「マリが居なくなった。おそらく、茂さんの所へ向かっている」


弟から連絡が来た時、漸く掴んだあの男の居場所へ走っている時だった。
思わず舌打ちをしそうになったけれど、堪え、分かったと答える。

何かあった時の為にと弟の同居人の携帯電話を持たされていたが、それに心底感謝した。これが落ち着いたら自分も持とうと決め、頭の隅に書き留める。


「大丈夫、どうにかするよ」


命の核が手に入らない限り、彼女が危害を加えられることはないだろう。
そう信じ、通話を切った。










川辺に建った分譲マンション。その一室に、彼らは潜伏しているらしい。
個人情報だから教えられないと言った仲介人に、だったら僕の情報は個人情報じゃないのか、あの人に売っていただろう、とにじり寄り、交換条件として山奥まで希少な薬草を採りに行って漸く得た住所である。

正直、地道に探した方が早かったかもしれない。首を一振りして、思い出したくも無い山籠もりを脳内から弾き出した。


「さて、行きますか」


ぱしんと頬を叩き、屋上から飛び降りる。十五、十四、十三。十二階の一番東にある部屋のバルコニーの柵に掴まり、重力に持っていかれそうになる体を支えた。そのまま弾みをつけて、下の階のバルコニーへ飛びこむ。

静かに着地をして、リビングに面しているらしい大きな窓ガラスへ耳をつけた。二重の造りになっているらしいそれは、中からの音を殆ど遮断している。
けれど、吸血鬼の耳が微かに拾う。誰かと誰かが話す声、そして、誰かがすすり泣く声だ。


ここまで来て、侵入方法なんて一つしかない。
おもむろに拳を作り、鍵のある部分へ叩き込む。かしゃん、と大きな音がして、重なったガラスの両方が割れた。そこから手を差し込み、錠を下ろす。
よし、これで良い。開くと確信してサッシに手をかけた。けれど、開かない。あれと思ってよく見たら、上の方にももう一つ鍵がついていた。


「ああ、もう」


慌ててそちらも割ろうとしたら、内側から錠が下り、大きく窓が開かれる。


「わっ」


手を滑らせ、思わず室内へ転がり込んだ。その隙に男は懐へ入り込んできて、片手で首を掴まれ持ち上げられる。
ぎりぎりと絞め上げる音が、耳の奥に響いた。人間とは思えない力。このままだと、骨を折られてしまうかもしれない。そうするとしばらく動けなくなってしまうから、必死に甲へ爪を立てた。けれど、掌は剥がれてくれない。


「他人の家を破壊するのは感心しないよ、満月」
「やめて。私が条件を呑めば、手を引くと約束した筈よ」


すすり泣く声を背景に、彼女の鋭い声が飛んだ。視線を動かした先には、座っていた椅子から立ち上がり、男を見据える姿がある。
ああ、無事だ。安堵した瞬間、全身から力が抜けた。


「離して」
「いいだろう」


唐突に離され、床に崩れ落ちる。
げほげほと咳込みながら見上げると、男は既に僕から興味を失ったらしい。テーブルの方へ歩み寄り、透明な小瓶を彼女へ渡していた。

それは何だ。
まだ声が出せず、視線で問いかけた。男は微笑む。


「ああ、気になる?安心しなよ、命を奪うものではない」


お前を生き殺しにできない以上、彼女を殺しても仕方ないからね。
くすくす笑って男は言う。

椅子から離れた彼女も歩み寄り、小瓶を受け取った。
細い指がそれを傾けると、中の液体がたぷりと揺れる。


だから不思議になった。何故バンシーは泣いているんだ。


「これは、飲んだ人間から特定の対象の記憶を奪う薬」
「きお、く?」
「そう。お前が彼女に執着しているように、彼女もお前を大切に想っている。俺がカヨを想っていたように」


だから。


「大切な大切なお前との記憶を、彼女から奪う」


ああ。それは確かに、最も有効な一手かもしれない。他人事のように思う。
僕の記憶を失った彼女の隣に、僕は居られる自信が無かった。

吸血鬼のことなんて、忘れてしまった方が良い。
学校で居場所を見つけ、伯母との溝を埋め始めた彼女が普通に生きていく為に、僕はいない方が良いのだ。

忘れてしまったというのなら、自分の居た痕跡を全て消して、あの部屋を去るだろう。
そして、行き着いた場所で彼女を失った日々に未来永劫絶望するしかない。

自分の意思では死ねない。だって、僕の命は彼女に預けたから。今更返して貰える筈も無かった。


「茂さん、貴方は本当によく、僕のことを分かってますね」
「この時の為だけに生きてきたんだから、当たり前だろう?」


再び窓際へ近づきながら、男はうっとりと笑った。その表情が、いつかの新月の夜に息絶えていった女と重なる。
咳をした拍子に涙が滲んだ。生理的なものなのか、感情的なものなのか、判断できない。


ねえ、マリ。
早くそれを飲んで。僕から解放される為に。
お願いだから飲まないで。ずっと僕の傍にいて欲しいから。

相反する感情を抱え、縋るように彼女を見上げる。


漆黒の瞳は、手にとった小瓶をじっと見つめていた。
いつも通り、感情の色が見えない。


「ねえ」


不意に赤い唇が動いた。


「この薬は、私が大切に思ってる人との記憶を消すものなの?それとも、イバラ・・・・・・ミツキに関わる記憶を消すものなの?」
「それは仲介人に頼んだ特注品で、飲んだ人間の中にあるミツキとの記憶全てを消すようにできている。それが何か?」
「私にイバラよりもっと大切な人がいたらどうするのかなって思っただけ」


ママとかかな?
自分に確認するよう呟かれた声。バンシーの啜り泣きが、それをかき消す。


「では、早速飲んで貰おうか」


首を傾げ、促す男。
その隣に歩み寄ったバンシーは、ただでさえ赤い目を更に濃くしていた。ぽろりぽろりと涙が零れる。男はそれを気にも留めていなかった。それくらい、確信があるというのか。


ねえ、バンシー。
君が泣いているってことは、誰かが命を落とすということだ。男が死なないというのなら、僕か彼女しか残らない。

茂さんが、薬を飲んだ彼女を殺すの?
それとも、僕のことを忘れたマリが、僕の命を潰すの?
僕を忘れた彼女が憎くて、この手が彼女を貫くの?


そんなの、全部嫌だ。


視界の隅で、彼女が瓶をあおった。男はそれを食い入るように見つめている。
ああ。今なら動いても、彼女に危害を加えられることはない。


僕か彼女、どちらかがこの世界に取り残されるというのなら。
落とす命を、僕が選ぼう。


バンシーの泣き声が、一際高く響く。


丁度、正三角形だった。
窓際に崩れ落ちた自分。同じく窓際、一直線上に立つ男。もう一つの頂点、窓から少し離れたテーブルの傍に立つ彼女。


体をばねのように使い、うずくまった体勢から一気に男へ詰め寄った。
バンシーに生かされている体とはいえ、元は人間だ。出血が多ければ、確実に動けなくなるだろう。

滅多に使うことのない爪を長く伸ばし、低い位置から首の頸動脈を狙う。


大きく目を見開いたバンシーと視線がぶつかった。泣きすぎて掠れた声が、だめ、と囁く。
ごめんね、もう止められない。心の中で応えると、ぐっと目を瞑り、腕を突き出した。


骨を砕く感触。
バンシーの泣き声が止み、そうして辺りに静寂が戻った。





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