チシャ猫のいる列車 「つまり貴方は、非日常が欲しい訳ですね」 「は?」 黒衣の男は、気付かぬ間に隣へ座っていた。 思わず声を上げてしまったけれど、果たして自分への言葉だったのだろうか。不安に眉を下げながら横を見ると、にいと細まって笑う目としっかりぶつかった。思わずぎょっとしたけれど、押し隠してへらりと笑い返した。こういう所が小心者だと自分でも思う。 「こんばんは。お仕事帰りですか?」 「はあ…バイト帰りですけど」 「そうですか。ご苦労様です」 「ありがとうございます…」 話しかけられる理由が分からないまま、とんとんと会話は進んだ。 がたん、ごとん。僕の困惑など全く関係なく、規則正しく列車も進んでいる。緩やかなカーブに差し掛かり、先頭車両が窓の向こうに見えた。線路も車体も暗闇に紛れている。そのせいで、等間隔に並ぶ四角い窓から漏れる灯りだけが、前に向かって動いているように見えていた。 がたん、ごとん。昔観たアニメーション映画で、こんな場面が無かっただろうか。視界にある景色は妙に懐かしく、どこか現実離れしていた。このまま見知らぬ場所、例えば妖怪が住む町に連れて行かれてしまうのではないか、と、妙な恐怖を抱く。 「非日常が欲しいんでしょう?良いじゃないですか」 男が僕の胸の内を読んだ風に言った。それに違和感を覚えず、返事をする。 「自分の身が危険になる非日常なら欲しくないです」 考えが筒抜けであることをまるで当たり前のように思っている僕がいる、と認識している僕がいて、それはおかしいぞと警鐘を鳴らす僕もいた。僕がゲシュタルト崩壊する。僕って何だ。 「では、日常を守れる範囲の非日常なら良いと?」 「はい」 「それはそれは…」 含みのある返答に、いらっとする僕がいる。 「何か問題がありますか?」 「いえ、ありませんよ」 むしろ好都合、と、舌なめずりをした男を見ているのも僕だ。それに対して嫌悪感を抱いているのも僕だし、何か非日常をくれるんじゃないかと期待しているのも、この席を立って別の車両に移動した方が良いんじゃないかと思っているのも、したり顔で男と会話を続けているのも僕だ。 沢山の僕。果たしてどれが本当の僕なんだろう。 「では、少しの間、人魚を預かって頂けませんか?」 「人魚?」 「ええ。アンデルセンの童話は読んだことがあるでしょう?上半身は人間、下半身は魚のあれです」 「なんで僕が…」 「だって、非日常が欲しいんでしょう?」 唐突に提示された非日常に、僕は躊躇いを示した。 ああ、ほら。安全な「いつも通り」を毎日選んでいるから、いつまでも変わらない日々なのだ。と、僕を挑発する僕がいる。 そして。それに乗る僕がいた。 「欲しいです。分かりました。預かります」 唇から滑り出た言葉に、僕自身が驚く。 けれど取り消しなどできる筈がなく、知らん顔で会話が進んだ。 「ありがとうございます。なに、一週間ほど面倒を見て頂くだけですから、さほど難しいことはありません」 「分かりました」 「では、この契約書にサインをお願いします」 鞄から取り出す気配など無かったのに、男はひらりと紙とペンを差し出してくる。 それを受け取りながら、契約なんて簡単に結んじゃあいけないと戒める僕と、人生には冒険が必要だと勢い良く背中を押す僕がいた。 さらさらさら。このペン書きやすいけど高そうだ、なんて他人事のように考えながら、僕は僕の名前を書き終える。 ではお預かりしますね、契約書の控えは荷物と共に送りますから、と男はしたり顔で僕の手から紙とペンを受け取った。 「…荷物?」 「ええ。では、失礼します」 がたん! 大きな揺れにはっと顔を上げると、動きを止めた列車の扉がぷしゅうとやる気なく開いていた。 見慣れた名前は、仲間内でよく利用する居酒屋がある駅だ。降車駅が次であることを確認して、僕は胸を撫で下ろす。 ふと隣を見遣れば、くすんだ緑色の座席がひそやかに座る人間を待っていた。逆隣も然り。 にいと不思議の国にいる猫のようにいやらしく笑う黒衣の男など、跡形もなく消えている。 「………夢か」 そう結論づけるのが順当だ。 人魚だなんて、突拍子が無さすぎる。何より現実にいる訳がないじゃないか。 ぽりぽりと額をかきながら、夢見がちな自分を案外可愛いじゃんなどと茶化し、温まった座席と太股の間に手を滑り込ませる。列車を降りた後、寒空の下を歩く為の準備だ。 扉がぷしゅうと閉まり、列車が線路の上を滑り出した。 外を見れば、街灯や家々の窓からこぼれる光が溢れ、いつも通りの景色が流れていく。 別の世界に到着する訳が無いのだ。 我ながら本当に変な夢だった。 明日、誰かに話そうか。気になるあの子にメールしてみるのも良いかもしれない。 そんな風に考えながら、いつもの駅に到着した列車を降りて、僕は欠伸をするのだった。 title *** レム睡眠の永遠 |
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