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何故、と問えば。 内緒、と返ってくる。 そして手放した指先のこと、 今でも忘れられない。 えいえんとであった 「オヒサシブリ」 ひどく掠れた声だった。 白い白い部屋。窓の向こうの青色と、花瓶に生けられた橙の花が、鮮やかに浮いている。 ヒグラシの鳴く季節。瑞々しいはずのこの瞬間、彼女は取り残されたように、からからだった。 「水、飲ませてくれない?」 細い指がグラスを指差したので、水の入っているそれを持ち上げると、一旦自分の口へ含み、そして彼女へ口付けて移してやる。 離れる時に、癖でその唇をなぞった。 それに彼女は短く笑い、相変わらずね、と言う。 「アナタにお願いがあるの」 お願い、という響きが、恐ろしかった。 今更彼女から、何を望まれるというのだろう。 何を望まれたとしても、叶える力を持たぬ自分が、恐ろしかった。 その感情を読んだのだろう。 彼女は、面白く無さそうに笑う。 「何年食事をしてないの」 もう数えることを止めていたから、分からなかった。 だから首を傾げて弱く笑ったら、彼女は更に面白く無さそうな表情になって、そんなことだろうと思ったわ、と呟く。 掠れた声さえも響く、白い部屋。 「アタシね、娘が居るのよ」 そうか、それ程の年月が過ぎたのか、と、感慨も無く思った。 時間の経過など、どうでもいい事柄の一つだ。 「その子、引き取って」 カナカナカナカナ。 外界の音の中で、唯一鮮明に届くのは、その鳴き声だけ。 それに気をとられて、彼女の言葉の意味を、きちんと飲み下すことが出来なかった。 呆然としていると、彼女は吐き出す息に乗せて、もう一度言う。 「その子の面倒を見てやって。一人で生きていけるまで」 漸く、理解できた。 こくり、と、息を呑む。 そんなことを、頼むというのか。 なんて皮肉で、残酷で、悲しいことだろう。 彼女はもう、此方を見ていない。 天井を、天井の向こうを見詰めて、説明をしたくないような口調で言った。 「対価は、その子の血」 また、囁かれた言葉の理解が出来なくなる。 何故、娘の血を差し出す、などと言うのだ。 血を啜れば、死ぬか、同類になるか、どちらかだというのに。 「大丈夫よ。あの子、大丈夫なように産んだから」 何がどう大丈夫だというのか。 けれど彼女は、話を進めていく。 白い部屋。シーツに落ちた影。乾いた皮膚。熟れた花。 世界が噛み合わない。言葉も噛み合わない。 ごほ、ごほ、と、命の幕引きを思わせる咳の音。 焦点の合わない視線を投げると、彼女はつまらなそうに、癌よ、とだけ言った。 「もう一つ、お願い」 まだ承諾もしていないというのに、話が進む。 そんな所は、昔のままだ。 「アタシを殺して」 何故、と、反射で問うた。 けれど返ってくるのは、内緒、の一言。 けれど流石に、こればかりは、返答を聞かない限り承諾をしようと思えなかった。 沈黙する。 カナカナカナ、カナカナカナ。 「苦しいの、嫌いなの」 蝉の声に乗せて届いた言葉は、確かに彼女らしかった。 「放っておいても、一ヶ月もつかもたないかの命よ。それなら、早く終わらせて」 カナカナカナ、カナカナカナ。 こくり、と、一つ。 深く頷く。 もう一度顔を近づけると、そっと耳朶に口付けた。 そのまま唇を首筋へ滑らせ、 その、頚動脈へ、牙を埋め込んだ。 「う、ぁ・・・」 乾いた唇から零れる、恍惚の声。 カナカナカナ、カナカナカナ。 どうしようもなく彼女の表情が見たかったけれど、堪えた。 目の前にあるのは、ただ弱々しい首筋だけ。 せめて、と思い、力の抜けた彼女の指を握り締めた。 カナカナカナ、カナカナカナ。 その命を全て飲み下し、静かに離れる。 青かった空は、いつの間にか橙に染まり、白い白い部屋も同化していた。 仰向けに眠る彼女は、微笑んでいた。 事切れる寸前の、その、美しさといったら。 「あり、が、と」 カナカナカナ、カナカナカナ。 「ごめん、ね」 カナカナカナ、カナカナカナ。 「バイバイ」 カナカナカナ、カナカナカナ。 そして彼女は、この世を去った。 一人残された娘を、吸血鬼に託して。 そっと、指を離した。 ぺた、ぺた、ぺた。ガラッ。 唐突に開け放たれた扉。 その足音は、眠る彼女とそれに添って座る彼の元へ、躊躇わずに近づいてくる。 「死んだの」 断定するような問い。 返答が必要とは思えなかったけれど、こくり、と一つ頷いた。 「そう」 ママのこんな顔、初めて見たわ、と、吐き捨てるような呟き。 力無く振り向くと、そこには、眠る彼女にそっくりな横顔があった。 「さよなら、ママ」 そう言った彼女は、眠る彼女の頬へそっと口付ける。 その相似の一対は、美しくも、禍々しくもあった。 カナカナカナ、カナカナカナ。 夕闇迫る、白い部屋。 世界から切り離されたようなこの場所で、影絵のように寄り添う。 どれくらい時間が流れたのだろう。 一瞬のような、永遠のような、そんな時間が、ソプラノの声で断ち切られた。 「わたしはマリア」 それを名前だと認識するのに、また時間がかかった。 そして認識した瞬間、眠る彼女の皮肉に苦笑する。 「貴方は?」 産んだ娘につけたのは、聖母と同じ名。 こんなにも幼い少女に何を背負わせようというのだろうか。 投げられた問いには、首を傾げた。 名前など、持っていなかった。 すると彼女は少し悩んでから、名前をくれた。 「茨」 橙が紺碧に溶けて、紫になる。 それを背景に、生きている彼女は微笑んだ。 艶やかに、美しく。 「それが今日から、貴方の名前」 |