この選択を後悔することが、きっと、幾度もあるだろう。





け前






「ただいま」


あれ、と思った時には、後ろから腰に腕を回されていた。
振り向けば、冬の気配が纏わりついた漆黒の髪。常は玄関チャイムを鳴らして内側から鍵があくのを待つ彼女は、最近外から鍵をあけ、気付けば忍び寄っている。


「ただいま、イバラ」


ねだるような声で言われ、おかえりなさい、と反射で伝えた。それで満足したのか、腕が離れていく。制服のスカートから伸びた足は、風に晒されたらしくほんのり赤く染まっていた。


「寒かった?」
「少し」


名残惜しさなど感じさせずに離れた彼女は、着替えの為だろう自室へ入ったものの、すぐにリビングへ戻ってきた。深い緑のパーカーに、細身のデニム。いつの間にか自分で髪をお団子に結えるようになったらしく、頭のてっぺんに大きな丸が乗っかっていた。
部屋から持ってきたブランケットに包まり、窓辺のソファで丸くなる。その姿は猫というより蓑虫のようで、少しおかしくも愛らしかった。


「お腹空いた」
「うん、すぐに行きますお嬢様」


甘えられるのは心地よい。だから僕は、彼女の腹を満たしてやるべくその傍へ寄る。






バンシーと別れ帰宅した僕らを待っていたのは、失敗をして叱られるのを待つ時と同じ顔をした弟と、ほっとした顔の弟の同居人である少年だった。
兄さん、と躊躇いがちに呼ばれ、どうにかなったよ、と笑ってやる。


「ちょっと疲れちゃった。ごめんヒバリ君、マリを寝かせて貰っても良いかな?」
「え?はい、分かりました……」


腕に抱えた彼女を少年へ委ねた。そうして玄関から洗面所へ入り、冷たい水で顔を洗う。顔を上げれば、鏡には相変わらずの表情を湛えた弟がいた。


「サク?どうしたの?」
「兄さん、マリはどうしたんだ?」
「ちょっと疲れて寝ちゃっただけ。明日になればきっと起きるよ。美味しいご飯、作ってあげて?」
「……兄さん?」


タオルで乱暴に顔を拭きながら表情を隠す。


「ごめん、ちょっと放っておいて欲しいな。またマリを危ない目に遭わせて、凄く自己嫌悪中。サクにひどい事を言う前に、離れてくれると嬉しい」
「え、」
「決めたのに、迷うつもりはないのに、駄目だね。こういう事があると、やっぱり僕がいない方が良いんじゃないかって思っちゃう」


獣の耳があったら確実にしょんぼり下げているに違いない弟は、すまない俺がマリをしっかり見ていなかったから、と呟いた。ううん、そもそも僕が彼女と一緒にいたいなんて思ったから、と反射で返すものの、このやり取りも面倒で仕方ない。
今更話したところでどうしようもない、果てしなく不毛な応酬は結局、待てど暮らせどリビングへやって来ない吸血鬼兄弟を心配して様子を見に来た少年に止められた。


「ちょっとサクさん、イバラさん、なにナイーブになってるんですか。何があったのか知らないですけど、後悔してるならマリさんに直接謝れば良いでしょう?そんな狭い所にいないでさっさとこっち来て下さい」


尤もすぎて何も言い返すことができず、二人揃ってはいと返事する。
自分も弟も歳をとりすぎて、逆に幼児化しているのかもしれないと本気で不安になった。




翌朝目覚めた彼女は、猛烈な空腹を訴えた以外に特に変わった様子も無く、全員の制止も聞かずに登校していった。曰く、授業をさぼったら伯母様に合わせる顔が無い、とのことだ。
やはり尤も過ぎて呆然と見送った僕ら兄弟は、前の晩は疲れ切っていて話せなかった茂さんの末路やバンシーのこと、彼女がサクを振り切った際の鮮やかな手腕やここ数日の食事の献立を報告しあった。

その後、ここ数日のお礼をどうすれば良いかと弟に問うた所、無事とは言い難いが決着がついたのだからそれで言いと断られた。
それで今度は少年の方に問えば、仮装に興味があると言うから、箪笥の底にしまっていたハロウィン用の服を何着か引っ張り出して渡す。弟は心底嫌そうな顔をしていたけれど、少年は嬉しそうに某あんぱんヒーローの頭を被ったり脱いだりしていた。


それを持ってすぐに帰宅しようとした二人を、せめて夕飯を一緒に、と引き留め、ご馳走を作った。
ステーキにマッシュポテト、鯛のカルパッチョにペペロンチーノとアラビアータ、サラダにもごろごろとシーフードを入れ、デザートはプリンとティラミスだ。
貧血気味の彼女の為に、レバニラも作った。食べて貰えなかった。


「次は冬にお鍋したいな」
「あ、良いですね」


年少組がぽろっと呟いたことを脳内に書き留め、土鍋をどこに置いたか考える。キッチンの何処かか物置部屋にある筈だから、探しておかねばならない。
四人で囲む食卓は久しぶりで、妙な安心感があった。まるで家族が揃って夕食をとっているようだ。
数年前まで得られると思っていなかったこの風景は、妙な感傷や郷愁を煽った。

自分がカヨさんの命を奪っていなければ、茂さんは、人非ざるものに願って永い時を復讐という空虚な行為に身を浸すことなどなかった。
この風景は、本当はあの二人のものだったのかもしれないのだ。


「イバラ」


名を呼ばれ、はっと顔を上げる。目の前には、小さめの取り皿が差し出されていた。


「アラビアータおかわり」
「……うん。マリ、唇の端に赤いのついちゃってるよ」


受け取りながら指摘すれば、彼女は慌てた素振りも無く舌でその部分を拭う。


「とれた?」
「まだついてる」


二人きりだったら口付けで拭うところだけれど、そうではないから布巾でそっと撫ぜるだけにした。
頬を摺り寄せるような仕草をする彼女に、思わず頬がほころぶ。


「美味しい?」
「うん」


希望の品を山盛りにのせた小皿を返せば、彼女は不器用に笑んだ。よく見ていなければ気付かないくらいの小さな表情の変化だったけれど、僕には分かる。
つられてくしゃりと微笑んだ。




弟と少年が帰り、汚れた食器を流しに出してから順番にお風呂に入って、彼女のベッドで一緒に眠りについた。
背中に回された掌が、そっとシャツを握る感触。その心地よさに微睡みながら、目の前のつむじへ唇を落とす。


「おやすみ、マリ」
「おやすみなさい」


あまりにも平坦な夜。






それからずっと、何事も無かったように静かな毎日が過ぎていく。
今度はいつまで、こんな風に過ごしていられるのだろう。





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