好きだよ。 12 : 桜 昔はよく遊びに来ていたし、兄と父親が留守の時は同じ布団に包まって眠ったりもした。 彼の部屋はよく知っている筈だったのに、荷物が運び出されて部屋から箱へと変わってしまった其の場所は、がらんとして妙に広く、その癖おかしな圧迫感を持っている。 「…意外に広かったんだな」 「そうかもね。机とか棚が大きかったから、部屋が小さく見えてたかもしれない」 綺麗に拭いたフローリングはつやつやと午後の光を反射した。 誘われて思わず寝転がると、窓の向うに揺れる青と薄桃色が鮮やかに窺うことが出来る。 はらり、はらり。 花びらが舞うのに一拍遅れて、ふわり、ふわりと部屋の中で風が踊った。 「瑞夏、其処で寝ないでね」 「んー」 苦笑いを孕んだ言葉に、ぼんやりと頷く。 あまりにも居心地の良い日だ。 明日、別れの日がやって来るとは思えない、麗らかな春の日。 「なぁ、燥一」 瞼を落とし、猫のように伸びをする。 「夏休みは、帰って来るんだよな?」 確認するような問いに、彼がくすくす笑う気配がした。 其れを目で確認するのは億劫だと思っていると、気配が近付いてくる。そして自分と同じようにごろりと横になった体を知り、無意識で其方に寝返りをうった。 「帰って来て欲しいの?」 頬を隠しフローリングに散った伸びかけの黒髪を越え、言葉が耳朶をくすぐる。 「うん…」 はらり、はらり。 花びらが重力に吸い寄せられるように、意識が静かに沈んでいった。 「お祭り、毎年一緒に行ってただろ?」 今、目の前に居るというのに。 会いたいと願うのは、どうしてだろう。 きっとそれは、季節が巡る度に一緒に出掛けた場所へ、一緒に行けなくなるのが寂しいからだ。 寂しい?どうして? …そんなの、幼馴染だもの。ずっと一緒にいたのだから、当たり前だろ。 そうか。そうだな。 疑う余地も無くそう結論付けた彼女は、そのまま静かに夢をみた。 幼い頃の彼と彼女と自分が遊び、兄が遠くで見守っている。そんな夢だ。 無防備に眠る頬の線をそっと撫ぜるとむずがるように体を寄せてきた彼女に、彼は顔を綻ばせた。 はらり、はらり。桜が舞うように。 其の優しい眼差しを、彼女は知らない。 もうすぐ出発の時間だというのに、彼は公園へいるという。 瑞夏ちゃん、呼んできてくれないかしら?彼の母親に小首を傾げてお願いされた彼女は、頷くより早く駆け出した。 幼い頃はよく遊んだ、桃色の象の滑り台がいる公園だ。 方向音痴の彼女でもきちんと辿り着く事の出来る、数少ない場所だった。 「燥一?」 車止めを越えると、地面が土へ切り替わる。 名前を呼んでぐるりと一周見渡せば、彼は滑り台がよく見える場所、桜の木の下に佇んでいた。 枝の隙間から空を睨むように見上げている其の姿に近付いていくと、足音に気付いたのだろう、ふわりと目を細めた小さな笑顔が此方を向く。 「瑞夏」 名前を呼ばれたのは今此の瞬間だというのに、其れは懐かしい響きを孕んでいた。 「もうすぐ出発だろ?こんな所で名にやってるんだよ。帰るぞ」 「いつもと逆だね」 「え?」 「いつもは、瑞夏を探しに俺が公園まで来てた」 「あぁ、そうだな」 幼い頃の記憶を探っているのだろう。 目を細め、そして閉じた彼はくすりと笑んで首を傾げた。 其の仕草がどうしようもなく遠く思うのは、何故だろう。 手を伸ばせば届く場所に居るというのに。 はらはら、はらはら。 桜が舞う。 一際大きな風がうねった。 「−−−−」 「え?」 言葉が、上手く掬えない。 聞き返したら、彼はそっと指を伸ばして頬に触れてきた。 やわやわと産毛を撫ぜられるような感触に、彼女はあぁ、と思う。 去年の夏くらいからだろうか。 彼の笑顔が柔らかくなったのはきっと、大人というイキモノに一歩近付いたからなのだ。 昔はよく手を繋いだ。 其の掌は柔らかくふわふわとしていたけれど、今こうして触れてくる指は硬く骨ばっている。 「燥一?」 真っ直ぐ見上げると、日に当たって茶色く空けた髪がさわさわと揺れていた。 前髪の下にある茶褐色の瞳は深い色を湛え、けれど悪戯げに笑みを模る。 「好きだよ」 唐突な言葉。 底に潜んだ感情は、あまりにも温かくけれど激しいものだった。たった四つの音の響きだというのに。 「そう、いち?」 そんなの、困る。 幼馴染だ。居なくなるのは寂しい。けれど、突然そんな感情を貰っても、困る。 言葉に込めた恋心を悟った彼女に驚いたらしく、彼は目を見開いた。 そうしてくすくすと笑う。次第に大きく笑い始めた其の様子をひどく混乱した頭で見詰めていた彼女は、困った顔で彼へ一歩近付いた。 「燥一、あたし…」 「良いよ、いきなり言われて困ってるのは分かってるよ」 「うぅ…」 「その代わり、夏に帰って来るまでには答えを出してね」 はらはら、はらはら。 散りゆく花びらの中、今度は彼から一歩。 そして二人の距離は、近付いてきた唇が頬に触れることで零になった。 はらはら、はらはら。 桜の花びらが滑り落ちたような、果敢ない感触だ。 けれど確実な熱を伴った柔らかさに、瑞夏は眩暈を覚える。 はらはら、はらはら。 静かに離れた彼は、壊れ物を扱うように彼女を腕へ閉じ込めた。 耳元をくすぐる、まだ少しだけ高さの残る声。 「それじゃあいってくるね、瑞夏」 さよならなんて言ったら押し倒すよ、だからいってらっしゃいって言って。 周りに人なんて居ないのに、誰にも聞こえないように囁かれた声。 「…早く、帰ってこいよ」 恥ずかしくて、そう言った。 仕方ないなぁ、幼子を宥めるように言った彼は、髪に花びらを一つつけたまま。 永遠に忘れられない無邪気さで微笑んだ。 *** はらはら、はらはら。 だから桜は嫌いだ。 あいつと話した最後の季節。 あいつを思い出す最後の姿。 其れは、桜に塗れているから。 はらはら、はらはら。 はらはら、はらはら。 置いてきぼりにされたのは、あたし。 |