ハロー、モラトリアム





たった一本の電話で、僕の就職活動は呆気なく終わった。
採用が決定しました。改めて通知の文章を送付します。必要な書類に署名捺印、返送して下さい。入社前の研修については後日連絡します。
事務連絡を淡々と告げてくる女の人の声に、はい、はい、と事務的に返事をした。そうして通話を切った瞬間から、僕の最後のモラトリアムが始まったのだ。

何をしようと周囲を見渡せば、友人たちは就職活動を続けているか、恋人との逢瀬を楽しんでいるかのどちらかである。遊ぼうにも、声をかけづらい。
書き損じた履歴書を破りながら、就活が終わったらあれがしたいこれがしたいと念仏のように唱えていた筈なのに…いざ終わってみると、「やりたいこと」がこれっぽっちも思い出せない僕がいた。

そして考えた。今後何かをしたいと思った時、まず必要なのは資金だろう。世知辛いことだが、それが世の中の道理である。仕方ない。
久しぶりにバイト先へ連絡をすると、店長が一日八時間勤務で十連勤という涙が出そうなシフトを作ってくれた。僕を含むアルバイター連中が優秀だから今はなんとかなっているけれど、あの男はこの先絶対に痛い目を見ると思ってる。むしろ見てくれ。でなければこの苦労が報われない。

…僕らが苦労してなんとかしなければ良いんじゃないかな、とも思う。けれど、結局はみんな、店がきちんと回っているか気になってしまう善良な一般市民なのだ。だから、さぼったり、手を抜いたり、などできる筈もなかった。
むしろ、長期間休んでいたせいで辞めた扱いになっていなくて良かった、と胸を撫で下ろす小心者の僕は、シフトの通り昼過ぎから夜遅くまで、毎日毎日働き続けたのだった。



「うわ、月がほっそいな」

そう呟いた息は、電柱からの灯りに照らされて白く解ける。深く息を吸うと肺がきゅうと痛む、そんな秋の夜。
星は数えるほどしか見えないから、脳内補正しながら黒になりきれない空を見上げて歩いた。一日中立ち続けていた足はぱんぱんで、早く温かい湯船に浸かり労ってやりたい。その後ビール…は高いから、発泡酒を開けて、窓から入る風に当たりながら飲めば、ちょっとは秋っぽくなるに違いない。
なかなかの妙案に、つい唇の端を上げ、笑ってしまった。


けれど、ふと思う。
バイトをして、お金を貯めて、きっと春にはみんなで旅行して、就職して、社会人になって、毎日働いて、毎日疲れた足を引きずって帰って、休みの日には寝過ごしたりして。
きっと、今までがそうであったように、これからもなんでもない日々が続いていくのだろう。

では、僕が僕として生まれてきた理由はあるのか?この人生は、僕の代わりに誰が歩いたって支障がない。

「って、何考えてんだろ」

思春期に誰もがぶちあたる壁へ再びぶつかろうとする自分に、今度は苦笑した。
にきび面が嫌いで膝を抱えながら、あの頃は何度も問答したそれ。今では、十分な答えなんて出る筈がない、そんなことを考えている暇があったらネットサーフしてた方がまし、という結論に至っている筈なのに。

「どうしたんだろ、今更」

言葉は先ほどと変わらず、空気に解けるだけだった。


残り少ないモラトリアムを、バイトに明け暮れている自分が不安になったのだろう。きっとそうに違いない。
そう結論づけて、僕は家路を急いだ。こんな日は、いつもより多くアルコールを摂取して、眠ってしまうに限る。

そう思ったのに。

アパートに着き、鍵穴に鍵を差し込みながら、それでも僕は考えてしまう。
例えば扉を開いた向こうに、全く知らない世界が広がっていたとしたら。

そう、僕では代わりになれない物語があるように、僕の為だけの物語があれば良いのに、と。願ってしまうのだ。



title *** 僕では代わりになれない



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