わたしは弱い。





依存する






下校時刻。
わたしは校門を出て、一本向こうの通りに向かった。
黒い車。黒い服。初めて迎えに来て貰った時、葬式屋みたいと呟いた。喪に服しているからと、苦笑した答えがあった。
誰を亡くしたのだろう。親戚の誰かだろうか。


「今日は隣町まで行っても良いですか?」
「隣町?何かあるの?」
「はい。まりあさんに会って欲しい人がいるんです」
「・・・いいよ」


助手席に滑り込んだわたしは、ポケットに忍ばせた携帯電話を取り出す。
着信履歴の殆どは、イバラが家の電話から掛けてきたものだ。たまに伯母様。そして、消えないよう大切にとってある着信がひとつ。

・・・・・・誰からだっただろう。
後で確認しようと決め、フリップを開きボタンを操作する。


もう、十八歳だ。保護者の同伴が無くとも、二十三時以降に外を出歩いても何も言われない。
けれど、彼が心配するだろうから。だからわたしは、帰宅が遅くなる連絡入れる。


「イバラに連絡だけさせて」


どうぞ、と促す柔らかな笑み。窓から差し込む眩しい夕日に照らされた髪は、漆黒を保っていた。
瞬きの瞬間、日に透ける茶色を思い出す。あれは誰だっただろう。


「マリです。今日はいっくんと出掛けるので、帰りが遅くなります。夕飯は先に食べていて下さい」


コールの後、流れてきたのは無機質な留守のアナウンスだった。必要最低限の内容を吹き込み、通話を切る。何時に帰るかは、また後で連絡すれば良い。
フラップを閉じる音が、やけに響いて耳に残った。

エンジンと、たまに外で鳴るクラクション。沈黙の隙間を埋めるように、外の世界は音で溢れている。
滅多に車に乗ることの無いわたしは、後ろに流れていく景色をじっと見つめていた。街路樹の並ぶ道を抜けて使い慣れた電車の駅を通り過ぎ、隣街へと向かう。


そういえば、行く先がどの辺りなのかを聞いていない。春に引っ越してきたばかりなのに、道が分かるのだろうか。
いや、きっと友達と色々な所へ遊びに行っているだろうから、詳しいに違いない。万が一迷えば、携帯電話で道を調べることだってできるのだ。

彼の弟に誘拐された時に連れて行かれた高台の公園も、隣街だった。
最悪の場合、すぐ迎えに来て貰える。そう安堵したけれど、次の瞬間には違和感を覚えた。
あの時はまさか彼が来る訳が無いと思っていたのに、今は確信している。絶対に来てくれるだろう、と。


変なの。窓硝子に掌を貼り付け、夕焼け空を眺める。
あっという間に日没が早くなった世界は、冬を目前に控えていた。いつからか蝉の声もしない。命が眠りに就く季節だ。


言葉にすればする程、夏が遠のいていく。眩暈を覚える暑さも、落ちてきそうな空の青さも、肌に貼り付くワイシャツの感触も、日に透けた髪も、少し高い笑い声も、目に細まる瞳も、一度だけ触れた唇も、全て。
生々しい思い出を言葉として消化して、記憶に整理していく。知っていた筈の温度が、感触が、匂いが、色が、全てが血肉に溶けていった。

だから、ふと、夏の気配を思い出すことが出来ずに怖くなる。
それなのに、上手に言葉を引き出され、足が進んでいくのだ。冬へ、冬へ。


「・・・あれ?」
「まりあさん、どうしたんですか?」
「・・・ううん。なんでもない」


どうしてわたしは、冬になるのが怖かったんだっけ。
ゆっくりと、瞬きをした。


赤信号で、車は静かに止まる。ギアに触れていた大きな手が、何かのボタンを押した。ざわ、と小さなノイズ。そして聴こえてきたのは、ラジオの放送だ。
リクエストを募集し、それに合わせて曲を流す番組らしい。女性ボーカルの賑やかな歌が終わると、すぐに次のリクエストの紹介が始まった。


“それでは次のリクエストです。ラジオネーム・サウスさん。
 友人が事故で亡くなり呆然としている時、
 この歌を聴いてやっと泣くことができました、とのこと。

 fake Rainで、タムケノコトバ”


繰り返し聴き続けた、あの歌だった。




 君の祈りが届き終わる頃
 きっと僕は、幸せでいるだろう

 誰かの隣で笑う僕を
 君は笑って許すんだろうね


 幸せに、どうか幸せに
 僕の祈りは、届くだろうか




誕生日に届いたCDアルバムと手紙は、大切に机の引き出しにしまってあった。
擦り切れてしまうのではないかと思うほど聴いたメロディラインは、それでも尚、心を浚っていく。
幸せに、と。今もまだ、願っているのだろうか。


・・・・・・誰が?


「この歌、お好きですか?」
「うん。懐かしいね。イバラがおやつの準備してる時に、一緒に聴いたね」
「そうでしたね。アルバム、持ってます?」
「え?」


質問の意味が分からなくて、右を向いた。
にこにこと笑う顔。瞳の底で何を考えているか分からない色だ。
けれど、おかしい。あの瞳は、こんなにも黒かっただろうか。


「何言ってるの?このアルバム、いっくんがくれたでしょう?」



宅急便で、わざわざ日にち指定で届いたCDアルバムと手紙。
大切で、大切で、忘れ物の日記と一緒に。


「・・・いっくん。日記、どうしたっけ?」
「日記ですか?家にありますよ」
「嘘だよ。だって、一緒に夏休みの宿題した日、うちに忘れていった」
「あれ、そうでしたっけ?」


信号が青になった。
ゆっくりと加速する車は、隣街へと向かっていく。


その横顔を見上げながら、ゆっくりと瞼を閉じた。
そして、同じ速度で押し上げる。

黒炭のような髪。夕日を浴びても、茶色く透けていない。
猫のように細まる瞳。記憶の中の色は、もっと色素が薄い。


「・・・あなた、」


ソウイチだと思っていた。
けれど、違う。目の前にいるのは―――


「なんでわたしは、あなたをソウイチだと思い込んでいたの」


出来る限りの鋭さで問う。
なけなしの虚勢は、男の短い笑いで払われた。


「おかしいな。あれくらいの違和感じゃ、解けない暗示をかけておいた筈なのに」
「暗示?」
「そう。お嬢さんが・・・まりあさんが、僕を砂山燥一だと思い込む暗示」
「何故?」
「なんででしょう?」


楽しげに笑う男は、くるくるとハンドルを回す。
慌てて標識を確認した。どうやら海のある方向らしい。


「何処に行くの?」
「言ったでしょう、会って欲しい人がいるって。厳密には、人ではないけど」
「誰?」
「会ってからのお楽しみ。でも、」


にい、と。唇の端がつり上がる音がした。


「良かった。思っていた以上に、彼・・・砂山燥一は、まりあさんにとって大切な存在だったらしい」
「え?」
「彼にして良かったよ」
「何が」
「後で説明してあげるから、もう少し待っていて」


赤信号。
緩やかなブレーキの後、完全に停止してから、男は再びわたしに向く。


「とりあえず、少し眠って貰おうかな」
「っ」


逃げなければ。咄嗟にそう思い扉に手を掛けたけれど、がちゃがちゃと音がするだけで動かない。
そうだ、鍵を。指を伸ばした時、不意に後ろから頬に触れられ、反射で振り向いてしまった。


「おやすみ、まりあさん」


覗き込んでくる黒色。
それは綺麗にわたしの意識を掬い、握り、そして閉ざした。


遠のく意識の中、ポケットの携帯電話に手を伸ばす。
ああ、何処に行くかは後でまた連絡すれば良いなんて考えなければ良かった。

またわたしのせいで、彼の手を煩わせてしまうのだろうか。


「ごめんなさい・・・」


音が空気を震わせたかは、分からない。





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