自分では絶対につけないリボンが、頭で揺れている。


それにこそばゆさを感じながら、前を歩く薄い背中を見詰めた。





甘いといったらキス、キスといったら、







遊園地に来たのは、初めてだった。
小学校の卒業遠足で、一度だけ行く機会はあったのだけれど、前日に偶然突き指と捻挫をしてしまい、欠席する羽目になったのだ。


初めて見るその景色は、あぁ、確かに。囲われた、そこは別世界。
メリーゴーランドもコーヒーカップも全てが環を描き、何処へも行けず、その世界で完結している。


非日常の世界。
造り出された夢の国。

飾られたジャックランタン、煌びやかな装飾、道を行く笑顔の家族、恋人達、手を振り返してくれる夢の国の住人たち。


ふわふわと浮いた空気に、ほんの少し、浮き足立った。


*


初めて乗ったジェットコースターは、死ぬほど怖かった。


彼がどうしてあれほどはしゃぐのか、理解ができない。
安全バーにしがみ付き、早く終われと祈るのが精一杯だった。

無駄な矜持が邪魔をして、叫ぶことさえ出来ない。
だから降りた後にふらふらしてしまい、彼はそれを疲れと勘違いをしてくれたお陰で、休憩することができた。


休憩ついでに化粧室へ行き、かさかさになった唇へリップクリームを塗る。
数少ない知り合いから押し付けられたチョコレート味のそれは、正直用途不明だ。

唇を保護する為に塗るのだから、それを舐めたら意味が無くなってしまうというのに。
そうは思うものの、使わないと勿体無いという理由だけで、最近使っていた。


確かに、鼻をくすぐる甘い香りは、悪くない。




彼は決して手を離さなかった。
骨ばった大きな手はひんやりとしていて、歩いて体温の上がった体へ心地良い。

想像以上の人込みの中でも、それがあるからはぐれることはなかった。


・・・目を瞑っても歩けるくらいの状況を、彼がいつも作って微笑んでいることに、ふと、気付いてしまった。


「ほらほら、マリも言って!トリック・オワ・トリート!」


彼は、くしゃりと笑った顔で言い、目の前に立つ魔女の姿の女の人も笑ってそれを待っている。
意味はよく分からないけれど、そう言うべき状況らしい。

早く早く、と繋いだ手をぶんぶん振り回す彼を一睨みしてから、目の前の魔女へ首を傾げながら言った。


「トリック、オワトリート?」


ささやかな音量の言葉を、それでも魔女は受け取ってくれた。
ハッピーハロウィン、と言いながら、手を差し出してくる。

反射で右手を出すと、ころりと転がり出たのは小さな飴だ。


「・・・カボチャ味?」


どんな味がするのか、とても気になった。


*


あっという間の一日。
橙と紺碧に染められたリアルな夕焼けに、世界が浮く。

空とこの空間の違和感が、一番際立つ瞬間だった。
どうしたって、現実の空に晒される限り、この世界は完全な別世界にはなれない。


早く早く、夕闇に沈め。
虚構の世界は、まだ続く。




一日中はしゃぎ続けて手を引っ張った彼が、目の前で悪戯げな笑みを浮かべている。
疲れて頭がおかしくなったのだろうか?

トリック・オワ・トリート、なんて言われても、お土産用のお菓子しか手持ちは無く、それを開ける気は一切無い。
首を捻って考えること、三十秒。


ふと、リップクリームの存在を思い出した。


甘いそれを唇に塗って口付ければ、少なくとも甘い味はする。
けれど、食事以外の口付けは殆どしたことが無いから、彼は嫌かもしれない。

・・・それ以上の案が出てこなかった。


後ろを向いてリップを塗り、再び振り返る。
きょとんとした顔で手を差し出そうとした彼の動きを牽制して、一瞬で近付き、口付けた。


軽く、一度。
それでは味がしない気がして、少しだけ深く。


けれどそのまま食事が始まれば、立てなくなってしまい、困るのも彼だ。
そうなる前に離れて、彼が口を開く前に挑発することにした。


ぐっと眉を上げて、きょとんとした目の前の顔を睨み上げる。


「お菓子は、甘いでしょ?」


言い返されてもすぐに応戦できるよう、首を傾げて意識を集中させた。
怒られたら嫌だな。そんな風に思っていた次の瞬間、濃紺の空に火の花が咲く。


ぱん、


音に驚いて、そちらへ気をとられた。
すると、その一瞬を逃さなかった彼に体を捕らえられ、耳元で低く囁かれる。


「マリは本当、僕に甘い」


それは貴方の方だ。


一日中繋ぎ続けた指先は、料理で、洗濯で、洗い物で、掃除で、荒れていた。
対称的に滑らかな自分のそれが悔しくて、何度も強く指を握っていたことを、彼は知らないだろう。


いつだってこちらの言葉を全て掬うくせして、自分の感情は簡単に無視する。
歩きやすいよう、迷わないよう、真綿を敷き詰めて道筋を作った上で選択を提示してくる。


甘いのは、イバラだ。
そして、それに甘んじるわたしは、愚かだ。

ねぇ。そんな事しなくたって、要らなくなるまで食料で在り続けるのに。




「綺麗だね、マリ」


掠れた声に、条件反射で小さく頷いた。
花火はいつまでも続くようで、けれど三分後に終わった。




余韻に浸っているのだろうか、彼はしばらく空を見詰めていた。
その紫色の瞳が何処か遠くを見ているから、ここへ戻ってくるよう手を引っ張る。


「帰ろ、イバラ」


紫の焦点が、こちらに合った。


「うん」


夢の残滓が残る世界から現実へ帰る為に、歩き出す。


「ねぇマリ」
「なぁに?」
「あのね、どうして甘かったの?」
「何が」
「くちびる」


今更それを引っ張り出されて、言葉が詰まった。
つい動きを止めてしまえば彼がくすくす笑うので、とりあえず軽く蹴ってやる。

そうしてすっぱりと繋いだ手を離し、そして鞄の中を探った。
取り出したのは、件のリップクリーム。


「これ」


彼がしげしげと手の中を見詰めてくる。


「・・・チョコレート味?」


奇妙なものを見る表情で覗き込んでくるから、頷いた。


「・・・なるほど」


妙な納得を示す彼が不思議だったけれど、すぐに手を引っ込めて鞄へしまう。
そして、その手を勢いよく出して、空の掌を差し出した。

彼のせいで荒れの無い指先だ。


「早く帰ろ」
「うん」


小さな手を、大きな手が覆い隠した。


「帰ろう、マリ」


握り締めた温もりは、すぐに肌へと馴染む。
遊園地を出て現実に戻ると、唐突に空腹と眠気がやって来た。


「マリ、」


呼ばれて顔を上げる。
彼もお腹が空いたというのなら、最寄駅の近くにある定食屋さんでお腹を満たすのも良いかもしれない。


「なぁに、お腹空いたの?」
「マリ、お腹空いたんだね。何食べたいの」


思わず食べ物の話を振った自分もいけないけれど、簡単に看破されてしまった。
それが悔しくて、けれど答える。


「納豆ご飯」


大爆笑されて、腹の皮を抓ってやった。




初めて連れてきて貰った遊園地。
繋ぎ続けた指先に見つけたのは、彼の優しさにも似た甘さと、わたしの愚鈍に近い甘さ。

明日からは、家事をしてみよう。
ささやかだけれど、反抗だ。ママにはできなかったのだから、ちょっとくらい許して欲しい。


ずっとずっと、甘やかし続けてくれた彼の指先が少しでも柔らかくなりますように。





(甘いといったらキス、キスといったら、食事)



(・・・彼がもう要らないと言った時、独りで生きていけますように)











 *