目の前に突き出された血の香りに、我を忘れて貪った。 体が修復されていくのを感じていたら、後ろから思い切り引き離される。 「兄さん、それ以上はマリの体によくない」 どうして飲んじゃいけないの。 ねえ、まだお腹が空いているのに。 「後悔するのは兄さんだぞ!」 荒い声で言われ、はっと我に戻る。 焦点の合った視界には、ぐったりと眠るマリの姿があった。 「あ・・・・・・あああっ」 違う、ごめん、君をこんな風に蝕むつもりなんてないのに。 ああ、どうして。どうして。 どうして人の命を奪ってまで、命を繋げなければいけないの。 平和な夕餉 「マリ、残すな」 「・・・・・・サク嫌い」 夕飯に出されたレバニラ炒めからレバーをより分けていた彼女は、じっとりとした目で弟を見遣った。 弟といえば、嫌いと言われたことにショックを受けているようだ。 飲んだ水で思い切りむせて、同居人に背中をさすられている。 なんて平和な食卓の風景だろう。 一昨日あったことが、夢のようだ。 けれど、彼女の手首には錠のかかっていた跡が残っている。 そして自分の腹にも、穴がくっついた跡が微かに残っていた。 確かにあの夜のことは現実だ。 「イバラさん、ご飯のおかわりいかがですか?」 空の茶碗を持ったままぼうっとしていたら、弟の同居人が気を遣って声をかけてくれた。 マリは相変わらず、レバーを僕の皿へと運んでいる。 弟はその様子を諦めたように眺めていた。 「うん、貰おうかな」 なんて平和な夜だろう。 生きていて良かった、と、心底思った。 「はいどうぞ、イバラさん」 差し出されたお茶碗に、日本の昔話のアニメで見るくらいてんこ盛りで白米がよそってある。思わず大笑いした。 幼い二人が眠った後、僕と弟はベランダに出ていた。 二人を起こしたくないという理由が半分、話を聞かれたくないのが半分、だ。 りぃん、りぃん。涼しげな声に取り囲まれ、忍び寄る冬将軍の気配がする季節。 気持ちいいね、そうだな。世間話にもならない言葉を交わし、黙り込んでから数分が経った。 はぁ、と大きく息を吐く弟に苦笑する。 そういえば、助けてくれたお礼を言ってなかった。 「サク、ありがとう」 「・・・・・・兄さんから素直に礼を言われるのは怖い」 「なんで」 「厄介事が降りかかってきそうだ」 「もう巻き込まれてるよ、厄介事」 そうだった、と手すりにうなだれる弟に、今度は僕が苦笑する。 「茂さん、バンシーに力を借りてるみたいだね」 「そうだな」 「よっぽど僕のこと、憎いんだろうね」 「・・・・・・だからあの晩、行くなと言ったんだ」 「うん。サクの言うこと、聞いとけば良かった」 この国にきてすぐ、未来を生きる筈だった女性の命を奪った。 奪いたい訳ではなかった。隠された顔と焚かれた香に惑わされ、空腹に負け、奪ってしまった命だ。 その人は幸せそうに瞼を落としていたけれど、僕に残されたのは悔恨だけ。 どうしてそんな結末を望んだのか。 満月と呼ばう柔らかな声を、僕はもう思い出せない。 弟は、兄さんはあの姉妹に裏切られたんだ、と言う。 そうなのかもしれない。 けれど、あの人を――カヨさんを深く深く愛していた茂さんは、僕以上の絶望を味わったのだろう。 そう、僕を憎み、人ではないものに力を請うほどに。 「・・・・・・バンシーを見つけたら、願いを一つ叶えて貰えるんだったか」 「あの言い伝え、本当だったんだね。茂さんはバンシーの力で生きているんだと思う」 「・・・・・・兄さんは悪くないのに」 むすっとした弟の頭をくしゃくしゃ撫でた。 「ありがと、サク。でもね、やっぱり僕がいけないんだよ。もっと早く、カヨさん達から離れるべきだった」 「それを言うなら、俺だって同罪だ。異人が珍しい時代、カヨとサオリの側は居心地が良すぎた」 「うん。でも、カヨさんの命を奪ったのは僕だから、やっぱりこれは僕が負うべきなんだ」 サクは気にしないで、まあ無理だと思うけどさ。 そう囁けば、弟は顔を歪ませ、兄さんは馬鹿だと言う。 「でもさ、この国に来て今までこういう事が無かった方がおかしいんだよ。僕らの背負う業は、そんなに軽いものじゃない」 生きていく以上、誰かの命を奪うことになるのは当たり前だ。 だというのに、奪う対象が人の命というだけで、どうして僕らが忌避され、憎まれなければいけない。そうやって何度も叫んだ。 それも飽き、諦めたのはいつだっただろう。 積もった恨みや憎しみから逃げるようにこの国へ来たけれど、やっぱり僕らは何処にいても僕らでしかないのだ。 「だからと言って、このまま茂さんを放っておく訳にはいかない。マリや、僕に関わった人に、また辛い思いをさせてしまう」 「ああ」 「だから、一人で決着をつけてくるよ」 りぃん。一際大きな声がした。 「あの人の命を奪ってくる」 人間は、食事の為でなくとも生き物を殺せるという。 だったら僕は、より人間に近い吸血鬼なのかもしれない。 「なあ、兄さん。守りたいものができると強くなるって何かの本で読んだことがあるが、あれは嘘だな」 「ん?」 「ヒバリやマリを養っていくことを考えると、下手は打てない。守りに入る自分がいる」 「あはははは!サクからそんな言葉が出てくるなんて、お兄ちゃん感慨深いや」 「・・・・・・笑わなくたって良いだろ」 不貞腐れたように言う弟の顔は、言葉とは裏腹に満足げだ。 素直に嬉しさを感じながら、天を仰いだ。雲の切れ端から、ちらちらと星が見える。あのどれかがいっくんなら、空に向かって何度だって謝っただろう。けれど彼は、もう居ない。 謝罪はいつか、遠い未来に。まずは、今できる事をするしかない。 「しばらくマリのことお願いね。僕は茂さんを追う」 「分かった」 弟からの頼もしい返事を聞きながら、頭の中で仲介人との交渉の算段を考え始めた。 寂しいけれど、明日、彼女が起きる前に出掛けよう。 |