誰かを好きになるって、どんな気持ち?


二歳も年上の女の人から、そんなメールが届いた。


ふと思い出したのは、去年の夏休み前。あの日の事だった。






揺るぎない : 11





屋上へ向かう階段の途中に座って数学の問題の解き方を教えていたら、唐突に言われた。


「砂山、彼女いるっけ?」
「いや、いないけど」
「たまに一緒に帰ってる二年生の女の子達は?」
「あれは幼馴染」
「そう。じゃあ、砂山が好きだから付き合って?」
「・・・・・・」
「困ってる?」
「微妙に」
「返事はいつでも良いよ。考えといて」


同級生の女子生徒はそう言うなり、セーラー服を弾ませて去っていく。
見送った燥一は、細く息を吐いた。
そしてそのまま天井を眺めながら、さてどうしたものかと考える。

男子生徒の間ではなかなかの人気を誇っていた筈だ。
可愛く、適度に頭が良く、駆け引きを知っている。


とはいえ、同世代の女子とは幾度か付き合い別れるという一連の流れを経験した事はあるけれど、結局は理不尽な理由で別れを切り出された。
曰く、ちゃんと私の事を見てくれない、寂しい。だから別れて欲しい、と。
いいよと言えば、言い出したのはそちらの癖に何故か泣かれてしまい、挙句最低と言われる。理不尽だ。


正月に会った際五つ年上の従兄弟に其の話しをすると、彼は理由を教えてくれた。


別れたくないって言って欲しくて、其の子達はそう言ったんだろ。乙女心は複雑らしくてな、相手の気持ちを確認する為に冷たくしてみたり時には別れを切り出して、すまない別れたくないって自分を追ってくる男の姿を見て、安心したいんだと。


正直面倒だ、と燥一は思った。
一応反抗期というやつだったらしく、彼は一つ年下の幼馴染二人の面倒を見るのに嫌気が差していたのだ。
どうして自分ばかり、こうして気を遣い守ってやらねばならない。そんな風に。

だというのに、今度は恋人に対して気を遣い何を求めているのかを先読みして、其の自尊心を満たしてやらなければいけないという。


そんなのご免だ、だったら恋人など要らない。
心底嫌そうにそう呟くと、従兄弟はにやりと笑って友人だという一人の女性を燥一へ紹介した。


其の人は恋愛が好きだという点でとても女性らしいというのに、驚くくらい何もかもを割り切って考える人だった。
従兄弟に話した内容と同じ事を伝えると、彼女はにやりと笑んで言う。


いいわ。それじゃあ私が色々教えてあげる。
いつか本当に好きな子が出来たら、其の子の為に駆け引きを楽んだり気を遣ったり欲しい言葉を上げたいと望む女の子に出会えたら、其の時に何も出来ないのは困るでしょう。


そうして楽しそうに教えられた事の中には、口に出すのが憚られる事もある。
兎にも角にも恋人では無いけれどそういう女性がいたお陰で、恋人が欲しいという切羽詰った思いが無ければ、思春期真っ只中の男子達が興味を持つ類の行為について好奇心を埋めたいという焦燥も無かったのだ。

とはいえ、その人は漸く運命の人と出会えたとか何とかで、ここ最近連絡をとっていない。


さて、どうするか。退屈しのぎに頷くべきか。
頭の中を覗かれてしまえば最低と言われるであろう内容を考えながらもう一度息を吐き出した時、屋上から聞き慣れた声が掛けられた。


「さ・や・ま・先・輩!」
「純?」


年下の幼馴染の片割れだ。
やれやれ、と思いながら屋上の入口を見上げた。逆光で声の主の顔は見えず、影になっている。
けれど、首を傾げる仕草はどう考えても純南のものだった。


「うふふーもてもてだねぇ、青い春ですねぇ!って、ひどーい。嫌そうな顔してるー」
「立ち聞きされるのは、誰だって嫌だと思うけど?」
「べっつに好きで聞いてた訳じゃないもーん。ねぇみっちゃん?」
「まったくだ」


幼馴染のもう片方も、ひょいと顔を出す。
あぁ、最近はわざと避けていたというのに遭遇してしまった。


「なんだ、瑞夏も居たのか」
「なんだよ、居ちゃ駄目かよ」
「ううん、別に」


そう言いながら、立ち上がって素早く帰り支度をする。


「じゃあ、二人とも気をつけて帰るように」
「え、燥一は?帰らないのか?」
「塾」


此れは本当だ。
授業が始まるまではまだ時間があるけれど、早めに行って自習室で時間を潰せば問題は無い。


其れ以上は何も告げずに歩き始めた燥一へ、彼女達から声が掛かる事は無かった。





其の晩、瑞夏の兄である秋弥から電話が掛かってきた。


「久しぶりだね、燥一」
「久しぶり、秋くん。どうしたんだ?」
「んー、我が妹の幼馴染殿が反抗期らしいから、偵察」
「・・・俺のこと?」
「他に心当たりが居るの?」
「居ない」


ふふ、と笑い声が受話器から漏れる。
妹を溺愛する此の兄は、父性に目覚めているのかいつだって穏やかに笑んでいた。そのくせ言う事とやる事は計算高いというかたまにえげつないから、敵に回したくは無い。


「うん、反抗期みたい」
「・・・悪い?」
「ううんー悪くは無いよ、可愛い可愛い」


此の歳で可愛いと言われても嬉しくなかった。
勿論其れを承知で言っているのだろう。柔らかな声が、ちくりちくりと身に刺さる。

そのまま、少し話をした。
部活の事、勉強の事、昔よく見た星の事…物心ついた時には瑞夏と純南が横に居たから面倒を見て、それを後ろから見守っていた此の兄に偶にだけれど甘えていた。
天体観測も秋弥に誘われて好きになったものだから、今の自分が在るのは此の幼馴染達がいたからこそなんだとぼんやり思う。

当たり前の、日常。
其の外側を望んだのは、何時からだっただろう。


話の流れで星座の本を借りる事になり、瑞夏が教室まで届けてくれる約束になった。
家は近所なのだから取りに行くと言ったのに、いいよ届けさせるから、と押し切られてしまったのだ。

珍しく力押しをされたから、どうしてかと問う。
すると秋弥は、相変わらずの穏やかな声で告げた。


「手離すのなら構わないけど、二度と触れさせないよ。だから、最後にもう一度確認しておけばっていう親切心」


ぞくり、と背筋が疼く。

妹から離れるのなら今後はもう近寄らせない、それでも構わないのなら何処へなりと行けば良い。
そういう意味だ。傷つけるような男になど妹を与えてやる気は無い、と。


他人には、過保護すぎると思われるかもしれない。
けれど、幼い頃から父親と兄を傷つけまいと涙を堪えていた少女だ。
真綿に包んで優しいだけの世界を与えたいと思うのは、願うのは、止めようも無いのだろう。
妹の優しさに庇われていた兄は、今、妹を守る手を持っていた。


「なんだかんだで、秋くんは俺に甘いよね」


苦笑して言えば、再び柔らかな笑い声が漏れる。


「だって、幼馴染だからね」


そうして受話器を置く。
さて、どうするか。


無意識の内に彼女と彼女の居ない世界とを天秤に掛けていた燥一は、首を横に振り其れを追い払った。





「そうー!お客さんだぞー!」


廊下へと続く扉に近い席に座る級友から声を掛けられ、ゆるりと振り向く。
視線の先にはセーラー服に身を包んだ幼馴染が居て、本を届けて貰う約束をしていた事を思い出した。

はいはい、と小さく応えて立ち上がる。
机の群れの間を縫うようにして近付いていくと、次第に彼らの話し声が聞こえてきた。


「−−−−−ただの幼馴染です」
「そっかー良かった良かった。またあいつの毒牙にかかった女の子が出たのかと」
「へ?」
「うんうん、ところで君可愛いねー彼氏いる?」


あぁ、彼女の兄に聞かれたのならこの級友はぼこぼこにされていただろう。
俺で良かったね。そう思いながら燥一は、セーラー服に包まれた無防備な肩へ伸びかけていた腕を少し強めに掴んでやる。


「瑞夏、どうしたの?」


此方の優位を示す為に、余裕を孕んだ響きで声を掛ける。
その威嚇に対して級友は、びくりと肩を揺らした後で静かに身を引いた。

隙間を埋めるように彼女の前に自身を滑り込ませて教室内から見えないようにしたところで、はて、と思う。
どうして自分は、目の前の幼馴染を庇おうとしているのか。…庇う?何から?

考え始めるときりが無くなりそうなので、燥一は思考を止めて幼馴染を見遣った。
人見知りをする彼女は不安げに瞳を揺らすけれど、其れを悟らせまいと背筋を伸ばしているようだ。

あぁ、本当に無防備だ。
どうしようもなく心配になり、けれど其れが煩わしくて距離を置いた事を思い出した燥一は、彼女に対してやれやれと呆れて見せる。


「まったく。瑞夏、いつか飴につられて誘拐されるよ」
「大丈夫、飴だけ奪って逃げるから」


予想の斜め上をいく返答はいつもの事で、だから流した。


「で、本を持ってきてくれたんだよね?」
「うんそう。はい。あたし届けるのもう嫌だからな」
「俺ももう頼むのやめようと思ったよ」


こうも居た堪れなくなるのでは、自分の身が持たない。


「ありがとう」


思わず苦い笑みが零れた。
すると瑞夏の視線がぼうっとしたまま動かなくなったから、どうしたのかと顔を覗き込む。


「どうした?」
「ううん、何でもない」


よく見ると、瞳がとろんとしていた。
何でもない訳が無いだろう、と問い詰めようと口を開く。けれど其の言葉は声になる前に高い声で遮られた。


「砂山、此処の問題教えて欲しいんだけど、放課後時間ある?」


昨日の女子生徒だ。


「ああ、さっきの問題?いいよ」
「あ、ごめん邪魔しちゃったカナ。幼なじみさん・・・だよね?」


上目遣いで窺ってきた女子生徒は、けれどそんな事など百も承知なのだろう。
此の状況で話し掛けてきたのは、おそらく瑞夏に対する牽制だ。けれど此の幼馴染は、そういった事にひどく疎いから気付かない。


「うん、でも用事は済んだから」


面白そうだから、乗ってやろうじゃないか。
そう思い瑞夏を振り返ると、彼女は幼い顔でほんの少しだけ眉を顰めていた。


「瑞夏、階段踏み外さないように戻るんだよ」


子ども扱いが、どうやら癪に障ったらしい。
バーカ、と短く鋭く言った彼女は、ぐるりと体を翻して自分の教室へ戻る為に足を踏み出した。
けれどそこでバランスを崩し、倒れ掛かる。


手を差し出さないという選択肢もあった。なんて薄情な、と自分で自分を哂ってやる。
けれどそんな思考より早く、燥一の手は彼女を支えていた。

反射で行われた選択に、自分自身が驚く。


「わっ」
「…何やってんの、バカ娘」
「悪い、バランス崩した」
「分かったから、ほら自分で立つ」


其れを隠して呆れたように言い、彼女の背中を押してやった。
けれど何度やっても上手くバランスをとる事が出来ない様子におかしいと思い、額に手を当ててみれば案の定、常より高い体温を宿している。


仕方ないと溜め息をひとつ。そして彼はひょいと彼女を担ぎ、女子生徒を振り返った。


「ごめん、こいつ保健室に連れて行くから」


また後で。そういう響きを含ませて。


ばたばたと暴れる瑞夏をあやしながら、保健室へ向かう。
その道すがら、燥一は自分が分岐点に立っている事に気付くと笑いが止まらなくなった。





そして放課後。
昨日と同じように屋上へ続く階段へやって来た彼らは、同じ数学のノートを覗き込んでいた。


「で、さっき証明した通りこ此の辺の比と、其れを挟む角が等しいから此の三角形は相似になる」
「あー、なるほど…」
「最後まで解けなくても、分かった事だけ書いておけば先生は点くれるだろうし、大丈夫だよ」
「ん、ありがと」


リップクリームを塗った唇が、笑みの形を作る。
花の色をした其れは何処か媚を纏っていて、くすくすと喉を鳴らす目の前の黒い瞳はかちりと燥一を捉えていた。


「それで、考えてくれた?」
「んー…」


返答を求められ、答えに窮する。
このまま口付けても良い。其れくらいの距離だ。ほんの少し埃っぽい階段は歪な感情にぴったりで、そうしようかと本気で思った。

けれど、ふと、保健室まで連れて行った少女の事を思い出す。
おそらく純南だけでは連れて帰る事が難しいだろう。だから、当たり前のように家まで送るつもりでいた。

今、目の前にある手をとったらそれは難しいだろう。
彼女より幼馴染を選ぶの?そう言われてしまえば、取り付く島も無い。


「砂山?」


期待の籠った問いだった。
別に良いじゃないか。純南が彼女の兄に連絡をするだろう。そうすればきっと、すぐに迎えがやって来る。


「一緒に帰ろ?」


首を傾げる仕草。
其れはどう見ても女のもので。だから、燥一は。


「幼馴染を家まで送らないといけないから」


そう告げていた。
先ほどと同じ、反射の選択。今までずっと選んできた、当たり前の回答だった。


ごめんね、と呟くように伝え、立ち上がる。
放り出した鞄を背負い階段を一段降りた彼に、取り残されそうになっている女子生徒は問うた。


「あの子のこと、好きなの?」


自分が聞きたい。

燥一が答えられずにいると、其の沈黙を肯定ととったらしい。
そう、ならいいわ。冷ややかな声で言った喉は白く触れてみたいと思ったけれど、その前にスカートの裾を翻して行ってしまった。


軽やかな階段を駆け降りる音。
其れが完全に聞こえなくなった所で、大きな大きな溜め息を落とす。





あぁ。逃れられない。





しばらくして、見慣れた少女が階段を昇ってきた。


「…また聞いてたのか、純」
「エヘ。ごめんね?」
「いいよ、別に」
「みっちゃん好き?」
「……」


よいしょ、と小さく言って階段へ座った純南は、子守唄を歌うように言う。


「きっと燥一は、これからもそうやってみっちゃんの事を選んでいくのね」


其れ以外は結局選べないのね、と、純南はふわふわ微笑んだ。


「…ばーか」


其の額を小突いてやりながらも、燥一は目を細め苦笑する。
そして保健室で寝込んでいるであろう彼女を迎えに行く為に、再び階段を降り始めたのだった。



***



あぁ、そうか。
揺るぎない此の選択こそ、彼女への恋心だ。



***



誰かを好きになるって、どんな気持ち?


自分の回答だけでは心許無いからと秋弥と純南にメールを送ったら、彼らは言葉は違えど「突然どうしたんだ、湿気と暑さで頭がやられたか」という内容の後に真面目な答えを返してくれた。


其れと自分の意見とをメールへ打ち込み、送信する。
これであの人が何かを考えるきっかけになれば良い。そう思った。


携帯電話を静かに閉じて、枕元に置く。
いつだって彼女に繋がる其れが在るからこそ会えない距離を耐えられるし、すぐに手を差し出してやれない距離だからこそ連絡をとらずにいた。


「…おやすみ、瑞夏」


名前を唇に乗せれば、会いたい衝動に襲われる。
けれど理性で抑えると、燥一はきつく瞼を閉じた。


夏休みまで、あと少し。
それまでは、不器用なあの人達にお節介を焼こう。


そう決めて、彼は暗闇に意識を沈めたのだった。



***



to:oqo5558××××@×××××.ne.jp
from:pink_elephant@××.ne.jp

一緒に居たいという願い。全て奪いたいという欲望。優しくしたいその人の為に何かしたいと思う優しさ。幸せで在って欲しいという祈り。
以上、俺の大事な女の子のお兄さんの意見。

好きって要するに愛おしいってことでしょ?
以上、まりあさんに紹介した幼馴染その二の意見。その一は、大事な女の子のことですよ?

俺は…最終的に、その子を選んでしまう揺るぎなさ。でしょうか。





翌朝、ありがとう、という短い返信があった。
参考になったかどうかは、よく分からない。






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