できることなら、 愛しいあいつの背中に 抱きついて、やりたいのにね。 不器用 「メイは本当に可愛いねぇ」 目の前に立つ愛らしく誰からも好かれる女は、おっとりとした声音で言う。柔らかな掌が伸ばされ頬をふわり包むから、メイは訝しむ顔をして見せながら鼻で笑って返事をした。 「頭おかしくなったの?アン」 それを照れ隠しと取ったのか、女はまったくもうと姉が妹に向けるように微笑み首を横に振る。 自分より余程可愛く、自分よりも人当たりが良く、当然友人も多く、いつだって朗らかに笑むアンに「可愛い」などと言われた所で、紛うこと無き厭味だ。 けれど女は本当のことを言っただけなのに、と不満げに唇を尖らせた。 その様さえ愛らしくやはり厭味でしか無いので、アンは何時だって思うのだ。 あぁ、その化けの皮を剥がしてやりたい、と。 教室の後の扉から声が掛かる。アン、帰ろう。 そこに立つのは今年の春、一年生の終わりである終了式の日の放課後から恋人を名乗ることを許された、アンの彼氏であった。 これ幸いとメイは目の前の女に言ってやる。 「ほら、呼んでるから早く行きな」 「え〜?もうちょっとメイと遊びたいのに…」 「馬鹿言ってないで、ほら。末永くお幸せにーほれ行けほれほれ」 おどけた調子で背中を押してやれば、女はむぅと一度唸った後で恋人の元へ駆け寄った。 ばいばい、と小さく手を振れば、また明日ね、と言って去っていく。 そうして教室に取り残されたメイは、浮かべていた笑みを削げ落とし深く深く溜息を吐いた。席に置いていた鞄を背負うと、ぐっと重く圧し掛かってくる。 隣の教室からの笑い声が響き、遠くからは校庭で活動する運動部の声も届いた。クラリネットの音は、いつもの自販機前で練習している吹奏楽部だろうか。 いっそこの音の波に呑まれてしまえばどれだけ楽だろうと思うのに。 「今日は風邪気味だから休み、ね」 倦怠感を堪え、教室を出た。 できることなら、自分もさぼってしまいたい。 * 「今日の練習はおしまーい!お疲れ様でした!」 出来る限り明るい声で、部活動の終了を告げる。 とても小さな剣道部であるが、お疲れ様でしたと返ってくる声ははきはきと大きなものであった。 それに満足げに頷き、解散する。面と竹刀を抱え手ぬぐいで首の汗を拭きながら部室へ向かって歩き出すと、後輩の一人がひょこひょこと後について声を掛けてきた。 「部長」 「んー、お疲れ様。どうしたの?」 「アン先輩は今日もお休みなんですかぁ…?」 「うん、風邪気味だって」 明るく答えて見せるが、後輩の表情は晴れない。 「…アン先輩、どうして退部しないんですか?」 入部して約半年の間、殆ど姿を見ない先輩部員。後輩でさえ不信感を抱いているようであったが、それをメイに対して言ってくるのは初めてであった。 対するメイは口を開くものの、すぐに閉じて苦笑して見せる。 もう諦めているんだ。それなのに、きちんと辞めるよう話をすることもできないんだ。中途半端なあたしのせいなの。そんな言葉を飲み込み、ごめんね、と。それだけを伝えた。 「アンはあたしの付き合いで入った感じで、だからあまり強く言えなくて。みんな頑張ってるのに一人だけずるいって、思うよね」 無言の肯定があり、もう一度ごめんねと呟く。 保身だ。 あの女が今後積極的に部活へ出席するなど考えられない。諦めている。はっきりと辞めるよう言ってしまいたい。 けれど、それをした時に見放されるのが怖い。 嫌いだ。大嫌いだ。見放されても構わないと思う。 けれど、高校でできた友人の殆どはアンと共通の友人だ。それ以上にあの女はみんなに愛されている。人気がある。だから、見放されると自分の居場所が無くなってしまう。 そんなの怖い。漸く固めた足元が、またはらはら崩れてしまうなど考えたくもない。 だから我慢するしかないのだ。 「あたしがもっと頑張るからさ」 笑顔でそう告げれば、後輩はそれ以上何も言わずに、はい、と返事をした。 そのまま一緒に部室へ入り、汗を拭き着替えを済ませる。 お疲れ様でした、そう告げて帰路に着く部員全員を見送ってから部室と武道場の鍵をかけ、ほんの少しだけ迷ったメイは再び校舎へと向かった。 火照った体と高ぶった感情を持て余す時は、いつだって空に近い場所に居たくなるのだ。 * 屋上に出ると、丁度夕暮れ時だった。 天辺の深い青を見上げて大きく息を吐き、ゆっくりと地平線へと視線を落としてゆく。視界に広がるのは校庭の向こうに在る家々で、その輪郭を橙がぼかしていた。たなびく淡い雲さえ溶かし、落日は刻々と明日へと向けて姿を消そうとしている。 「きれい」 それ以上を言葉にできず、金網をそっと両手で掴めば、かしゃり、冷たい音が心に落ちた。 叫びたいような、壊したいような、強い衝動が体中を支配する。 誰かに会いたい。無性にそう思う。会いたい。抱きしめたい。泣きたい。慰めて欲しい。暴力的なその衝動は、けれど実行するには意気地が足りなかった。 より一層持て余すことになってしまった感情に、はぁ、ともう一度息を吐く。指先を離し地平線へ背を向けると、熱いような冷たいような、曖昧な全身をそっと金網へ預けて目を瞑りながらずるずると座り込んだ。 会いたい。会いたくない。会いたい。会いたい。 そう思う時、一番最初に瞼の裏に描く人がいる。 抱えた恋心。そしてその男は。 「おいそこの馬鹿、頼むから自殺とかすんなよ」 ほら、いつだってこうして都合よく登場するんだ。 「…んな事しないよ、阿呆」 うっすら瞼を押し上げれば、飄々とした笑みを浮かべた愛しい男がポケットに両手を突っ込んで立っていた。 あぁ、部活終わりでメイクが崩れている上に汗臭いというのに、どうしてまた見付かってしまったのだろう。ぼんやり考えていれば、心地よい声が耳をくすぐる。 「じゃあそんな顔すんなって」 「そんな顔?」 どんな顔よ問いかければ、んーと悩んだ後で一言。 「ナマケモノが百メートル走した後、酸素マスク欲しさによろよろしてる時の苦しそうな顔」 「想像できないっつの」 「そうかー?こう、くしゃぐしゃにょろ、て感じのさ」 「余計わかるか」 隙無くつっこめば、ちぇ、と舌打ちするのは細く背の高い男だ。日に焼けた浅黒い肌よりも更に深い漆黒の瞳の中にはメイの姿が映っている。 「ロウ」 「よう、馬鹿メイ」 「報われない恋をしてる奴に馬鹿呼ばわりされるほど落ちぶれてないよ、あたし」 「おっ前さ二人きりになるとよく喋るよな。それもっと教室でやれよ」 「できたらやってるっつの。シャイなの。シャイガールなの」 「ドコがだよ!ほんとお前、変わってるよなー」 「ほっといて」 「はいはい」 憎まれ口ならぽんぽん出るというのに、素直な言葉は一切言えない自分に失笑し再び目を瞑った。 ロウが隣まで来る気配がする。かしゃり、再び冷たい音。 落日の傍で風に流される雲は、焦り急ぐ自分を見ているようで胸が痛む。だから早く落ちてしまえば良い、深い青が全てを飲み込む夜が早く早く来れば良いのに。 いつもはそう思うけれど、今日だけはもっと長く日が続けば良いと願った。 愛しい男の隣に居る。それだけで世界は綺麗に見える。 互いに逆の方向を向いて寄り添うその時間は、ひどく心地よいものだった。 * 気付いたのは、葉桜が道を彩り始めた頃のこと。 想いを告げられぬまま、進級しに併せてクラスが変わり、ロウと距離を置かざるを得なくなった。 皮肉なことに、メイはアンの恋人と同じ三組。 ロウはアンと同じ二組。 放課後、部活の前一応出欠確認をする為に、アンの元へ通う日々が続いた。 すぐに同じクラスの女子と打ち解けたらしい女は、けれどメイの姿に気付けば寄って来る。 時間を潰す為に、という名目でロウと話をする自分の元へ。 途端ロウの雰囲気が変わる事に気付くのに、時間は掛からなかった。 だって、自分は何時だって、ロウを見ていたから。 柔らかな物腰で話すアン。 それに対して少しおどけながら、いつもの調子で話を合わせるロウ。 その目が、声が、全てを愛おしむような、そんな。 そんな目で、アンを見ないで。 叫ぶのを堪えるのに必死だった。 そして恋人が迎えに来て、去ってゆくアン。 後に残され見送るロウの、寂しさを押し込めたいつもの表情。 自分の心に渦巻くやるせなさ。 不公平だ。 どうしてあたしは誰も見てくれないのに。 アンはあんなに愛されるんだ。 醜い嫉妬はただ、余計に自分を傷つけた。 * 心地良さは、やがて自分を蝕む痛みになった。 ぎりと奥歯を噛んで、それでも我慢できない。だからぽつりと言った。 「…大丈夫だよ」 「ん?」 「アンは体裁悪くなるから告白オッケーしただけだし」 唐突に話し始めたメイを見下ろすロウは訝しげな顔で、それに向かって思い切り自嘲の笑みを浮かべて見せる。 「何言ってんだ?お前」 「だって体育祭の打ち上げで告られてから、半年以上待たせたんだもん。それで振ったら、一体何だったんだって話になるでしょ。告られたのは有名になってたし?」 「メイ?」 口元を歪ませて言う。 そう、これが本当の自分だ。 相手を貶めることでしか自分を良く見せることができない、そんな卑怯な人間なのだ。 「知ってる?デートに行く約束したって、いつも当日にドタキャンするのよ。親と出掛けるだとか、風邪ひいたとかさ。可哀想にね、アンの彼氏は本当に悲しそうな顔するんだ。一度もデートしたこと無いんだってね。 それにね、知ってる?アンがいつも目で追いかけてる人間は誰か。アンが本当に好きなのは誰かそれは、」 「メイ」 低い声が、言葉を遮る。 「なによ」 「やめろ」 絶大な強制力を持つ、静かな言葉だった。 怒った声だ。 なんで、なんで怒るの。どういてあたしばっかり怒られなくちゃいけないの。 狡いよ。 言ってやりたかったけれど、別の言葉が口をつく。 「なによなによ、ロウになんか分からないでしょあたしの気持ちなんて!」 こんなの、ただの癇癪だ。 いやだ嫌われたくない。嫌いにならないで。そう縋りつきそうになったけれど、これ以上みっともない姿を見せたくなくて黙った。 するとロウはまったく、と小さく言ってから、先ほどの低い声で言う。 「それ以上、自分のこと虐めんのヤメロ」 え、と。思わず零れた。 意外な言葉だった。 なんだ、バレてるじゃないか。 せっかく隠そうと必死だったのに、バレてるじゃないか。 急に目が潤んで、喉がからからに渇いた。 それでももう一度、吐き捨てるように言う。 「アンはね、夏休み中は田舎に帰るからって言って部活休んだんだ。なのに居たんだよ、見たんだよ、あのカフェでお茶飲んでたんだよ。 不公平じゃないか。どうして嘘つきの方がみんなに好かれるの。どうして、あたしはいつも真面目にっ」 潤んだ目から、とうとう涙が溢れる。 嫌いだ。こんな自分大嫌いだ。 体育座りをした膝小僧に顔を埋めた。 本当は隣の足に体重を全て預けてしまいたかったけれど、堪えて嗚咽を呑み込む。ひっく。喉の奥で変な音がして、こんな時も可愛く出来ないのかと心底嫌になってしまった。 男の骨張った指先が、ぐしゃぐしゃとまだ汗の残る黒髪を掻き乱す。 しゃがんだ気配は無いから、きっと長い腕を伸ばしているのだろう。 やめてよ、汗臭いんだから。そう言っても、やーだ、とおどけた返事があって指は止まらない。 「知ってるよ。おれは知ってるからさ」 ぽん、ぽん。最後に柔らかく二回叩かれた。 そんな優しさ要らない。欲しい気持ちは別なのに。 「そんなの、慰めにも、なら、ないよぉっ」 呑み込みきれなかった涙は言葉を押し潰し、止め処なく制服を濡らし始めた。 ひっく、ひっく、鳴り止まない喉を抑えられない。気付いているだろうに、隣に佇む男は黙ったままだ。 金網の向こうの落日は、姿を消すまで背中をじんわりと焼く。 橙の空が次第に青さを増し、藍色を纏い始めた頃、漸く西へと沈んでいった。 涙が収まった所で、ふと隣を見上げた。そこには夕闇に染まるロウがいる。 アンに置いてきぼりにされた時のいつものあの笑顔でもって、こちらを見下ろしていた。 「あほぅ、なんて顔してるんだよ」 なんだそりゃと男は噴出し、もう一度ぐしゃぐしゃとメイの頭を撫ぜる。 「それはおれの台詞だって。顔洗えよ、電車にも乗れねぇぞ」 「分かってるよ」 「でさ、お前は自分虐めるのヤメロな。気付いてるとは思うけど、アンさんのことそんな風に言ったって、結局自分が傷ついてんだろ」 「ロウに言われなくともね」 ならいい、と吐息に乗せて言った男は、徐に金網を上り始めた。 ガシャガシャと屋上全体の金網がつられて鳴り、合唱のように響く。 その様子をぼんやり眺めながら、メイは濡れてかぴかぴになった頬を冷えた両手で抑えた。 だいぶ高い所まで上り、男は止まる。 ただでさえ長身なのに、これでは首を痛くして見上げないと顔が見えない。立ち上がって制服のスカートについたゴミを払い、メイはロウを仰ぎ見た。 「おれは知ってるよ、ずっとアンさんを見てるから」 「ふぅん?」 「みんなが思ってるような良い子じゃない。メイみたいな良い奴を泣かせる原因作っちゃうような子だって、ちゃんと知ってる」 「じゃあ、なんで好」 「それはヒミツ」 言葉を途中で遮られ、脹れ面をして見せる。 それにカラカラ笑って答える男は、メイから視線を外した。 「それでもさ、駄目なんだなーこれが」 「…物好き」 「そ、おれ物好きなの」 悔しくて堪らない筈なのに、メイは苦笑した。 首まで伝った涙の痕を手首で拭いながら、不意に思う。 ああ、こんな奴だからいとしいんだ。 馬鹿みたいだ。不毛な、報われない想いだというのに。 なんて自分は馬鹿なんだ、と。思うけれど。 「なら、そんなあんたが好きなあたしも相当な物好きだな」 会話の続きで言ってしまった。 驚く気配がする。その様子が可笑しくて、メイはそれをじっと見詰めた。 そのまま時間が少し過ぎて、藍色がぐんぐん地平線へと近付いていく。 痺れを切らしたメイがは、さて、と何事も無かったように呟くと地面へ放り出していた鞄を背負った。 そして、ぴくりともしないロウを肩越しに振り向いて言う。 「ほら、帰るぞあほーう」 男がゆっくりと、メイを振り向き見下ろした。 かちり、音を立てて視線が合わさる。そしてにやり、飄々としたいつもの笑みが浮かぶから。メイは心底ほっとして、その拍子にもう一度だけほろり涙を零したのだ。 「おう、帰るか」 「あたしお腹空いたー駅で今川焼き食べようよ」 「ははっ、いいけどさ太るぞ?」 ロウは思い切り柵から飛び降り、佇む少女の隣へ綺麗に着地し立ち上がった。 ぴんと伸びた背筋が美しくて、メイはこっそりと見蕩れる。風を孕むワイシャツがぱたぱたと音を立てるのを気にせず放り出していた鞄を拾い上げた男に、どうしようもないいとしさを感じて胼胝のできた指を伸ばしかけた。けれどすぐに諦めて、引っ込める。 その代わりに、肩を並べぽっかりと闇の穴を開けた扉に向かって歩きながら、ぽつりと呟くように伝えた。 「せめてさ、これからも友達で居てよね」 隣から、笑う気配が伝わってくる。 恐る恐るそちらを見上げると、そこには。 「当ったり前だろ、馬鹿」 骨張った大きい手に、再び頭を捕えられる。 そうして優しくくしゃくしゃと髪を掻き乱されながら、メイは心底安心した。 大丈夫。まだ、踏ん張れる。 寂しさの欠片もない笑顔が、そこに在ったから。 できることなら、 愛しいこいつの背中に 抱きついて、やりたいけどね。 「見てろちくしょう、泣いて土下座しながらちゅーさして下さいとかいつか言わせてやる」 「んー?どうしたー?」 「なんでもなーい、今川焼き、あたしはかぼちゃ味!」 「おれクリームー!」 楽しげに揺れる二人の影は、夕闇の中に溶けいった。 2002.09.11.(2011.04.25改稿)
|
*戻る