暗闇にも慣れたこの目は、
あの日のあの子の表情を唯一、捕らえた。



恋心、友心





「お前さぁ、部活終わったの?」
「うん。いつものメニューだけこなして後は自主練にした。ほら一年生に凄くやる気のある子が居るって言ったでしょ?付き合いきれないよあたし」
「はは、お前が先輩だったら良かった」
「ロウが相手なら死ぬ気でしごいてあげるよ」

にこりと何か企んでいそうな笑みでもって、メイは軽く首を傾げた。
その仕草が妙に女の子ぽくて、ロウは苦笑する。

「おっ前さそういうのもっと男の前でやれよなー」
「そういうのって何?」
「今のやつー。女子高生だろ、健全な男子高校生の一人や二人めろめろにしてみんさいって」
「何処の親父だっつの」
「だってさーお前外見は案外評判良いんだぞ」

少女は驚いたように目を見開いてから、照れ臭そうに笑った。おだてても何も出ないかんね、などと言う唇は夕日に照らされて妙に艶かしい。

「もうちょっと笑って、もうちょっと喋ってみろよ。おれとこうやって喋ってんだから簡単だろ?」
「だ、だって…」
「んー?」
「何喋れば良いかわかんない…んだもん」

俯き消え入りそうな言葉に、大爆笑してばんばん背中を叩くべきか大真面目にアドバイスすべきか迷った。
見下ろせばけぶるような睫毛が触れたくなるほど柔らかくて、あぁ俺も健全な男子高校生だなぁなどと茶化して邪念を振り払う。

部活上がりの少女の化粧は殆ど削げ落ちていた。それで尚触れたいと思わせるのは少女自身の力だろうに、それに気付きもせず無防備に照れた笑みを浮かべている。

随分と様子が変わったものだと思った。
出会いは中学三年生。塾の同じクラスの人として知り合ってから高校に入ってからよく喋るようになった。
あの頃は随分取っ付き難く仏頂面の女の子だと思っていたけれど、今こうして隣で笑うのは何処にでもいる普通の女子高生だ。

「で、も、色んな人と、仲良くなりたいとは思ってるよ」

そんな風に不器用ながらも変わろうとする姿を見ていると、妹を見ているような気分になる。
もしもメイに彼氏ができてあんなことこんなこといっぱいされたらと思うと、相手の男を殴りに行ってしまいそうだ。いかんおれは何処の頑固親父だ、と、自主つっこみ。

「って、ちょっとロウ聞いてる?」
「聞いてる聞いてる、ちょう応援してる」
「かるっ!傷付いたから今川焼きおごって」
「メイ本当に好きだなーかぼちゃ味?」
「今日はもちチーズ」

はいよと返事をしながら鞄を漁り、すっかりぬるくなってしまった麦茶のペットボトルを出した。二リットルの大きいボトルの中身は部活中の水分補給で飲んでしまったから、もう残り少ない。
きつく閉めたキャップを開けて思い切り煽ると、少女がはしゃいで言った。

「喉乾いたーあたしも頂戴!」
「あいよ」
「ありがと」

手渡した瞬間、指先が触れる。その体温に少女が小さく震えたのに気付いたけれど、知らん振りをして渡してやった。竹刀を握る掌でするりと受け取り、メイもペットボトルを煽る。
こくりこくりと小気味良く喉が動いた。小動物みたいだなと笑いを堪えて眺めていると、ぷはっと親父くさい音をってて唇からペットボトルを離し、少女はにやにやと見上げてくる。

「ごちそうさま、間接ちゅーしちゃった」

言っている事を理解するのに、一瞬の間が必要だった。
理解して、あぁまったく本当に可愛い奴だなぁとしみじみ思う。先日自分を好いていると伝えてくれた少女にとって、こんな些細なことも大事件なのだろう。けれどそんな風に言ったらきっと傷付いてしまうだろうから、ははっと笑って黒髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜてやった。

「ばーか、それくらいじゃ健全な男子高校生でも誘惑されてくれねーぞ」
「えー?」

くすくす嬉しそうに撫でられるままになっている少女へ、いっちょまえに上目遣いなぞ使いやがってけしからんと言ってやれば、ロウってほんと口うるさい親父ねーと返ってくる。
そうしてじゃれ合うこの関係は、自分にとっては友人の延長に過ぎなかった。


満足するまで髪を掻き混ぜた後、再びごそごそと鞄の中を漁る。どうしたのと視線で問われ、んーあのさーと思わず空返事をしてしまった。
くしゃくしゃのプリントに定規、ペットボトルの蓋に借りた漫画。ガラクタばかりの鞄の中に、お目当てのものは無い。

「ローウー?」
「だーっ見つからん!」
「何が」
「世界史のノート」

そう答えれば、あぁ、と少女は得心したらしく頷く。

「何が分かんないの?今川焼きもう一個で教えたげるよ?」
「太るぞ」
「教えない」
「え、ちょっと待ってごめんてばメイーメイさんーメイ様ー何が分からないのかも分からない俺にちょう教えて」

両手を顔の前で合わせて拝むようにお願いお願いと言えば、腕を組み半眼でロウを見詰めていたメイは、やれやれと肩をすくめて見せた。

「いいよ、その代わりちょっと数Bで教えて欲しいとこあるから」
「じゃあマックにでも行くかー」
「うん。で、ノートは?」
「多分教室だから、ちょっと取ってくるわ。下駄箱で待っててくんね?」
「ほいほーい」

さんきゅ、と言い残して鞄を背負い、校舎の中へ滑り込む。
ふと振り向けば、屋上に取り残された少女はたこだらけの手を小さく振ってくれていた。眩しくて、どのような顔をしていたのかは分からなかった。





ぱこ、ぱこ、ぱこ。踵を踏んでいる上履きが小気味よく鳴る。
夕闇に沈む静かな校舎は想像以上に暗かった。まくっていたワイシャツの袖が落ちてきて、それを直しながら走ればすぐに教室に着く。

「あぁもぉぉぉぉ、教室最後に出ると呪われるって聞いたんだよなー昔」

嫌そうに呟き、ロウは勢いよく扉を開けた。
途端、ガタリ、椅子の動く音がする。

「ぅおお化けじゃないよな?!」

思わず声を上げれば、ほっとした気配が伝わってきた。

「ロウ君」
「アンさん?」
「うん」

ふわり、今度は微笑む気配。
斜陽に照らされ影を浮かび上がらせながら佇む女は、何処か排他的な空気を纏っていた。
ごくり、唾を呑む。それを悟られるのが無性に嫌だったから、茶化すような口調で聞いた。

「何でここに居んの?」
「んー、ノーコメント。でも良いかな?」
「別にいいケドさ、部活は?」
「…休み」
「メイは下駄箱に居るよ」

それきりアンが黙ってしまったので、仕方なくロウは自分の席を探りながら話題を変える。

「電気もつけないで、目ぇ悪くするぞ」
「でも、暗い方が落ち着くから。ロウ君はどうしたの?」
「世界史のノート忘れたからさ、取りに来た」
「そっか。偉いねぇ勉強してるんだ」

姉が弟を褒めるように言うから、ロウは思わず顔を顰めた。自分が欲しいのはそういうものではない。言いたいけれど我慢をして、自分の席へ歩み寄る。
目を凝らし、机の中を覗き込んだ。ロッカーに持っていくのさえ面倒で大量の教科書を突っ込んだままである。その間をいちいち確認しファイルに挟んだルーズリーフを取り出すのは、ひどく手間が要った。

無言の時が過ぎる。
先に耐え切れなくなったのは女の方で、探し物は見つかった?と問う声が掛かり、それとほぼ同時にロウは目的のものを発掘した。

「うん、あった。それじゃあおれ行くわ」

立ち上がり、椅子はそのまま抜き取ったファイルを片手に扉へ向かう。
その間、ずっとアンの視線を感じていた。

「ロウ君」

不意に呼びかけられて、立ち止まる。
扉に手を掛けた所で、振り返る。

「気を付けて、帰ってね」

夕闇の中で濡れたように光る、アンの両目。
私がここに居たこと、言っちゃ駄目だよ、と。
言葉に込められた密やかな脅迫が、ロウの指先を痺れさせた。

「…おう。アンさんも気を付けて」
「ありがとう」

ふわり、女は唐突にいつもの空気を纏う。
それを最後に教室を出て、扉を閉めると静かに歩き出した。
跳ね上がった鼓動は、身体中の血を震わせる。

無意識のうちに下駄箱まで来ていたロウは、待っていたメイに顔を覗き込まれ首を傾げられた。
どうした、と力無く言いながらローファーに履き替えれば、少女は言う。

「だってロウ、変な顔してる」
「うん?」
「怖いもの見たさでお化け屋敷に片足突っ込んだ男の子みたいな顔」
「なんだそりゃ。ぅし、行くか」

んー、と不満げに唇を尖らせるメイの頭をぽんと叩き、校舎を出た。


少女に教えるつもりは無い。誰に言うつもりもない。
そっと心に鍵を掛ける。あの子のあんな姿を知っているのは、きっと自分だけ。
あれがあの子の本性なんだと本能が囁く。畏れが心臓を鷲掴みにする。独占欲が沸き起こる。

他の奴らが、そんなの恋とは呼ばないと言ったとしても。
おれはあの子に恋焦がれている。


*


まだ太陽が西へと歩んでいる時刻。
部活に入っている生徒は活動中で、無所属の生徒は既に帰路についている、そんな微妙な時間帯。
一ヶ月に一度の割合で部活をさぼるロウは、独り教室に残って予備校の宿題をこなしていた。
自販機の近くにあるこの教室は、いつもそこで練習をする吹奏楽部のクラリネットの音がよく聞こえてくる。

子守歌のような心地よさだ。
それに身を任せ、シャーペンを静かに置くとそのまま机に突っ伏した。





あれは、いつのことだっただろうか。
まだ一年生だった頃。
そう、今時こんな物を使うなんて信じられないと不評の割に、薬缶でお湯を沸かしてカップラーメンを作ることが出来るから、と、なんやかんやで生徒から重宝されている達磨ストーブがもう教室に在った季節だ。


寒風の吹きすさぶ廊下に出る元気な者は殆どおらず、生徒がひしめき合う休み時間の教室。
あまりの眠さにストーブに近い席へ移動して机に突っ伏していたロウは、ふと聞こえてきた話し声に薄っすらと目を開けて辺りを窺った。

近い場所でインディーズバンドの話をしているのは、女子数人のグループだった。
女子っていつも同じメンバーで居るけど楽しいのか?疑問に思いながらも、自分が気になっていたバンドについて熱く語っているのが誰なのか知りたかった。
もしもアルバムを持っているなら、借りたいと思ったのだ。


端から見れば、何の問題もない穏やかな談笑の風景。
その輪から少し外れた場所に、ぽつり、置いてきぼりにされたように立っている女子生徒がいた。穏やかな笑みを浮かべ、話に合わせて微かに頷いている。
誰もまだ、その存在に気付かなかった。話に夢中になっていて、そこまで目がいかないのだろう。

しばらくして、一人の少女が気付いた。ごめんね話に夢中になってて、話に入ってこれなかったよね。
そんな風に話し掛けたのは、メイだ。
嫌味も同情も全く感じさせない、気心の知れた友人に見せる笑顔でもって、対する女子生徒の服の裾をきゅっと掴む。

それに呼応するように、穏やかな笑みを深める女子生徒。
そうして二人は輪の中に戻っていった。

誰かが少し体の位置をずらし、生まれた隙間に滑り込むその、ほんの一瞬。
他の誰にもきっと気付かれなかった表情を、ロウは見ていた。

きゅ、と音がしそうな程に鋭い目つきで、メイを睨み付ける。
黒い瞳に宿るのは、怨嗟か羨望か。どうしてそこまで、と。鈍感に分類されるロウですら明確に分かるその感情は、けれどすぐに仕舞われた。


穏やかな笑み、柔らかな物腰、誰にも好かれるいつもの女。


狐に化かされたような、奇妙な気分を味わった。
もしも被っているもの全て剥がしたのなら、あの昏い瞳でもってどのような表情を模るのだろう。

「名前なんだっけな。苗字は覚えてるんだけど…」

ぼそりと呟き、首を傾げる。
メイが呼んでいた。二文字で、芸能人にもいる名前。

「…アン。アン、さんだ」

思い出した名前を、記憶に刻むように言葉にした。

それが始まり。
その日から、いつだって本当のあの子を探している。





「こんなトコで寝たら風邪ひいちゃうよ」

柔らかなソプラノの声に起こされた。
重くのしかかってくる瞼をこじ開け、手の甲で擦る。辺りの暗さに、一瞬、自分の居る場所が分からなくなった。

「…アンさん?!」
「あ、ひどいなぁ。そんなに驚かなくてもいいのに」
「いやだって、え、今何時?!」
「六時半頃だったかな?」

女はにこりと笑んだ。
ロウの肩には白くほっそりとした手が置かれている。起きる気配が無いから体を揺すっていたらしい、目的を達して離れていくそれをほんの少しだけ惜しく思った。
きっと、重い荷物は誰かが持ってくれるのだろう。それだけの人望がある。美しい手だった。

そのまま隣の席の椅子を引き、アンは静かに腰掛ける。

「目、覚めたかな?」
「あー…大体。アンさんは、彼氏待ち?」
「うん、そう」
「メイは今日も武道場に向かってたよ」
「申し訳ないと思ってるんだけど、なかなか、ね」

苦笑して首を傾げた女に、ロウは思わず切り返した。

「嘘だ」
「うん、嘘だよ。面倒だもの」

あっさりと返され、ロウは逆に戸惑う。
どうして。今までずっと、ほぼ完璧に取り繕っていた外面を、どうして簡単に外すのか。
その気配に気付いたのだろう、女は口を開く。

「どうして、って顔してる?」
「…してる。見えるのか?」
「ううん、こんなに暗いもの」

女の言う通り、蛍光灯が沈黙し夕闇落ちた教室はとても見通しが悪かった。

「だったら、取り繕う必要なんて無いでしょう?」
「それも嘘だ」

反射で返せば、首を傾げたようだ。
どうして貴方にそんなこと分かるの。くすくす、くすくす、静かに笑い声が響く。

「…分かるよ。ずっと見てたんだから」

自身を偽って生活し続ける彼女は、自分をどう見せるべきかをよく知っていた。
それは他人の目があるからこそ成り立つ方法であって、つまり彼女は「自分がどう見えているのか」、周囲の視線をひどく気にしていることに他ならない。
自己顕示欲があって当然だ。そして、取り繕わない自分を見せたいという願望も、おそらく持ち続けていたのだろう。

「誰かにいつもの自分じゃない自分を知って欲しかった。違うのか?」
「ロウ君は、何でもお見通しだよって顔でそういうことを言うから嫌いよ」
「じゃあ、メイはなんで嫌いなの」
「なんだ、それも知ってたんだ」

姉が弟を叱るような口調で、今度はふわりと底冷えした笑み。
鼓動が波打ち、血が騒いだ。
けれどロウは、拳を握り気圧されないよう彼女を見詰め続ける。

女は静かに唇を開いた。

「偽善者だから、嫌いかな」
「それはアンさんだって、誰だって同じことじゃないか」

強い声音で言い返した。
女は怯まない。それどころか、どこか冷めた風に肩をすくめて見せる。

「いいの、自分は。でも、偽善を押しつけられて良いことをしたって顔されるのはイヤ」

ねぇ、と甘やかな声を転がしながら、すっと伸びたアンの柔らかい手がロウの頬を捕らえた。
こくりと唾を呑み下す以外に身動きが出来ず、されるがままになる。
アンはそのまま静かに立ち上がると、ロウの目の前に立った。掌が滑る。耳朶を掠る。

「メイはロウ君が好きなんだってね。ずっと前から言ってたよ」
「…知ってる」
「ロウ君は、私のことが好き?」

答えに詰まった。
なんで、と。自分でさえ思う。

メイは良い奴だ。典型的な、いつだって損を引き当ててしまう、それでも背筋を伸ばし前を睨み付け歩いていくような。
自らを偽り続ける女よりも、屈託無く笑う少女を好きになる方が余程自然な筈なのに。

「ああ、好きだよ」

どうして、そう思ってしまうのだろう。

にこり、アンが微笑んだ。
それはそれは、夕闇に浮かび上がるほど妖艶に。


女の顔が近付いてくる。
鼻の頭に、吐息がかかる。
柔らかな唇が、すぐそこにある。
あと数センチ。猫背に丸まる背中を伸び上がらせれば、きっと届いた。

けれどロウは、自身の骨張った手でアンの口元を覆う。

「アンさんはさ、大嫌いなメイに復讐がしたいだけなんだな」

口を塞がれたまま、アンは驚いたように動きを止めた。
ロウの頬にあてられた手は、音もなく離れる。

「おれはアンさんが好きだ。なんでだか分からんけど。できるならあいつから奪いたい、くらいには思ってる」

アンの口元から手を離した。
柔らかな、温かな感触が愛おしかった。被り物を削いだ彼女が纏うには、あまりにも高い体温で。

「おれは、メイの友達だから。あんたの復讐に協力はできない」

女の目が大きく開かれる。


フラッシュバック。
あの冬の温かい教室で見た、昏い光。

今日もまた、ほんの一瞬だけ、アンの見せた表情。
夜目の効くロウにだけ見えた、刹那の感情。

そこに在ったのは、羨望でも怨嗟でも無かった。
そう、それは。

「ほんと、メイもロウ君も馬鹿だよね」

泣き出す寸前の幼子のようで。

叩きつけるように言うと、アンは走って教室を出ていった。
足音が完全に聞こえなくなって初めて、ロウは全身から緊張を解き放つ。


あの歯痒いような、苦しいような表情は、何だったのだろう。


脳裏に鮮明に残る、アンの取り繕いを削いだ素顔。
きっとまだ、自分しか知らない。この優越感といったら。

「ははっ」

渦巻く感情を吐き出す為に、無理矢理笑う。
そうして女の唇に触れた掌へ口付けると、メイのこと笑えねーとげっそり呟き、椅子の上に崩れ落ちたのだった。





暗闇にも慣れたこの目は、
この日のあの子の表情を、唯一人、捕らえた。

誰にもくれてやるつもりはない。いつかこの恋が終わるまで、密やかに抱き締め続ける。



2002.9.12 (2011.6.14改稿)



モドル * ススム






*戻る