新しい録音が、2件あります

“マリです。今日はいっくんと出掛けるので、帰りが遅くなります。夕飯は先に食べていて下さい。”

九月十五日、十六時三分 ピー

“まりあさんをお預かりしました。今から言う場所まで迎えに来て下さい―――”

九月十五日、十七時五十八分 ピー


留守番電話に入っていた男の声に、聞き覚えがあった。
もう生きている筈の無い人の声だった。





お願いだから、きていて






移動する時も、なるべく人間と同じ乗り物を使うようにしている。
脚力があるから、屋根と屋根を伝って移動するのは容易い。けれど、いつか自分が異質なものであるということが知られてしまう気がして、出来る限り人間の振りをしていた。

人間に憧憬があった訳ではない。
けれど、今は人間に、せめて人間に近い存在になりたいと思う。

吸血鬼として長い時間を生きてきたからこそ、彼女に会えたというのに。

この矛盾を抱えながら、また長い時を過ごしていくのだろうという確信があった。
彼女を見送り、その思い出を抱え、いつか飢え朽ちるまで。




電車を降りてから、すぐに走り始めた。指定されたのは、この近くにある埠頭の倉庫だ。帰路につく人々の流れに反し、速度を緩めず走り抜ける。
途中にあった商店街は橙色の灯りが点き、各々の店は静かにどっしりと構えていた。その様子に少し和み、知らぬ間に詰めていた息を大きく吐く。

段々と人気が少なくなり、コンテナの列が見え始めた。その向こうに佇む黒い海面も、視界に入る。

海を渡ってこの国にやって来た。そのすぐ後も海の近くで生活していたけれど、あの一件以来、なんとなく避けていた。
留守電に残っていた男の声のせいだろうか。不意に、底に沈めた声も甦る。




「そうだわ、私たちが名前をつけてあげる!」
「あら、素敵な考え。そうね、貴方の瞳は満月の日の空の色みたいだから、ミツキなんてどうかしら。満月と書いてミツキと読むの」
「それなら、そちらの弟さんは新月の夜みたいな髪色だから、サクね。朔月の朔。どう?気に入ったかしら?」


この国で生きる為の名前を得られたのが嬉しくて、笑った。




足音を立てずに止まり、目の前にある倉庫を見上げる。入り口は両開きのもので、僅かに隙間があった。そこから中を覗くけれど、誰の姿も見えない。

警戒していても仕方がない。手を掛けて扉を開き、足を踏み入れた。左を見て、右を見る。そこには―――


「マリ!」


手錠で右手と柱を繋がれた彼女がいた。その隣には、見覚えのある少女が佇んでいる。
条件反射でそちらに向かって走り出した。状況を把握するべく周囲に視線を走らせれば、二階ほどの高さにある通路に立つ黒い人影を見つける。


「・・・・・・え?」


にいと笑う口元が、記憶の中の姿と乖離していた。
けれど確かにその顔は、留守電の声を聞いた時に思い出したものと一致している。

足が止まる。男を凝視する。
思い出す、日本にきたばかりの頃の日々。満月と呼ばれていた、今よりも愚かな自分。


「茂、さん・・・・・・」


名を口に上らせれば、男は器用に片眉を上げて笑んだ。


「へえ、意外だな。薄情者のお前が俺のことを覚えているなんてね」


棘のある言葉に、思わず顔が歪んだ。

満月、満月。
柔らかな笑みと共に紡がれる名前に潜んだ想いは、無視する以外にどうすれば良かったというのだ。


「・・・・・・貴方達のことを忘れられるほど、僕は器用な性格じゃないですよ」
「へえ」
「それより、どうして貴方は生きているんですか。何故マリを浚ったりしたんですか」


混乱する思考を鎮め、できる限り平坦に問う。睨むように見上げれば、男の笑みは深まった。


「お前に復讐する為に決まっているでしょう、満月」
「僕はもう満月ではない。それに、あれは―――」
「本当に長かったよ。俺がカヨを想うように、お前が誰かを想うようになるのを待ち続けるのは。けど、」


男の視線がマリを捕らえる。
ぞっとした。それは補食者の目だ。


「ようやくだ。これでようやく、お前に復讐できる」
「マリは関係ない!」
「あるさ。お前に関わったというだけで、もう十分だ。さて、バンシー」


その言葉で、彼女の隣にいる少女が先日のバンシーであることに気付く。
泣きそうな顔をしたバンシーは、左手で持ったカッターをそっと彼女の首筋にあてがい、目を伏せた。

バンシーが泣いていないということは、今日、この中の誰かが死ぬということは無いだろう。その事実にほっとして息を吐く。

気を緩めた瞬間を、男は見逃してなどくれなかった。


「え」


人間には不可能な速さで接近される。思い切り右手を引いているのが見えた。

ああ。殴られる。
認識したのと同時に腹へ衝撃が走った。


「っ」


口から血が逆流する。ダンスをしているような近さで、男が幸せそうに笑むのが見えた。
妙な冷静さで、そういえばちょっと前に弟にもやられたなぁこれ、と考える。体を突き抜けた腕は、何を掴んだのだろうか。何かを掴めたのだろうか。


「いば、ら……?」


彼女の声に意識が現実へ引き戻される。途端ぶり返した痛みに、思わず歯を食い縛った。


「お前達も、不幸な体だよね。どれほど苦痛を味わったって、死ぬことが出来ないんだから」


ぐるりと腕の回される感触。もう一度、血を吐き出した。


「早く楽になりたい?それなら、居場所を教えてよ」


居場所……?
ああ、あれのことか。それならもう、彼女に渡しちゃった。そんなに僕を殺したいの?ごめんね。僕の生殺与奪件は、もうこの手に無い。


「や、めて……やめて……!」


彼女の泣きそうな声が響く。ああ、また心配させてしまった。本当に僕は駄目な奴だなあ・・・・・・
苦笑が零れると同時に、腕が引き抜かれた。痛みに耐えられない両足は力を失い、地面へと吸い込まれていく。

がん、と鈍い音がたち、倒れこんだ。
遠くで嘲笑う声がする。けれど、そんなことよりも、今は彼女を。

どうにか顔をそちらに向けて、出来る限りの力で笑んだ。大丈夫。痛みには慣れている。そして、バンシーが泣いていないのだから、彼女も自分も命を失うことだけはあり得ない。


「イバラ、イバラ、」


安心させるつもりだったのに、彼女の表情は余計に歪んだ。そして、自由な左手でもって、そこにある僕の命を握り締め、首を横に振る。


うん、分かってる。大丈夫だよ。
マリが望む限り、僕は命を繋ぎ続ける。例え君が命尽きる時、僕の命を奪ってくれなければ、その後だって生きていける。

数百年の孤独なんて、とうの昔に慣れていた。
死にたいと願うくらいの痛みにだって、耐えてきた。

だから、心配しないで、マリ。
声を出せない自分が憎らしかった。


そんな僕らのやり取りなど無視して嗤い続けていた男が、そういえば、とおもむろに言葉を紡ぐ。


「満月も砂山燥一と仲が良かったんだよね?どう?死んだのはショックだった?」


どうしてその名前が出てくるのか、と一瞬考えた。けれど、彼女が“いっくん”と遊びに行くと言っていたのと何か関係があるのだろうと思い直し、そしてひやりとする。

まさか。


目を見開いて男を見れば、そこには相変わらずの嘲笑いがあった。
視線が合い、ぞくりとする。さっきこの人は何と言った。復讐をすると。大切な人間ができるのを待っていたと。

つまり、それは―――


「お前達の親しい人間を一人殺して、どういう反応をするか見ておきたかったんだよね。だから彼は最適だったよ」


トラックの事故だと聞いた。


「トラックにちょっと細工をしたんだ。上手くいって良かった。多少とはいえお前が落ち込んでいるのを見て、確信したよ。まりあさんを失えば、お前は死ぬより苦い思いをするって」


ああ、僕が。


「自分が関わったせいで親しい人間が命を落としたとなれば、お前は絶望して、それこそ死にたくなるだろう?でも、そんなことさせない。そのまま永遠に生きれば良い」


僕が、関わったせいで。


「それがお前への復讐だ」


最高だろう?と嗤う男は、昔の穏やかな笑みを浮かべる青年の面影を失っていた。


ああ、どうして。
僕が関わらなければ良かったというのか。僕が関わったせいで、彼女も、ユリさんも、いっくんも、沢山の人を傷つけてしまう。

それでも僕は願わずにいられないのだ。
許される限り、彼女の隣で生きていたいと。


ああ、どうして。
貴女はいつまで僕を苦しめるのですか。僕はどうすれば良かったというんだ。

カヨさん。貴女に憎しみすら抱きそうになる僕は、もう消えた方が良いのですか。





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