誰も傷つかずに丸く収まるのなら、それで良いと思っていた。
例え彼を忘れてしまったとしても、また思い出を作っていけば良いのだから。


けれど。
彼が誰かを傷つけ、その事実にまた傷つくのなら。


その相手は自分が良いと思った。





愚者のり物






彼と男の間に思わず飛び込む。
背中に何かが刺さり埋まる感触がした。その勢いを生かし、目を見開いた男に抱きつく。無理矢理口付けた。


以前は彼に唾液を分け与えていたから、口の中の液体を相手に移すのは慣れている。
舌で男の唇を抉じ開け、流し込んだ。倒れていく体などお構いなしだ。

どさり。大きな音がして男が背中から床に倒れ込む。反動で離れてしまわぬよう両手で頬を掴み、口に含んだ液体を全て飲ませてやった。

けれど、飲み下すまでは安心できない。顔を離した瞬間に右手で男の鼻を摘み、左手で口を塞ぐ。
呼吸を奪われた男は、一連の流れに混乱しているのだろう。口の中にあるものを反射で喉の奥へと流し込んだ。


それを確認して、ほっと息を吐く。
そのまま吸ったら、ひゅうと音がした。


苦しい。すぐにぜぇぜぇと気管支が鳴り始める。



「マリ!!!」


彼が走ってきて、わたしを男の上からどかせた。
名前を呼ぼうとしたけれど、ひゅうと空回る。苦しい。苦しい。

あばらが痛かった。動きたくない。考えたことを説明するのも面倒だ。いっそ意識が無くなれば楽だろうか。


「なんでこんなことを!」


そんな風に考えている薄情なわたしの顔を覗き込んできた彼は、泣いていた。頬を何度も撫でる右手の人差し指が血に塗れている。
ああ、これが背中に刺さったんだ。だから苦しいのだと理解して、ならいいかと瞼を落とす。


「マリ?……マリ!」


彼の声がいっそう悲壮なものになった。それを聞いて、初めて思い当たる。ああ、もしかしてわたし、死にかけているのかもしれない。

上手く回らない頭で、だったらあの男は、彼に復讐しようとしていた男はどうなったのかと気配を探った。
彼の涙がぼたぼたと落ちてきて、周囲が上手く見えない。それに煩わしさを感じつつ、男のいる方へ目を動かす。


床に仰向けに倒してやった男の体は、今は起き上がっていた。
呆然と周囲を見回し、辺り構わず泣き続けるイバラを目に留める。視線が重なった。けれど、それだけだ。先ほどまでの復讐に高揚する笑みは消え、不可解そうな顔をしている。


「誰?」


飲んだ人間のミツキとの記憶を奪う薬。男はそう言っていた。
ならば、「ミツキ」との関連で出会ったわたしのことも、忘れてしまったのかもしれない。


「ならいい」


呟いた声は音にならず、ひゅうと空気に同化した。




啜り泣きをやめたバンシーが、男の隣へそっと座る。
ねぇ、シゲル。泣き疲れたのだろう掠れた声で、少女は囁いた。


「復讐はどうするの?」
「復讐……?」
「そうよ。貴方は私に、ミツキに復讐する為の力が欲しいと願ったわ」
「ミツキ……?それは誰のこと?」


バンシーがふと微笑む。
幼い姿と矛盾する子どもを見守るようなそれは、けれど悲しそうでもあった。


「そう。それじゃあもう、私は要らないね」


小さな両の手が、大人の男の頭を撫でる。そこから耳を通り、顔の輪郭をなぞり、首を滑って、人差し指で心臓を突いた。

かしゃん。

服を着た白骨が、フローリングへ散らばった。
柔らかそうな掌が、頭蓋を両手で持ち上げる。額へ口付けた。
不気味で神聖な光景に、痛みを忘れて見入る。

さよなら、シゲル。
血の気の無い唇が、そう囁いた気がした。




徐に頭蓋を手放した少女は、今度はこちらへ歩み寄ってくる。
先ほどまでの表情は綺麗に失せ、幼い笑顔で赤い瞳を好奇心に輝かせていた。

抱きしめてくる腕の力が、少し強くなる。庇われるようにされ、バンシーの姿が見えない。今更危害を加えてくる筈も無いだろうに、過保護すぎると文句を言いたくなった。けれど、彼は守るようにきつく囲ってくる。


「バンシー、君はもうシゲルさんとの契約が終わった筈だ。ここに居る意味が無い。僕らのことは、放っておいてくれ!」
「どうして?」


彼の固い声に、バンシーを怖がらせないで、と口を挟みたくなった。朦朧とする意識。二人の会話に割り込めない。


「この前、マリアは私を見つけてくれたわ。だから私には、マリアの願いを叶える義務があるの」
「でも、マリは今!」
「邪魔をしないで、吸血鬼。貴方には貴方のルールがあるように、私には私のルールがあるの」


倉庫での悲しそうに微笑む姿や、迷子になって大泣きをしていた姿からは想像できない、硬質な声。邪魔をしようものなら、彼を退かせるくらいやってのけそうだった。

弱い力で彼の服を引っ張り、こちらを向かせる。深い紫の色は、涙に濡れて綺麗だった。それに向かって、頷いて見せる。
すると彼はやっぱりぽろぽろと泣いたけれど、バンシーの姿が見えるよう、腕の力を渋々抜いてくれた。

今度は赤い瞳に覗き込まれる。さらさら流れる黒髪が、頬に落ちてくすぐったかった。


「ねえマリア。貴女は私を見つけてくれた。だから、私は貴女の願いを一つ叶えたい。教えて?」


優しい声で問われ、考える。

願い。そんなの、沢山ある。
この痛くて苦しいのをどうにかして欲しい。これから先、誰かに邪魔をされることなく彼と静かに暮らしたい。もう一度ママと話したい。叶うならいっくんを返して。もっと上手に伯母様へ感謝の気持ちを伝えられれば良いのに。


一つだけ?
思わず目で問えば、赤子を見守る母親のような、残酷な女神のような顔で、バンシーは頷く。


たった一つ、叶う願い。
だったらもう、これしかないじゃない。


「生きたい」


この命を繋げたい。だって、したいこと、沢山ある。
彼と二人でママのお墓参りに行きたい。キャプテンやクラスの子達ともっと仲良くなりたい。サクやヒバリと肝試しをしたい。いっくんの幼馴染のじゅんちゃんに会いに行かなきゃいけない。伯母様にお小遣いのお礼を言って、それから。

彼に好きだよって、ちゃんと伝えたい。


口を動かしただけで、どうやら伝わったらしい。
うん、いいよ。バンシーは無邪気な声で頷き、先ほど頭蓋骨に口付けた唇で同じように額へキスをしてきた。

濃厚な眠気が落ちてくる。
とろり。そうしてわたしは、ゆっくりと瞼を下ろし、世界との接続を断っていく。だから、そのあと聞こえた声は、夢なのかもしれない。


ひゅうひゅうと呼吸が空回る音。
その向こう側、バンシーと吸血鬼の会話。








「吸血鬼。マリアの命を繋ぐ方法、今できるのは二つあるわ」
「……二つ?」
「うん。一つは、この傷を私が治すこと。そうすると、マリアは三つの人非ざるものと交わったことになる。だからこの先、そういう縁と深く繋がる」
「三つ?」
「そう。一つは貴方。一つは私。もう一つは、一番古い祝福。マリアのママがマリアに与えた、吸血鬼と共に生きる為の呪い」
「吸血鬼に血を吸われても、死なないし同族にもならない……」
「そう、それ」




ママが、わたしを身籠る前。
願いを叶えてくれる悪魔へ、お願いをしたそうだ。
どうか、どうか、アタシの産む子どもは、アイツの傍で生きられますように。

その願いは、今もまだ有効だ。
だからわたしは、彼の傍で生きている。




「もう一つの方法は、その祝福を無くすこと」
「無くす?どうして」
「そうすれば、吸血鬼の力が及ぶようになる。貴方の子にすれば、こんな傷すぐに治るわ。それだけでなく、永遠を一緒に生きていける」
「っ」
「それが貴方の望みでしょう?吸血鬼」




でもね、ママの願いが叶えられていなければ。
もっと簡単に、彼の傍で生きられたのかもしれない。
出会ってすぐに吸血鬼になっていれば、彼もわたしも、迷うことなんて無かった。一緒に生きる以外の道が無くなっていた。




「……どうして、その選択を僕にさせるの」
「人非ざるものとの縁が深くなれば、命を危険に晒すことが幾度となくあるわ。その時、マリアを守るのは誰?」
「そんなの僕しかいない」
「そう。彼女が生きたいと願った以上、私が与えるどちらの方法であっても、貴方の力が必要になる。だから貴方に選ばせる」
「……君は、とても残酷だね」
「責任を負いなさい、吸血鬼。マリアと共に生きたいのなら、選択を」




でもね。
彼が人間だったら。わたしが出会ってすぐに吸血鬼になっていたら。
あの暑い夏、泣いて、絶望して、宥められて、自分の中で育っていた初めての想いを見過ごしていたかもしれない。




「答えて、吸血鬼。マリアの命が潰える前に」
「……そんなの、はじめから決まってる」




だから、イバラ。
どっちだって良いよ。


わたしがママの願いを負って産まれた人間であること。
貴方が人の未来を喰らって命を繋ぐ吸血鬼であること。

今までは意味があったけど、これから先は、どっちだって良いんだ。
だから、好きな方にして。吸血鬼になったって、この先どんなに危険な目に遭ったって、わたしは変わらず生きていくだけなのだから。

貴方と一緒に。




「バンシー、僕の選択ははじめから決まってる」




……そうだよね?




「お願いだ。マリを、」




ぷつり。
接続は、そこで完全に切れた。





 戻る