夢見る湯けむり慕情 人間との子どもを産むのってね、凄く体力を使うんだって。私の寿命を縮めるくらい。 いつかの夜にそう言っていた人魚は、安らかに、そして満足げに瞼を落としていた。頬にかかった黒髪を、起こさないようそっと除ける。月光と微かな町灯りに照らされた彼女は、もう厳粛さを纏っていなかった。にへらと緩む口元を、人差し指でつつく。 そりゃ満足してくれてなきゃ困るよね! 温泉に行きたいとおねだりされた瞬間、僕は文明の利器達に心底感謝した。 ネットで海に近い温泉街(いつ人魚に戻っちゃうか分からないから)、車で行ける範囲(あまり上手く歩けないらしい彼女に電車移動なんて強いれなかった)、居室にも温泉がついている宿(女湯に一人でいけるか分からなかったから、一応!一緒に入りたいなんて邪な気持ちがあった訳では断じてない!)、を調べて予約し、レンタカーでここまでやって来たのである。 宿に着いた僕達は、温泉饅頭を頬張りながら土産物屋をひやかし、古びたゲーセンで散々遊び、胃がはちきれそうになるまで夕飯を食べ、温泉に入り、宿のカラオケでマイクを独り占めし、知っている民謡を端から歌ったりした。 温泉旅行に来てここまで精力的に遊んだのは初めてかもしれない。正直、疲れた。 はあ、と溜息を一つ落とすのに合わせて、隣で眠る彼女が小さく震える。苦笑しながら剥き出しの肩へ布団をかけ直すと、もぞもぞと居心地の良い場所を探して動き始めた。そして僕の体温に誘われるように身を寄せてきたから、そっと抱き込んでみる。 愛しいな、と素直に思った。 好きでもない。嫌いでもない。でも、愛しいな、と。 それは指先がぽかぽかとするような、心臓をきゅっとつままれるような、なんともいえない気持ちだった。 例えば紺色の空が淡い水色に書き換えられ、橙色の光が差し始める日の出だったり、嘘みたいな量の花びらが降る桜並木だったり、金網にしがみ付いた産まれ立ての蝉だったり、深紅というのを体現した紅葉だったり、吐いた息が真っ白に染まる様子だったり、水平線に消える大きな橙色を紺色が塗り潰していく落日だったり、そういうのを見た時と似ている気がする。 そう思った自分の気持ちを静かに分析した。 ああ、うん。 あまりにも綺麗で、圧倒されて、僕の手には入らないけれど、手に入れたいとちょっとだけ思ってしまったものに対する畏敬の気持ち。 それが一番近い気がした。 今は腕の中に在る彼女の額へ口付ける。 ほんの少し、もうすぐ終わる時間の中でだけ、僕が手に入れてしまった人魚。 「…もっと下」 「あれ、起こしちゃった?」 「…んーん、まだ起きてない。お姫様は王子様のキスで目覚めるのよ」 「エリサはお姫様だけど、僕は王子様じゃないよ?」 寝ぼけているのか、わざとぼけているのか、目を瞑ったまま唇の端を緩く上げて囁く彼女に屁理屈で応える。 すると、細い指が僕の背中の皮膚を思い切り抓った。 「っ!」 「君はいちいち屁理屈ばっかり。そんなんだからもてないのよ?」 「…色々ヒドイ」 「まあ、私も屁理屈こねてばっかりだけど」 相変わらず、目は瞑ったままだ。それでも彼女は僕と目を合わせるように顔を上げ、小さく首を傾げて見せる。 「お姫様と結ばれる人は、いずれ王子様になるじゃない。だから良いのよ」 その屁理屈に、思わず噴出した。 「確かに」 「でしょ?だから早く、私を起こして?」 「了解、僕の人魚姫」 肩を揺らしてくすくす笑い合ってから、ゆっくりと口付ける。少し離れてそのまま見つめていると、瞼が持ち上がり、深い青色が僕をとらえた。薄暗い部屋の中で、その色だけは鮮明に見ることができる。 「ね、人魚って深海魚に分類されるの?」 「んーどうなんだろう。なんで?」 「暗い場所でもエリサの目の色がよく分かるから、発光してるのかなって。ついでにレーザービームとか出ないかと思ふがっ」 今度は鼻を潰すように、顔全体を平手でぶたれた。しかも思い切り、だ。 「出ないよ、失礼ね」 「痛い…」 「君がいけないんじゃない」 「痛い……」 「…えっと、ごめんね?」 痛がる振りをしていたら、強気だった彼女も次第に心配顔になった。細い指先が恐る恐る伸びてきて、痛がる僕の顔の線を撫でる。これでうっそーとか言ったら本気で怒られそうだから、しばらく黙ってされるがままになった。 未来へと続くなんでもない日々の連続に不安を覚えた帰り道は、いつのことだったか。こんな人生も悪くないじゃんなんて、彼女の指にくすぐったさを覚えながら思う。 なんでもなくたって、こうしてたまに楽しかったり幸せだったりして笑っちゃうようなことがあるのだ。これ以上、何を望むというのだろう。 ふと気付くと、じっと見つめられていた。真剣な様子に、何か言われるのかと身構える。 「もう痛くない?」 「うん、大丈夫だよ」 「じゃあさ、」 ほんの少し、考える間が空いた。青色が、一度横に逸れ、再びこちらにくる。 言いにくいことなのだろうか? 「じゃあさ、」 「うん」 「もっかいお風呂入ろ!」 けれど、少し皮の剥けた唇が紡いだのは、可愛いわがままで、とても魅力的な提案だった。 「いいよ。温泉は気に入った?」 「うん!お姉様達に自慢するんだー♪あと生まれた子達にも」 子ども、という響きにほんの少しだけ心が痛くなる。 そんな僕とは裏腹に、彼女は愛しげに自身の下腹を撫でていた。どういう仕組みになっているのか分からないけれど、今後、彼女は自身の望む限り出産ができるらしい。 それは彼女の命を縮める行為だというのに、何故そんな風に穏やかな顔をしていられるのだろうか。僕には一生理解できなくて、それでも一生考え続けだろう。そんな確信にも似た予感があった。 「怖くないの?」 「何が?」 「子どもを産むの」 「怖くないよ。君の子だし」 さらりと零れた言葉に、鼻の奥がつんとする。 そう言って貰える僕で良かった。 だって、彼女がこの数日間を思い出す時、優しい気持ちになってくれたらいいな、と。祈りながら、僕は彼女に触れたのだから。 障子の向こうは、まだ真っ暗だ。眠る町の灯りは微かで、海は底無しの闇のようだろう。それを眺めながらもう一度温泉に浸かって、そしたらさよならの準備を始めようか。 先程僕に触れた指は、数時間前より体温が落ちていた。 きっと、人魚に戻る時間が近付いているに違いない。 「じゃあ、浴衣を探すからちょっと待ってて」 「え、なんで?」 「なんでって、服着なきゃ大浴場まで行けないじゃん」 「お部屋のすぐ外にあるじゃない。そこじゃ駄目なの?」 「あ、そっか。この部屋、露天風呂ついてるんだった」 「一緒に入ろ!」 「…仰せのままに、僕の人魚姫」 予想外の言葉に慌てふためくのを堪え、努めて普通にそう告げた。 そして腰がぐぎっとなるのを覚悟しながら彼女の体をお姫様抱っこすると、さくさくとバルコニーにある露天風呂へ浸かってしまう。 嬉しそうに笑う彼女は湯船の縁に頬杖をつき、ただただ漆黒が続く海を眺めた。 「もうすぐ帰るのかー」 「お姉さん達、心配して待ってるだろうね」 「うん。でも、もうちょっとこっちに居たかったな」 あのドラマの続き、どうなるのか気になるな。おどけて肩をすくめた拍子に、はらり黒髪が落ちる。僕はその合間を縫って腕を捕まえると、柔らかな体をそっと引き寄せた。 「ね、エリサ」 「なぁに?」 「ありがとう。君が来てから、毎日楽しかった」 すぐに逃げ出せるくらいの弱さで、後から抱き締める。肩口に鼻を埋めてそう囁けば、うん、と弾むような返事があった。 「それは私の台詞だよ?お姉様達にも妹達にもこの役目を譲らないで良かった」 「そっか」 「うん。だから、」 腕の中で振り返った彼女は、こつりと額を合わせてくる。 溢れたお湯が流れ落ちて、ぴしゃりと床に響いた。ひゅるりと風の音。海の向こうからは、ごうと何かが鳴る音。それよりも彼女の鼓動が傍にあって、やっぱり愛しいな、と心が温かくなる。 「ありがとう、ツバサ」 バスケ部のキャプテンをやっていた高校時代、なんでサッカー部じゃないんだよとみんなから笑われた名前。彼女に呼ばれたその響きは、僕の記憶の中で特別な位置に納まった。 どういたしましての代わりに、今度は僕から口付ける。 お返しのように、一粒だけ、青の瞳から透明な雫が零れ落ちた。 それを指の腹で掬いながら、もう一度だけ祈る。 こうして触れたこの記憶が、彼女の中で優しいものになりますように、と。 夜明けはきっと、もうすぐだ。 title *** 濾過された思考 |
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