「初めまして、砂山燥一です」 日を透かして茶色く輝く髪が、窓から入る風に揺れる。 「この春引っ越して来たばかりなので、美味しいケーキ屋さんが何処にあるかも分かりません。道案内して欲しいです。よろしくお願いします」 整った顔立ちの中心にある底の見えない瞳が、笑みに細まった。 狐のような、何かを企んでいる表情。 −思わず、吸い寄せられた。 ゆらゆら、ゆらゆら。 いけない。そう思いながら。 16 : 長実雛芥子 「真田くんは部活決めた?」 上から問われ、雪斗は小さく肩を震わせた。 弁当箱に箸を置き、ゆっくりと顔を上げる。猫背を真っ直ぐにしなくとも、上目を遣えば長い前髪の隙間から彼の姿は確認できた。 昼休み、教室内に居る生徒は疎らだ。 廊下の向うの中庭からはきゃあきゃあと遊ぶ声が届き、グレーのロッカーがそれを弾いている。 ちらと周囲を確認し、どうやら彼は自分に話し掛けているらしい事を理解した。 ぼそりと返答する。 「…まだ。でも、何処にも入る気は無い」 最低限の返答をして、再び机に視線を戻す。 自分で作った弁当は肉に偏った内容だけれど、食欲を満たすには十分だ。 もそもそと食事を続けていると、カタリと音をたてて彼が前の席の椅子に座る。 自分は真田、彼は砂山。出席番号の席順だから、座るのなら後だというのに。 不思議に思い、もう一度雪斗は顔を上げた。 すると彼は、目を細めて微笑みながら言った。 「じゃあ、俺と一緒にバスケ部いこうよ」 そしてそのまま、入部する事になっていた。 彼はどんな人間なのか。 勉強ができて運動もそこそこ、学級委員長にはならないけれどいざという時に頼られる優等生、オプションで整った顔をしている、要は教室というピラミッドの上層に所属する類の人間だ。 では、自分はどんな人間なのか。 勉強はそれなりにこなすが運動音痴、だらだらと延ばした前髪に黒縁眼鏡の根暗で落ち零れ、顔だって両親には悪いが整っているとは言えない、要は教室というピラミッドの下層に所属する類の人間だ。 月と鼈、金剛石と石ころ、英国式庭園で咲き誇る花と路上に生える雑草。 つまりは対極の立ち位置にいる訳で。 だから、彼が自分へ話し掛けてくる、気付けば隣に居る、其の理由が一切分からなかった。 「燥一ってどーして真田みたいなのと一緒にいるんだろうねー」 「さぁ…あ、便利なんじゃん?昼休みにパン買いに行かせるとかさー」 「ははっそうだな、間違いないや」 同級生がそう話していて、成る程、と思った。 パシリにはされていないけれど、共に居れば優越感を味わう事は出来るだろう。 なんだ、そんな事か。 期待しなくて良かった、と。廊下の床に寄り掛かり、胸を撫で下ろした。 (こんな僕と友達になりたいなんて、思う訳ないんだ) そんな事、慣れていた。 ところで雪斗は一度始めた事に関して、余程の事が無い限りは途中で辞めない。 教室という狭い社会ですら上手く生きられない自分だから、せめて筋は通すと決めていた。 だから、只管基礎体力作りの為にランニングや柔軟、腹筋腕立て伏せの続くバスケ部の練習で脱落していく一年生が出始めた中、雪斗は何も言わずに毎日黙々と体育館へ向かっていた。 そうして練習メニューをこなし、自然と一緒になってしまった帰り道。 あれだけ運動したというのに涼しい顔をした彼は、鼻歌を口ずさみながら雪斗の隣を歩いていた。 駅がもうすぐ見えるタイミングで其の足がふと止まり、夕日に照らされた顔が此方を向く。 つられて立ち止まり視線を合わせた雪斗は、目の前の底知れない褐色の目にどきりとした。 「ごめん、真田くん」 「…何が?」 唐突に謝られ、どきりとする。 とうとう突き放される日が来たのだろうか。 けれど、もった方だろう。 こんなにつまらない自分と長く一緒にいてくれる人間なんて、いない。 思考を遮るように、実は、と、声が続く。 「もう少し緩いと思ってたんだけど、練習が意外にきつかった。付き合わせちゃって申し訳ない。大丈夫?」 「…いいよ、慣れ……え?」 「俺は中学の時もバスケやってたからついてけるんだけど、真田くん初めてだよね?きつくない?」 想定外の言葉を掛けられ、頭が真っ白になった。 彼の顔がしてやったり、と言いたげなのは気のせいだろうか。返答する間も無く、ぽんぽんと問われる。 「でもね、俺的には辞めて欲しくないなー一緒に頑張りたいなーなんて思ってるんだけど、どう?」 駄目? 首を傾げて狐のように笑んだ。 其れは確信犯で、そんな風に請われれば誰も断れないであろう事を、此の笑顔は知っている。 「っ」 頬に血が集まるのを感じた。 そうして赤く染まる自分の顔はどうしようもできなくて、思わず視線を外し俯く。 其の様子を見詰める視線は外れてくれず、兎にも角にもどうにか取り繕おうと人差し指で眼鏡を押し上げた。 「…べ、別に大した事は無い」 「本当?経験者の俺でも割ときついよ?」 「…良い経験だ」 「そう?じゃあ辞めない?」 「…僕は、一度始めた事はやり通すと決めている」 ………あ。 と思った時のにはもう遅く、慌てて顔を上げれば彼はしてやったりという表情を浮かべていた。 男に二言は無いよね、なんて囁くように言い、再び駅まで歩き始める。 乗せられた。 そう思わなくもなかったが、けれど雪斗は、込み上げる笑みが堪えられない。 だって。 今までの人生で、こうして何かに誘われた事なんて、引き止められた事なんて、一緒に何かしようと言われた事なんて、殆ど無かった。 けれどまた、不安になる。 どうしてこうして自分を誘う? 笑みが引き、踏み出そうとした足が元に戻った。 再び俯き、此のまま彼の背中が見えなくなるまで立ち尽くしていようか。 じっと地面を見詰めていたら、ふとガードレールの傍に咲く橙の花が目に入った。 ゆらゆら、風に吹かれて心許無く揺れている。 「真田くん?」 「…っな、何か?」 「ぼーっとしてるから、どうしたのかなと思って」 「…あ、ああ、あの花を見ていただけだ」 思わずそう言うと、彼の視線も其方へずれた。 ああ、と呟いてしゃがみ込んだ背中は、思っていたよりも華奢だ。 ふわふわ、夕日に透けた髪が揺れる。 ゆらゆら、橙の花が揺れる。 「長実雛芥子だね」 「…は?」 「ナガミヒナゲシ。芥子の仲間で繁殖力が強いんだってさ。だから、こんな所にも咲いてるのかな」 逞しい奴、と嬉しそうに言ってから立ち上がった彼の表情は、邪気の無い笑みだった。 其の中に昔を懐かしむ色を見つけ、あれ、と不思議に思う。 「…どうして、そんな名前を?」 「んー、一つ下の幼馴染が二人いるんだけど、其の片方が一時期道端の花にこってて。そーいちあの花の名前はなぁにって聞いてくるから、いちいち調べてた」 「…優しいんだな」 「ううん、答えられないのが悔しかっただけ」 さ、帰ろう。 ふわりと肩を叩かれ、ぎくりと体を強張らせる。 いけない。このままじゃ、いけない。 そう思うのに、足は一歩目を踏み出そうとし、目は彼を追っていた。 「…砂山くんは、英国式庭園に咲く花の名前を知っているか?」 「まさか!なんで?」 「…なんとなくだ」 変な奴、そう言ってふふと笑い振り返る。 アスファルトの道に影が長く伸びた。 「ところでさ、砂山くんて呼ばれるのが他人行儀で嫌なんだけど、変える気は無い?」 「…検討する」 「そう固い事言わないでさ、そうーとかそーいちーとか呼んで欲しいなー」 「…善処する」 「別に良いじゃん減るものは無いんだし。ね、雪」 「?!」 俺はそう呼ぶもんね、と言って彼は再び歩き始めた。 数歩分の距離があいた所で自分も突っ立っている訳にはいかないと気づき、雪斗も足を踏み出す。 けれど、初めて呼ばれた名前に浮つく心を抑えるのに必死で、何も話せなくなってしまった。 そうして辿り着いた駅。乗る電車は反対方向だ。 じゃあまた明日、と言ってホームへ続く階段を昇り始めた彼に、雪斗は小さく小さく言葉を掛ける。 「…燥一、また明日」 彼は弾かれたように振向いた。 そして。 ふわりと一つ、嬉しそうに目を細めて笑んだ。 *** ゆらゆら、ゆらゆら。 いけない、そう思っていた。 けれどもう、手遅れだ。 ゆらゆら、ゆらゆら、花が揺れる。 ゆらゆら、ゆらゆら、揺れた心は漸く堕ちた。 ―――――おそらく、恋というやつに。 |