怖かったんだ。 17 : 春紫苑 姉が二人いた。 末っ子の自分にとって彼女達は絶対に正しい存在であり、庇護を与えてくれる温もりであり、服従すべきボスであった。 だから、 「雪はね、女の子なのよ」 そう言われて、信じない訳が無かった。 父親も母親も、幼い娘の戯れだと特に強く注意をしなかった。 だから僕は、本当にそう信じていた。 家でスカートを穿くのは普通だったし、初恋は幼稚園で同じ組になった男の子だった。 おかしい。そう気付いたのは、小学校に入学した頃だ。 男子と女子で振り分けられた出席簿。 自分の名前は、男子の方にある。 「あ、れ?」 担任に聞けば、この子は何を言っているのかしらという顔で、「真田くんは男の子でしょ?」と言われた。 そして漸く気付いたのだ。 自分の性別は、姉達とは違う、男だという事に。 「やだ、本当に信じてたの?」 「えーうっそー雪ってお馬鹿さんだったのねー」 姉達にはそうやってくすくすと笑われた。 だって。そう言われて育てば、誰だってそう思ってしまうでしょう? 「やーい、おとこおんなー!」 「きもちわるーい、ちかよるなー!」 同級生からは、幼い残酷さでそう言われては苛められた。 男子に話し掛ければ、真田はそいつの事が好きなんだ、と言われ。 女子に話し掛ければ、真田くんは女の子じゃないんだからあっちに行って、と言われる。 此の状態で人間不信になるなという方が無理だ。 こうして無口な真田少年は、協調性の無い子どもという烙印を押されたのだった。 その当時、帰り道は決まって同級生達に追われ、春は必ず黒いランドセルにハルジオンを差し込まれた。 ほらきれいだろ、とにやにや笑うその真意は、彼の花が「貧乏草」と呼ばれているからだ。 貧乏になれ、そんな無邪気な呪いを毎日毎日かけられた。 家に辿り着き、庭先でランドセルから白い花を抜く。 そんな自分が惨めで仕方なくて、けれど泣いたら心が折れてしまいそうで、ずっと堪え続けた。 堪えていたら、心は遠くなっていった。 *** 「雪、ハルジオンが咲いてた。ほら」 いる?そう言って悪戯げに笑いながら差し出された指。 彼が其の手に持つ花に、びくりと体が震えた。 小さな花弁をつけた、白い白い花。 蕾が地面を睨む、其れ。 咄嗟に視界に入らぬよう俯いた。 湧き上がる、あの頃の記憶、固い、しこりのような。 「雪?」 不思議そうに名前を呼ばれた。 けれど、返事が出来ない。 ごめんなさい。 「…すまない、先に帰る」 言うなり、足早に歩き始める。 銀杏が等間隔に植えられた歩道を抜け、ガードレールの外側を駅に向かって真っ直ぐ。 後から呼ばれた名前を振り切り、足音の聞こえない所まで、早く、早く。 景色が早送りで後に流れていき、何人か下校中の生徒達を追い抜いていったけれど、其れは全て制服という記号にしか見えなかった。 あの頃の彼らにとって自分はきっと、男女、という記号でしか無かったのだろう。 そうして駅に着いた時の喪失感といったら。 だから嫌だった。怖かった。 一度解いてしまった心は、簡単に傷がつく。 こんな人間を友達だ、と、言う方がどうかしているんだ。 to:snow3210@×××××.ne.jp from:pink_elephant@××.ne.jp 雪、今日はごめん。 何が嫌だったのか、明日教えて? 本当に、どうかしている。 どうしてそうやって、誰にも気付かれないようにしていた僕の心を掬おうとするんだ。 「そっか」 「…すまなかった」 翌日、昔の事を掻い摘んで話して謝った。 すると彼は何を謝るんだと怪訝そうな顔をしてから、ごそごそと数学のノートを取り出す。 「…燥一?」 「とりあえず雪のこと苛めてた子達の名前教えて?」 「…どうして」 「ばれないように殴りにいくから」 とてもとても良い笑顔だった。 「…は?」 「あ、でもこの歳になって殴るっていうのは低俗すぎるかな。まぁ野郎はそれでも良いとして、問題は女の子だよね。下駄箱に虫を詰め込むとか?幼稚だけど、結婚詐欺まがいの事するよりはマシだと思わない?」 「…そう、いち?」 「うーん、でもお姉さん達には流石に止めた方が良いかな。でも、ご飯に下剤混ぜるくらいはしないと俺の気が済まないんだけど、どうだろう。今度泊まりに行って良い?」 今の時期は毛虫かなー桜の木がいっぱいあるのって何処かなーなんて爽やかに言いながら、彼は落日に赤く染まった帰り道を歩いていく。 笑顔に反比例する不穏な内容の発言に、雪斗の足はぴしりと固まっていた。 「ゆーき?」 そんな自分を振り返り、無邪気に名前を呼ぶその顔といったら。 「…お前、腹黒いんだな」 「あんまりばれてないでしょう?」 「…別に僕は、仕返しをしたいとは思っていないんだが」 「雪はそうでも俺がしたいの」 「…やめてくれ」 「どうして」 「…人間不信になりそうだ」 そう言いながら、雪斗は笑んでいた。 例え嘘でも、自分の為に憤ってくれる。其れがどれだけ得難いものか、目の前の彼は知っているのだろうか。 あ、と言いながら、燥一は道端のフェンスを背中に隠すように立つ。 何かと思って其の足元を見れば、白い花弁が揺れていた。 「…ハルジオンの花言葉を知っているか?」 ふと聞いてみた。 すると彼は、足元の花を一瞥してから此方を向き、首を横に振る。 「其れは知らない。ハルジオンとヒメジオンの見分け方なら知ってるけど」 「…追想の愛」 「綺麗な花言葉なんだね。路傍の花なのに、意外」 蕾の項垂れた其の花を見ても、もう、怖ろしくなかった。 「なんで知ってるの?」 「…?」 「苦手な花、なんでしょう?」 気遣うように探るように言う彼に、思わず苦笑する。 別に、こんな僕に気を遣わなくとも良いのに。 「…少しでも、嫌いな要素が減れば良いと思って調べた」 貧乏草。 そう呼ばれているのも一部の地域だけで、由来も定かではないという。 だから、少しでも好きだと思える要素があれば。 怖ろしさを消せると思ったのだ。 ぼそぼそとそんな事を言うと、彼は微笑んだ。 教室で見せる真意の見えない笑みではなく、思わず零れた、そんな顔で。 「雪は強いね」 「…強くないから、そうせずには居られなかっただけだ」 「だから、其れが強いんだよ」 夜の帳が、街を抱く。 車のヘッドライトがちかちかと輝き始める姿を横目に見ながら、あとは黙々と駅へ歩き続けた。 息苦しさは無い。重く沈んでいく空気も無い。 並んで歩くのが当たり前、其れは歓喜にも似ていて。 「じゃあ雪、また明日」 「…ああ。また、明日」 滔々と解けていく心に、泣き出してしまいそうだった。 *** 怖かったんだ。 許した心を踏み躙られるのが。 差し出された指を握った瞬間、振り払われるのが。 あの白い花が手折られ、罵られ、捨てられるように。 自分の心が手折られ、罵られ、捨てられてしまうのが。 けれど、もう、それでも良いと思える程に。 彼は僕の心を掬った。 あの花を踏み躙る足があるように、 あの花を大事に抱える指があるのを知ったから。 もう、怖くない。 解けた心がとうとう堕ちた此の恋。 好きだ、と。 伝えたら彼は困るだろうか。 彼の心の中に、大事な大事な人がいるのは知っていた。 それでも僕は、想い続けるのだろう。 永遠の片思い。 眩暈を憶えるほどの、窒息してしまうほどの、苦い苦い此の感情を。 欠片でも伝えられたのなら、幸せだったと言えるだろうから。 |