差し出された掌は、永遠だと思っていた。 11 : 夕暮 扉の向こうから聞こえてきた声の片方は、耳に馴染んだ彼のものだ。 「砂山、彼女いるっけ?」 「いや、いないけど」 「たまに一緒に帰ってる二年生の女の子達は?」 「あれは幼馴染」 「そう。じゃあ、砂山が好きだから付き合って?」 「・・・・・・」 「困ってる?」 「微妙に」 「返事はいつでも良いよ。考えといて」 会話が終り、階段を駆け下りて遠のく足音がする。 完全にその音が消えた所で、瑞夏の隣に居た幼馴染は屋上の扉からひょいと屋内を覗いた。 「さ・や・ま・先・輩!」 「純?」 「うふふーもてもてだねぇ、青い春ですねぇ!って、ひどーい。嫌そうな顔してるー」 「立ち聞きされるのは、誰だって嫌だと思うけど?」 相変わらずの他人を挑発するような笑みを浮かべた燥一に、純南はぷぅと頬を膨らませる。 「べっつに好きで聞いてた訳じゃないもーん。ねぇみっちゃん?」 話を振られた瑞夏も純南の上から屋内を覗き、神妙に頷いた。 「まったくだ」 「なんだ、瑞夏も居たのか」 「なんだよ、居ちゃ駄目かよ」 「ううん、別に」 燥一は静かに立ち上がる。 開け放たれた屋上へ続く扉の向うは夕焼けに染まっていて、どうしようもなく懐かしい光が深い影を作っていた。 寂しげだな、なんて苦笑を漏らした少年は、両手で埃を払い鞄を持ち上げ、つと幼馴染二人を振り返る。 「じゃあ、二人とも気をつけて帰るように」 「え、燥一は?帰らないのか?」 「塾」 短く答えると、とんとんと軽やかな足音で少年は階段を降り始めた。 その後姿が見えなくなるまで見送ってから、少女二人は再び屋上へ戻る。 「なんだかなぁ」 「んー?」 「燥一、最近冷たくない?」 「そうか?」 「そうだよーみっちゃんてば鈍いんだからー」 彼女がそう言うなら、そうなのかもしれない。 そうか、と神妙に頷いた瑞夏は、ふと青を深めていく空を見上げた。 どうしてだろう、疼くように痛い場所がある。 理由が分からず、探しても見つからず、眉を顰めた。 ふわりと風が頬を撫で、一つに束ねた髪を揺らす。 似合わないセーラー服のスカートがばたばたと楽しそうに空気を孕み、瑞夏を嘲笑った。 むぅ、と唸った彼女は其れを軽く抑えてやり、持て余した気持ちを空腹のせいにする。 「よし、お腹も空いたし帰るか!」 「うん、帰ろー♪」 そして勢いよく立ち上がり、幼馴染へ手を差し出した。 握り返す白い手は女の子のもので、茶色っぽいふわふわの髪を束ねてにこにこと笑う純南が少しだけ羨ましくなる。 「みっちゃん?どしたの?」 「ううん、なんでもない。さ、今日の夕飯は何かなー」 「何かなー♪」 視線を合わせて笑い合い、屋内へ。 ばたん、と大きな音をたてて閉めた扉は、それでも瑞夏の心から疼きを締め出す事はできなかった。 翌日、瑞夏は三年生の教室の前にぼんやりと佇んでいた。 彼女が片手に持っているのは、星座の図鑑だ。 今朝、「燥一に渡してくれるよね」と命令形で兄から渡されたもので、渋々近付きがたい他学年の教室までやって来たのである。 ざわりざわりと休み時間の音がする教室は、学年が一つ違うだけだというのに随分と雰囲気が違った。 テキストを開いている者、踵を踏んで歩く者、くすくすと笑う大人びた空気・・・ 帰りたい。そう思うけれど、本を渡さずには戻れない。 はぁ、と大きな溜め息を吐き、瑞夏はのろのろと扉付近に座っていた男子の先輩に声を掛けた。 「すみません、砂山先輩をお願いしたいのですが」 「はいはい、良いよー。そうー!お客さんだぞー!」 得意の人見知り癖を発揮し、フェードアウトしたいとばかりにそのまま俯く。 けれどその先輩は興味深げに彼女を眺め、人好きのする笑顔で聞いた。 「君、燥の彼女?」 「違いますただの幼馴染です」 予想外の質問に、瞬発力で全否定する。 すると何が面白かったのか先輩はくすくす笑い、首と傾げながら言葉を続けた。 「そっかー良かった良かった。またあいつの毒牙にかかった女の子が出たのかと」 「へ?」 「うんうん、ところで君可愛いねー彼氏いる?」 またしても予想外の質問に、瑞夏は思わず固まる。 そういう類の話は純南とする機会も無く、滅法苦手な分野だった。 顔の赤い彼女を見た先輩はその反応も可愛いねなんて言いながら、椅子から立ち上がり一歩踏み出す。 そして伸ばした指がセーラー服に包まれた肩に触れようとした時、その腕を掴む手があった。 「瑞夏、どうしたの?」 底冷えのする声音に、腕を掴まれた男子生徒はびくりと肩を揺らす。 「じゃあ、燥きたからごゆっくりー」 そしてぎこちなく辛うじて其れだけ言って去っていった先輩にお礼を言いそびれた事に気付いた瑞夏は、はたと我に返りありがとうございました、と背中に向かって口早に言った。 けれど、それを遮るように燥一が立つ。 彼は彼女へ軽くデコピンをお見舞いすると、やれやれ、と言わんばかりに肩を竦めた。 「まったく。瑞夏、いつか飴につられて誘拐されるよ」 「大丈夫、飴だけ奪って逃げるから」 「で、本を持ってきてくれたんだよね?」 「うんそう。はい。あたし届けるのもう嫌だからな」 「俺ももう頼むのやめようと思ったよ。ありがとう」 珍しく、苦く笑む。 その優しい表情に見蕩れた瑞夏は、ぼうっと立ち尽くした。 そんな彼女の様子に気付いた彼は、訝しげに眉を顰めてその顔を覗き込む。 「どうした?」 「ううん、何でもない」 何でも無いと言いながら、瑞夏は先ほどから意識が朦朧としている自覚があった。 遠のいた教室のざわめき。立っているのもやっとで、上手く、目の前の彼に焦点が合わない。 けれど、その時。 「砂山、ここの問題教えて欲しいんだけど、放課後時間ある?」 聞き覚えのある女子生徒の声がした。 僅かな嫌悪を感じる。 そう、昨日、燥一と階段で喋っていた。 何故嫌悪を感じるのか、などと考えるどころではない瑞夏の意識は、自然と表情を固くする。 「ああ、さっきの問題?いいよ」 「あ、ごめん邪魔しちゃったカナ。幼なじみさん・・・だよね?」 「うん、でも用事は済んだから。瑞夏、階段踏み外さないように戻るんだよ」 「バーカ」 べぇと舌をだすと、瑞夏は勢いよく回れ右をした。 そして左足を一歩前に踏み出した瞬間、バランスを崩す。 なんとか持ち直そうとしたけれど、体は上手く動かなかった。 転ぶかなと冷静に考えた彼女は、防ぎようの無い衝撃に備えてぎゅっと目を瞑る。 けれど。 「わっ」 「何やってんの、バカ娘」 倒れる寸前で、燥一がその体をすくい上げた。 バカって言ったら自分がバカなんだぞ、と言い返そうと瑞夏は口を開きかけたが、先に言ったのは自分だった事を思いだして取り止める。 「悪い、バランス崩した」 「其れは分かったから、ほら自分で立つ」 体を支えてくれていた燥一の腕から離れたけれど、すぐに元に戻ってしまった。瑞夏は首を傾げ、もう一度試みる。 やはり駄目だった。 もう一度試みる。 もう一度。 もう一度・・・ 「瑞夏、調子悪い?」 「いや、分かんないけど・・・」 眉を曲げて、瑞夏は更にもう一度立とうとした。 もう無理だと諦めた燥一は、額に手を宛ててやる。 熱い。 「風邪ひいた?」 「そうか?妙にぼんやりするけど」 「それならそうと最初に言う!このバカ娘」 大きくため息。そして彼は唐突に彼女を肩に担いだ。 そのままの体勢で、先ほどまで話をしていた女子生徒の方を向く。 「ごめん、こいつ保健室に連れて行くから」 「わ、何すんだ燥一!離せ恥ずかしい!!」 じたばたと暴れる瑞夏を余所にいつも通りの挑発的な笑みを浮かべると、燥一は歩き出した。 取り残された女子生徒は、勢いよく踵を返して教室に入る。 「瑞夏チャイム鳴ったの気付いてないだろ?騒いだ方が恥ずかしいけど。あ、先生こいつ保健室に連れて行くので授業少し遅れます」 すれ違った次の授業の担当教師に飄々と言い、燥一は生徒の居ない静かな廊下をとても楽しそうに歩き続けた。 担がれたままの瑞夏は、もがもがと地面を目指して動き続ける。 けれど結局びくともしない腕にとうとう諦めたのか、階段を下りる頃には静かになったのだった。 目が覚めると、保健室だった。 とろとろと空気が重く流れるのは熱のせいだろう。無意識の内に額へ掌を当てた彼女は、予想以上に火照った皮膚にぎょっとしてすぐに手を浮かした。 遠くから何処かの部活のかけ声が聞こえてくるということは、午後の授業が終わったに違いない。 帰らなければと身を起こし、上履きに足を突っ込んでクリーム色のカーテンを開くと、そこには誰も居なかった。 大きく開いた窓のカーテンが揺れる。 白一色だと思っていた保健室だけれど、綿の入った透明な透明な瓶、銀色の蓋、茶色いダンボール、薬箱、様々な色が混ざってきらきらと日差しを反射していた。 テーブルに近付き、そこにあったペンとメモ帳で養護教諭へ帰る旨を書き残す。 カラフルな柄のペンを元の位置に戻した瑞夏は、上手くバランスのとれない足を動かして保健室を後にした。 廊下はしんと静まり返っていた。 足の裏から伝わるコンクリートの冷たさは温度の高い体に心地よく、瑞夏は口元を緩める。 等間隔で続く扉を横目に、彼女は黙々と足を進めた。 鞄をとりに教室へ行かなければ、あぁでも置きっぱなしにしても良いかな面倒だ、学校から家までどれくらい掛かったっけ、歩ききれるかな・・・ 取り留めの無い思考がさらさらと回り続ける。 そうしている間に段差のある場所へ差し掛かった瑞夏は、見事にバランスを崩した。 「わっ」 捕まる場所は無い。 せめてなるべく痛くならないように転ぼうと頭を庇った彼女は、ぱたり、とその場へ倒れた。 「うぅ、涼しい・・・」 頬に触れるコンクリートへ擦り寄ると、体から力を抜く。 保健室のある廊下はあまり人通りが無いから迷惑にもならないだろうと、楽になるまで休む為に瑞夏は瞼を伏せた。 遠くの喧騒、その中に彼も居るのだろうか。 そう思うとほっとして、けれど少しだけ寂しかった。 理由は簡単で、昔からずっと傍に居るから。隣を歩いているから。手を引いて貰っているから。 けれど其れが当たり前でない事に、今更気付いてしまった。彼には彼の世界があり、彼に恋をする可愛い女の子がいるのだ。 彼がその手を選んだのならば、自分はもう隣に居られない。 ふふ、と瑞夏は笑った。 こんなに簡単な事をどうして気付かなかったのだろうと、可笑しくなって。 窓の向こうに見える空は、夕暮れの色を孕んで深まり始めていた。 ぺたり、ぺたり。 上履きの裏のゴムが廊下を踏みしめる音が聞こえてきた。そして、聞き慣れた大きな溜め息も。 「何やってるの」 「・・・そーいち?」 「学校では砂山先輩って呼ばないと先生に怒られちゃうよ」 「燥一!」 いつもの少し意地悪な返しも気にせず、瑞夏はがばりと体を起こした。 制服に埃がついている気がしないでもないが、頓着しない。 「どうしてこんな所にいるんだ?」 「じゃあ、瑞夏はどうしてこんな所で寝てるの」 「う、バランス崩して倒れたから楽になるまでと思って・・・」 「バカ娘。どうして迎えに行くまで待ってられなかったの?」 やれやれ、と呟き、燥一は手を差し出す。 「ほら、帰るよ。純南も待ってる」 気付けば自分よりもだいぶ大きくなってしまった掌を、瑞夏はまじまじと見詰めた。 いつ無くなるかもしれない其れは、けれど今はまだ、目の前にある。 今迄は当たり前に握り返していた其れへ指で触れると、瑞夏は熱に浮かされたままふわりと笑った。 「ありがと、燥一」 そして硬く手を握り、立ち上がる。 またしてもバランスを崩した体は、きちんと受け止めて貰った。 「歩けそう?」 「努力する」 「歩けない?」 「善処する」 「・・・・・・」 「・・・・・・」 もう一度、深い溜め息。 そうして瑞夏は燥一の背中を占拠する事に成功した。 とろとろと重い膜で覆った世界の向こうから、幼馴染達の話し声がする。 目の前の首筋に顔を埋めて薄っすらと瞼を開けた瑞夏は、青と橙と紫の混じる夕焼け空を見た。 いつだって一緒に居た。 けれど今、こうして三人が集まるのは放課後の夕暮れ時ばかりだ。 昔はいつも、空が高く水色に染まる昼間の内から三人で遊んでいたというのに。 刻々と形を変える世界、形、心。 いつ失う事になるのかと不安になり、幼い頃の記憶に心の何処かが痛むのは否定できない。 それでも、無条件に信じてしまうのだ。 差し出される掌は、ずっと傍にあるだろう、と。 ふふ、と気付かれないように笑んでからすんと鼻を小さく鳴らした瑞夏は、再び纏わりつくような眠りの海へと沈んでいった。 *** 三人で一緒にいた風景を思い出すのは、必ず夕焼け空の下だ。 永遠に続くと思っていた、あの時の空の下なんだ。 |