青銀 水中で暮らす人魚にとって、秋の長雨と共に冬へ向かって冷やされていく空気は、とても心地良いものらしい。 窓の無い浴室はつまらないと口を尖らせて言われた僕は、居室を片づけ水をはったたらいを窓辺に置き、彼女をそこへ移した。抱き上げた時に腰がぐぎっといきそうになったのは、秘密である。 もう一度言う。寒さを増した秋の気温が、彼女は心地良いらしい。 だから、僕が肩にかける為のショールや上半身を覆うことのできるシャツを勧めても、彼女は暑いまどろっこしいへばりつくいらない、とすげなく断ってきた。 つまり、だ。 曲がりなりにも健全な成人男子である僕は、キャミソールワンピースという生地が薄く肌の露出が多い布を一枚まとっただけの女の子と一緒に過ごさなければいけない訳である。 拷問か。試されているのか。幸い下半身が魚であるから一夜の過ちにはならないだろう。それにしたって理性がいつまで保つか、気が気では無かった。 …人魚という未確認生物が身近にいるのに、人間の女の子が部屋にいる時と同じ葛藤をしている自分が情けないが、まあそんなのは些細な問題ということで片づけた。 参ったな。 そう思いつつ、この状況を楽しんでいる自分もいるのだ。 青銀に輝く彼女の鱗は、夜になると暗闇へ紛れ紫を孕んだ。出会ったことのない色に、僕はぼうっと見蕩れる。 いい?と聞けば、いいよと返ってくるから、掌を伸ばす。 傷つけないようそうっと指の腹で辿ると、人魚はくすぐったそうに小さく笑った。 重なり合う鱗は僅かな凹凸を感じさせるだけで、とても滑らかだ。ノートパソコンの平らなキーボードを撫でるような感触で、けれど確かに息づいている。ようく探ると、微かな体温もあり、この不可思議な魚の尻尾が、確かに彼女の体の一部なのだと分かった。 たらいの水は冷たく透き通っている。手を丸めて掬い、そっと鱗に注ぐと、さらさら弾け流れ落ちた。 面白い?と聞かれたから、面白い、と答える。調子に乗ってそのまま皮膚と鱗の境目もなぞると、今度は「すけべ」と小さく小突かれた。なんでだ。 「ねえ、君がそうして触るのは、人魚が珍しいから?それとも私が女の子として魅力的だから?」 「……全世界の男代表として聞くけど、どうして女の子って、僕らより大人なの?これは普遍の真実?人魚の世界でも同じ?」 「んー、確かに私、お父様のことも可愛いと思う時があるから、普遍化しても良い気はするよ。で、どっち?」 はぐらかそうとして、失敗した。先ほどの葛藤を見透かしたような質問に、僕は思わず目を泳がせる。 「もう一度触ってもいい?」 「勿論」 すけべと詰った割に、彼女は快諾して足…足?を差し出した。 そっと辿る。背中に落ちる黒髪がふわふわと揺れ、くすぐったがるような震えが伝わってきた。 いいだろう、僕の負けだ。 確かに僕は、返ってくるこの反応込みで彼女のことが可愛いと思ってる。 「怒らないで欲しいんだけどさ」 「うん、勿論」 「あーと……女の子として魅力的だと思ってるよ」 「なんで怒る必要があるの?良かった、それなら上手くヤれそうだね」 「…何を?」 「……仲介人から契約内容聞いてないの?」 「………仲介人て誰?」 「黒ずくめの男と話をしなかった?」 「した。あいつか………そういえば、人魚…君を満月の夜を過ぎるまで預かる、しか把握してないや。契約書、持ってくる?」 「…いや、もう寝る前だしいいよ。また明日、その件については確認しよう」 彼女がそう言うのなら、明日で構わないだろう。 了解、と小さく返し、そして何の話をしていたかを思い返した。 「ええと、うん、そう。君のことを可愛いと思ってる」 「エリサ。名前で呼んで欲しいな」 「なんか恥ずかしいんだけど」 「話がまた逸れるから諦めて」 狭い浴室で初めて会った時の直感は、見事に当たっていた。勝てない。 分かったよと溜息混じりに答えた僕は、エリサが話を逸らしたんじゃないか、と指摘するのを我慢した。明日もバイトだから、あまり話を長引かせて夜更かしする訳にもいかないのだ。 「それでね、エリサ。申し訳ないんだけど今僕は、人魚が部屋にいるっていう事実より、女の子が部屋にいるっていう事の方に戸惑っている」 「そう。頑張って」 「何を?」 「分かんない。励ました方が良いかなって思っただけ」 「……続けるよ。だから、気を悪くしないで欲しいんだけど、エリサのこと、変な目で見てたらごめん。気になったら怒ってね」 素直にそう言うと、彼女は小さく吹き出して笑いだした。 そんなに笑わなくたって良いじゃないか。僕だって普通の男で最近は右手が恋人だったんだから、いきなり彼女のような存在が側にやって来たら、どうすれば良いか分からないのである。 ここ最近はずっと就活とバイトのことしか考えていなかった訳で… 心の中で色々と言い訳をしたけれど、彼女に言うつもりが無い以上は不毛なことだから止めた。 黙り込んでしまった僕が気を悪くしたと思ったのだろう、彼女はごめんごめんと笑いを堪えながら言う。そして、笑いすぎて青の瞳に滲んだ涙を人差し指で掬いながら、あのさ、と話を切りだした。 「例えばね、私が君の彼女になって、これからずっと一緒にいよねって約束したとして、君は何を考える?」 「んー、そうだなあ。一緒に何処へ遊びにいこうとか」 「この体なのに?」 首を傾げ、鱗が示される。蛍光灯は眩しいらしく、夜は灯りを落としていた。薄暗がりの中でも輝くその色に、僕は目を細める。 「あー、そっか。何処にも行けないから、部屋の中で楽しく過ごせる方法を考えなきゃいけないね」 「友達には紹介できる?家族は?」 人魚が彼女になりました、なんて余程信用のおける友達にしか話せないだろう。家族?家族に話そうものなら、正気を疑われるかもしれない。実際会わせて納得してくれたとしても、それはそれで世間体云々の話とか、孫の顔は見れるのかとか、そういう面倒な話になるに違いない。 人魚の女の子と人生を共にすると考えると、それは途方もない覚悟が必要に思えた。 僕が百面相しながら考えている内容を、正しく推測しているのだろう。 ほら、と囁くように告げた彼女は、たらいの縁に腕を組み、そこへ形の良い顎を預ける。 「今のこの状況、つまり人魚という不思議な生き物と生活するというのは、君にとって一過性のものにすぎない」 「うん」 「それよりも、女の子が部屋にいるという非日常の方が、余程現実的で今後の人生にも関わりのあるものだわ。だから、ついそちらに気を取られてしまう」 ぱしゃり。尾鰭が軽く水面を叩き、違うかな、と上目遣いで問われた。 僕はしばらく無言のまま、その言葉の意味を咀嚼する。 言われてみれば、そうかもしれない。 「確かに、そうかもしれない」 「でしょ?私としては、目的が達成できればそれで良いの。身請けしてくれる人間が私好みの人じゃなかったらどうしようって不安だったけど、君で良かったって素直に思ってる。だから、君は私にあまり気を遣わないで?」 「目的って?」 「それはまた明日、契約書を確認しながらにしよう。ほら、もう寝なくちゃいけない時間でしょ?」 彼女に促されて時計を見ると、時間は午前二時を回っていた。 うわっと思わず声を上げて、僕は布団の中へ潜る。 電気をつけていないから、カーテンはレースのものしかしめていない。ぱたぱたと耳障りではない音をたてながら落ちる雨粒の覆い。その向こうから、路地を照らす街灯や近所の家の灯りが漏れていた。それを頼りに彼女の顔を見やり、小さく笑んで見せる。人魚は夜目がきくと言っていたから、きっと見えただろう。 「おやすみ、エリサ」 「おやすみなさい」 心地よい声は、眠りへと向かう僕の背中を押す。 彼女がやって来て数日しか経っていないというのに、自分のこの適応能力へ拍手を送りたいと思った。 ああ、秋の明け方は冷える。彼女は必要無いと言うけれど、たらいの横にブランケットを置いておけば良かったかな。 思考とは裏腹に、僕はずぶずぶと夢の中へと潜り始める。 ぱたぱた、ぱたぱた。 視界の隅でもう一度だけ、青銀が煌めくのを見た。 title *** アクア・アメージング |
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