上で契約を履行したいと思うのだって、自己満足だ。

考えるほどどつぼに嵌る僕を引き戻すように、ぴーぴーと警笛を鳴らす音がした。意識を浮上させると、薬缶から湯気が立ち昇っている。火を消してマグカップへお湯を注げば、淡いながらも独特の香りがして、冷静さを取り戻す手助けをしてくれた。
一口飲んで、溜息を一つ。そして、暖を取る為に両手でカップを持ちながら部屋へ戻った。

扉を開ける音に反応して、彼女の肩が微かに震えた。それが鮮明に分かったのは、肌が剥き出しの背中がこちらを向いているからだ。すとんと落ちた黒髪を揺らして振り返る様子が、残像のように目に焼きつく。
青の瞳は、置いてきぼりを喰らった子どものような色をしていた。ごめんね、ちょっと寒かったからさ、と湯気が昇っては解けるマグカップを示してやれば、ほっとしたように笑う。
その様子が妙に幼くて、思わず頭を撫でる為に手を伸ばした。

「あのね、」

たらいの傍に膝をついて目線を合わせれば、彼女の指が僕の服を掴む。

「ごめんなさい」
「なんで謝るの?最初に言ったじゃん、こんなに僕に有利な条件で良いの?って。だからそんな泣きそうな顔しないで、ほら」

マグカップを床に置いて、両手で彼女の頬を包んだ。予想以上の冷たい感触に怯みそうになったけれど、堪えた。唇の両端に親指を置いて、無理矢理吊り上げてやる。強引に笑った顔にされて、彼女は目尻を緩めた。

そうやって行動している僕を、他人事のように見ている僕がいる。
この場所に来れば大丈夫。さっきは僕の中に僕がいたから慌てて顔が赤くなったり焦ったりしたけれど、一歩引いてさえいれば、大抵のことは落ち着いて対応できるのだ。

「ねえ、キスして?」

間近に見上げられても、鼓動は早まらない。今まで付き合った恋人達に相対した時と同じだ。
だから僕は、彼女達に振られ続けたのかもしれないと気付いた。この距離が、虚しさを抱かせていたのかもしれない、と。
そして、何の構えもなく無防備な時に現れた人魚は、防ぐ間も無くするりと傍にやってきた。そのせいでペースを乱され続けてきたののだ、ということにも気付く。

「いいの?」
「して?」

少し迷った僕は、左手で彼女の前髪を除けて額に唇を落とした。
ぱたぱたと耳に残る雨音に混じり、彼女の吐息が聞こえる。そういえば、海中では酸素をどのように得ているのだろうか。人魚の体は不思議がいっぱいだ。

「もっと下」

拗ねるように言われ、今度は鼻のてっぺんに。
意地悪してるの?内緒話をするように問われ、そうかもね、と余裕を見せ付けるように小さく笑ってやった。

驚いたり、心配したり、笑ったり。彼女が来てから、素の自分でいる時間が随分と長い気がする。それも悪くないな、次に誰かと恋に落ちた時はこんな風でいたいな、なんて思う僕がいて、思わず笑みを深めてしまった。

「君は案外ひどい男なのね」
「嫌いになった?」
「ならないよ」

たらいの縁に手をついた人魚が、伸び上がって顔を近付けてくる。

「だって、好きじゃないもん」

押し付けるようにキスされた。

僕らは恋人なんて甘くて苦い関係にはなり得ない。
だから、好きにならない。嫌いにもならない。それで良いのだ。

「うん」

分かっているよと伝えたくて、ゆっくりと頷く。笑みは深いまま。
すると彼女も、同じように微笑んでくれた。

ぽたぽた、ぽたぽた。
世界を滲ませる雨は、まだ止まない。


満月まで、あと何日あるのか。調べようと携帯電話のフリップを開いたけれど、すぐに閉じた。そわそわしながら待つのも悪くない。
ただ、僅かな星が瞬く空を恋しく思った。



title *** 覆いかぶさる夜の影



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